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所長と助手

ハードボイルドとミステリアス

作者: mosuco

 カチコチカチコチ…時計の音が気になる程静かだ。いや、違う。その音しか耳に入らないんだ。

 周りの音よりも妻がくれたこの腕時計の秒針が、私の帰りを待つ妻がくれた…私の帰りを待ってくれているはずの妻が…



 そこは通勤中に通るビル。1階は理髪店、2階は薄暗い探偵事務所。

 普段の私なら気にも止めないが、今だけはこの時計の音を振り切りたくて外側に備え付けられた階段を登る。話だけ、誰でもいいから話だけでも聞いてほしい。

 登りきった目の前に消えかけの名前が浮かぶ事務的な扉。息を飲んで開くと一室が現れた。

「ようこそ、ハードボイルド探偵事務所へ」

 部屋の1番奥の机に座っていた男が立ち上がりそう言った。どうも、と軽く会釈すれば、男は目尻のシワを深めて笑う。

「立ち話ってのもなんですし、そちらおかけ下さい」

 男が示す中央の応接セットのソファーに腰掛ける。…ああ、もう後戻りは出来なくなった。

 時計の秒針のリズムが少し早くなった気がした。


 カチャリ、音を立てて目の前にコーヒーカップが置かれた。

おもわずそちらを見てみると、まだ学生だろうか…少女がお盆を抱いていた。ジッとコチラを見ていたかと思うと不意に目を反らしパーテーション奥へと消えていった。

 あまり広くない事務所だが、どうやら目の前に座っている彼だけではないみたいだ。バイトだろうか。

「まぁ本題に入る前にコーヒーでも飲んで下さいよ」

 促されなんともいえない返事を返しコーヒーを一口。温かい、当たり前だが今は味なんて分からない。

 カチコチカチコチとまだ時計は私を急かす。

「その時計、お気に入りの物みたいですね」

 話しかけられハッと彼を見る。彼はコーヒーを掻き混ぜながら続ける。

「先程からずっと見てますね。時間を気にしてるのかと思ったんですが…だったらコーヒーなんて飲んでる暇ないでしょ」

ニヤリと男は笑ってその手を止めると白い紙とボールペンをカップの脇に置いた。

「では本題に入る前にコチラの書類を書いて頂けますか?勿論、依頼人の個人情報は守秘義務ですのでご安心を」

その紙には依頼書と書かれていた。時計の音と男のコーヒーを飲む音に後押しされ、無心に質問事項を書き記していった。


城水 健一(しろみ けんいち)さん、会社員。30歳。依頼内容は奥さんの浮気調査ですか」

「はい」

 記した書類をマジマジと眺め顎を指でしゃくる。

「何故浮気調査を依頼しようと」

「見てしまったんです…仕事の営業先の帰りに、男と腕を組んで歩く妻の姿を」

 見間違いだと、最初は思った。でも囃し立てる時計を、妻がくれたこの時計をあの男もしていた。

「なるほど、奥さんとは恋愛結婚というわけではなさそうですね」

「はい、見合いで…」 フムと息を吐き、男は書類から目を離しコチラを見た。

「時計は奥さんからの贈り物で?」

「はい、私の誕生日に妻から頂きました」

 全体が金色で、それでもいやらしくなく、細いベルトでシュッとしたデザインの腕時計。少々型は古いが問題なく時を刻む。

 男はまた書類に視線を戻す。

「以前まで時計されてなかったわけではないですよね?」

「そうですね、婚約前に使っていた時計はまだ使えたんですが初めて貰ったプレゼントですし、妻も使って欲しいと言っていたので、1年程前からこの時計に」

「成る程」

 あの日からずっと大切にしていた時計…でも今は

「大体でいいので、奥さんを見た時の状況を教えて頂きますか」

「はい。3日前の夜、営業先から帰社途中に男の腕を組んでいる女性がいまして、その時にチラリと見えた横顔が妻にそっくりで…最初は疑いましたが、その、余りにも似ていて…」

「一緒にいた男の特徴など分かります?」

「全体的に黒かったですね…背は私より高かったです。顔は見ていないので分からないです。すみません…」

「顔は見てない、ね…何か違う所に目がいったんですか?」

「え」

「例えば…腕に光る金色の時計とか」

 ニヤリとまた自信ありげに微笑を浮かべた男に背筋が冷えた。

 当たっている…あの男が身につけていた時計、それで私は女性が妻だと確信した。

「何故、分かったんですか」「ハードボイルドですから」

おもわず出た言葉に男は自信に溢れた顔でそう返した。

「はぁ…」

 ハードボイルドってそう使うものなのだろうか…

「では、調査をお受けしますが、期間はどうしましょう?1週間から3ヶ月まで。延長も可能ですよ」

「期間…ですか。あ、やはり料金も変わるものなんでしょうか」

「そうですね。コチラも商売としてますので…期間は短い方が料金も優しいものになりますよ」

「では1週間でお願いします。あの、料金は先払いでしょうか」

「基本前金に半額頂くのですが…ご存知なかったでしょう、城水さん」

「すいません。あの…どれくらいでしょうか?」

「あぁ構わないですよ。料金はまた中間報告の際に頂きますので。そのかわり、その時計をお預かりしてよろしいですか?」

 男の視線の先には、また私の腕時計。

「時計を…ですか?」

「はい。大丈夫ですよ傷つけません。あぁちなみにこちらが料金となります。お目通し下さい」

 肩代わりということだろうか…それにしても

「結構…しますね」

 ヒヤリと汗が流れた。こんなにするものなのか…いや、金額はなんとかなるが。

「これでも同業に比べたら安いんですよ。そうですね、その時計を預けていただければ10%OFFとさせていただきますが」

 え…前金を無くし10%0FFまで?

 目の前の男は相変わらず微笑で私の返事を待っている。

 この時計は妻に初めて貰ったプレゼント。私だと思って離さないでいつも身につけていてねと、妻が微笑んでくれた物。

 あぁでも…この時計は、あの男の腕にも巻かれてあった。

「…では、預かって頂けますか。よろしくお願いします」

「ありがとうございます。勿論、責任をもってお預かり致します」

 時計を外した腕は、まるで重りでも外したように軽かった。

 時計の秒針の音はもう聞こえてこなかった。



 パタンとドアがしまり、3分後。男は体を伸ばした。

「あ〜久々だと肩こるな。依頼人との対応は」

「所長。肩もみましょうか」

 肩をグルグルと回す男、所長の背後に少女が立ち淡々とマニュアルの様に話す。所長は眉を寄せた。

「いいよ。遠慮する」

「それは肯定ととっていいですね」

 続く少女の言葉に所長は首を左右交互に曲げながら口を開く。

「否定だ。いいえ、だ。いいえ。第一遠慮するって言ってるだろ」

「そうですか。でしたら最初からいいえと言って下さい」

「所長に反論するのがお前の仕事じゃないだろうが。今することはなんだ?助手」

 言い合う中、所長は首を少女、助手に向ける。彼女は持っているおぼんをスッと上げた。

「依頼人と所長のカップを下げ、洗うことです」

「だったら早くお仕事しろ。俺もお前もこれから沢山やらないといけないことがあるからな」

「はい、所長」

 所長は部屋の正面奥にあるデスクに、助手は部屋の中央中心にあるテーブルにそれぞれ足を向けた。


「時計を贈る奥さんが浮気、ね」

 ハンカチに包まれた時計を眺め所長はコツコツとこめかみを叩く。

「何かおかしいのですか」

 パーテーション奥から現れた助手は疑問を尋ねる。

「以前、所長はどんな男女でも浮気は行うと言ってましたが」

 チラリと助手を見るとギッと体をチェアに預けて息を吹き出す。

「確かにどんな男女でも浮気はする。キッカケさえあればな。そして、どんな男女にも浮気されるキッカケがある」

「どういう事ですか」

「簡単に言えば両方のキッカケはイコールの関係にあるって事だ。今回で例えると…コイツだよ」

 所長が助手に差し出した手の中には先程の腕時計があった

「時計がキッカケですか」

「持っているにも係わらず、プレゼントに日常的に肌身離さず身につける時計を愛する相手に贈る。私だと思って離さずつけてね、なんて言葉も贈ったんだろうな。そんな重い愛情でそれはまるで手錠。で、その愛情に潰されて嫌になって違う女に惹かれるって事」

 得意げに話す所長に助手は頷く。

「キッカケは分かりましたが、所長の話では依頼人が浮気をする事になります」

「そう。普通なら依頼人が浮気するキッカケを持っていて依頼人の奥さんは浮気されるキッカケを持っているって事だ。なのに今回は反対の事が起きた。おかしいだろ」

「別のキッカケがあったのではないですか。よくある例で寂しかったからとか」

 得意げな所長に、首を傾げ助手は問う。

「寂しい筈はなかっただろ。これ見たらお前もそう思うぞ」

 時計をいじると中から小さなパーツがハンカチの上に落ちた。落ちてきたパーツに助手はほんの少し声のトーンが上がる。

「GPSに盗聴器…」

「これでいつでも一緒だから寂しくないな」

「では所長、浮気調査の件ばれるんじゃ」

「安心しろ。コイツは録音タイプのやつだ。毎回帰宅する旦那の時計から抜き出して聴いてたんだろ」

「預かった理由はそれだったんですか?」

「いや、実際腕時計をせずに帰宅したら奥さんの様子がどうなるか知りたくてな。ま、コレじゃ離さないでってなるわけだ」

 時計をハンカチに包むと所長は立ち上がり、右横にあるポールに掛かったコートのポケットに入れ、それを羽織る。

「明日、依頼人が来るから今の内に調べるぞ。時計の販売店とその時の奥さんの様子。あぁ、あとコンピュータ借りないといけないか」

 姿見で襟を整えながら話す所長に助手は鏡ごしに頷く。

「はい。所長」



 カチコチカチコチ…時計の音がまた耳に入る。左腕には何もない。今は時計を外しているはずなのに、幻聴だろうか…とにかく今日こそは早く時計を返してもらわなければいけない。でないと彼女が壊れてしまう。

 昨日、2度上った階段を早足で上り息を整えぬまま、目の前の扉の戸を叩く。

「どうぞ」

 男の声だ。今朝は早かったが、今度は居てくれたみたいだ。

「失礼します」

 少し上擦った声を出しながら、目の前の扉を開く。

「おはようございます城見さん。会社は何時からですか?」

 扉を開くと昨日依頼を申し込んだ時と同じ席に男は座っていた。まるで私が来るのを待っていたみたいだった。

「おはよう、ございます…会社は10時着なので時間は大丈夫です」

「そうですか!それなら少しお時間頂けますか?」

「はい。いいですが…あの、」

「まぁそう焦らないで、コーヒーどうぞ」

 相変わらず男は微笑のまま、いつの間にか用意されていたコーヒーをすすめた。しかし今はコーヒーを喉に通す気が起きない。冷や汗はかき、喉はカラカラだというのに、コーヒーの香ばしい香りが鼻につく。

「実は私が今朝来たのは昨日の時計を返して頂きたくて来ました。前金の金額も持ってきましたので、お支払いします。どうか返して頂けませんか?」

 今朝来た理由を伝え、頭を下げる。自分でも昨日の帰り道は腕も耳も軽くなり、時計を外した事にスッと気が楽になっていた。

 でも彼女は、妻は違うかった。

「奥さんに怒られました?」

 細めた男の目は笑っていない。口元は相変わらず弧を描いているが鋭くてまるで私の事が全部分かってるように見つめている。

 そんな目に気付くと口は開けど声が出ない。まだ出勤前だというのにジワリと冷や汗がシャツに滲む。

「離さないでって言ったのに、どうして無くしてくるの?早く返してもらってきてよ…という感じですか」

 一言一句、昨夜妻に言われた言葉。ただ違うのはヒステリックな声色がないこと。

「何故それを…」

 背にもたれて男は笑う。

「ハードボイルドですから」



「さて、本題に入りましょうか。奥さん、城見 登紀子(しろみ ときこ)さんの腕時計ですが…こちらは近所にある時計店で購入されたものです。彼女は常連の様で、月に何度も来てくれるとか。その度にこの金の腕時計を購入していくのだという話をお聞きしました。購入の際彼女は主人が時計を無くしたといつも言っていたみたいですが…勿論城見さんは腕時計を外したことありませんね」

 男の口からスラスラと出てくる言葉に私は頭がついていけなかった。

 月に…何度も。つまり彼女は月に何人もの男に時計を渡していたということになる。信じられない。

「まぁ、何故彼女がこの安物の腕時計にこだわるのか…店主に尋ねたんですね。その腕時計を製造販売した会社は倒産し、今では製造販売は勿論、返品修理もできないそうですが…この時計、実は既存の腕時計よりも簡単な造りになってるみたいで、手先の器用な人なら自分で修理できるみたいなんですよね…確か彼女の元勤め先が精密機械を受け持つ会社、趣味はドールハウスでしたね。なるほど、手先が器用そうだ」

 昨日訪れた際に書いた内容だ。妻の結婚前の勤め先に趣味。何故書かなければいけないのかと、思っていたが…まさかこんな風に改めて聞かされるとは思わなかった。

「奥さんは時計を渡す際にこうも言ったでしょうね。壊れた時は言ってね。私が直してあげるから、と」

「なんでそこまで…」

「あぁ城水さんも言われましたか」

 そこで男はコーヒーを一口。カップを離した口元はニッと上がる

「ですがね、城水さん。こんなことで驚いてちゃあ倒れてしまいますよ」

 まだ何かあるのか…ゴクリと唾を飲み込み膝の上で拳を握る。

「城水さん、あなたは昨日、奥さんに伝えましたか?私に時計を預けたと」

「いえ、その、外回り中に無くしてしまったと…」

「なるほど。無くしたと、では何故奥さんは返してもらってなんて言ったのか…気になりませんか」

「え」

 男の言葉が最初理解できなかった。でもそれは次第にジワジワとシャツを濡らす汗と比例して染まっていく恐怖。

 そうだ無くした物を返してなんておかしい。探してなら分かる。…知っていた?でも何故?話してない。預けたなんて彼女には伝えてない。

「ちょっとこちらに来ていただいてもよろしいですか」

「は、はい」

 男が立ち上がり奥の机へと移動する。それについて行き、ようやく私は昨日との違和感に気付いた。

 机の上には昨日なかったコンピュータ。旧式のモニタ内蔵型の物がある。

「流石に先にお聞きするのはまずいと思ったので、いきますよ」

 男がマウスを操作しクリック音が響く。そこから流れたのは

「おはようございます」

「本日はお時間頂き誠にありがとうございます」

「よろしくおねがいします」

「あぁ昼か」

「じゃあ行こうか」

「仕方ないだろうね。部長がそう言うんだから」

「お疲れ様です」

 日常。聞いたことがない低い声で話す言葉は聞いたことがある言葉。それから遠くから聞こえる聞き覚えのある声、音。

「見てしまったんです…仕事の営業先の帰りに、男と腕を組んで歩く妻の姿を」

 っ、これは

「昨日の、会話」

 カチリ。クリック音で室内は静かになる。

 何故昨日の会話が録音されていた?あの低い声は私なのか?誰が?どうして?…今も?

「昨日の会話、間違いありませんね?」

 男の問いに頷く。

「なるほど。ではコレは間違いなく盗聴器ですね」

 男の手には小さなパーツのようなもの。盗聴器、コレが。

「どうして私に盗聴器がついているんですか!?私、何か狙われていたりしてるんですか!!」

「落ち着いて下さい、城水さん。命に関わるものではないですから安心してください」

 命に関わらなくても、盗聴されていたという事実は怖い。気味が悪い。

「コレは貴方の腕時計から発見されました。GPSも一緒に」

「腕時計から…?GPSも?」

 何故腕時計に。もしかして

「貴方の奥さんが仕込んだ物と考えられますね」

 クラッと目眩がした。

「そんな、馬鹿な」

 まさか、彼女が、一体、いつから?

「腕時計の返却の件ですが」

 嫌だ。怖い。だってそれは

「いらない…そんな、恐ろしい時計…無くした、見つからなかったって」

 そう、見つからなかった事にしよう。もう嫌だ。時計、見たくない

「わかりました。コチラで処分致しますね。あぁこの盗聴器は録音タイプなので昨日の会話は奥さんに聞かれてはいませんよ。もちろん、浮気の調査依頼も」

 そうか…浮気の調査、聞かれてたのかもしれなかったのか。よかった。聞かれていたらどうなっていたか…考えればゾッとする

「調査の件ですがこのまま続行されますか?流石にコレ以上の事は起きないとは思うんですが…調査結果は離婚の際には有利になりますしね」

 離婚。そうか結果があれば彼女と別れる事ができるのか。

 この歳で独り身に戻るか…でも今は子供もいないし、何より彼女は私に盗聴器、GPSをつけてるんだ。別れられるものなら別れたい

「続けて下さい。お願いします」

「わかりました。では2日後にまた中間報告させて頂きますね」

 頭を下げた私に降り懸かる言葉。私はそれに心底安堵した。



「依頼人、怯えていましたね」

 空のカップと中身の入ったカップを下げ助手は呟く

「そりゃ誰だって自分の知らないところであんなことされたらああなるさ。まだ依頼人は冷静の方だ。気が狂って暴れるヤツもいる」

「所長は何故伝えたんですか。依頼人が暴れる所が見たかったのですか」

「違うよ。そんな事されてみろ事務所、目茶苦茶になっちまうだろ」

「目茶苦茶になる前に私が止めますが」

「…ま、伝えといた方が奥さんに不信感持つだろ?依頼人の性格上、飼い馴らされてるみたいだし予防線張っといた方がバラさないだろ」

 所長はギッと椅子を鳴らすと助手はパチパチと瞬きをした。

「さて、じゃあ次の段階だ。コンピュータ返すついでに依頼人のお宅拝見だ。今日は動いてくれるといいが」

クルリと椅子を回転し、所長は立ち上がりコートを羽織る。

「行くぞ助手」

「はい所長」

 年期の入ったハットを被り、机の上のキーを握り歩きだす所長。その後ろからコンピュータを抱えた助手が追いかける。



 今朝も同じ時間同じ動作で彼を送り出した。単調で変わらないスタート。でも今朝は違った。ううん変化は昨夜からだった。

 私の優しい優しい旦那が私を無くしたのだった。

 彼が仕事上忙しく色んな所に行くのは知っている。それでも私は優しい優しい彼と傍にいたいから私の分身をあげた。

 キラキラ光る腕時計。それはグレーのスーツを着る彼にとって目印になるくらい目立つ。指輪なんかよりも目立つ私の愛の証。それは私がいない時のあなたを知ることが出来るの。

 それなのに彼は私を無くした。酷い、酷すぎる。彼が居ない独りぼっちの家で、私は毎日、昨日の彼と過ごすのに。それで寂しさを解消してたのに。

 仕方ないから今日は彼にしよう。1週間前に私を好きって言ってくれた彼のを聞こう。この彼も私が居なくて寂しいって感じてくれてるのかしら。それだったらなんて素敵だろう。イヤホンから聞こえる彼の声。若くて張りのある声、彼はガソリンスタンドで働いてるのね。今もそうなのかしら…モニタには同じ敷地を往復して動く今の彼を表す赤い点。結構近いし今度居ってみようかしら。きっと彼ったら驚くでしょうね。

 …あら、あの彼からだ。出逢って4日経つ彼からの電話。停止のボタンを押してイヤホンから電話に変えて耳にあてる。

 もし彼に逢えるならまた私を満たしてくれる彼が手に入る。嬉しくなった私は通話のボタンを押した。

「もしもし。登紀子です」


 ここらに長く住む私には他の若い子と違って結構勘が鋭くなるもんだ。ご近所の噂の真相も私には分かるのさ。

 最近はそう、新居に引っ越してきた若い夫婦の奥さん。あぁそうそう、城水さんね。まぁまぁ綺麗だとは思うがあれはとんでもない女だね。不倫してるよ。それも色んな男を取っ替えひっかえ。全く、嫌だね最近の若いのは…亭主関白の私の頃には考えられない。気弱な旦那だけど籍を入れたのなら大切な旦那様だ。旦那様をたてて、二、三歩後ろに立つってのが…何?腕時計?あぁしてたね。趣味の悪そうな金ぴかの時計。目立っててしょうがないよ。

 趣味の悪いといえば男の趣味も悪いねあの女は。知ってるかい、黒浦(くろうら)組。そうそう、ヤバイ連中さ。あそこの若いのとさ、この前歩いていたんだよ。腕なんか組んでね。全くいやらしい。え、いつかって?最近だよ最近。そんな細かい事は覚えてないんだから。いいだろう。いちいち細かい事気にして。アンタ男のくせにねちっこいね。もっとドッシリと構えな、うちの人はそりゃあドッシリとガッシリしていていい男だったのに。最近の男は

「いえ、もう結構ですので。お話ありがとうございます」


 市内某所の住宅地。

 一台のワーゲンがヒッソリと停止している。運転席に乗り込み座ると、そこで所長は息を吐いた。

「動きはなかったです所長」

 助手席に座る助手は手の中の文庫本に視線を落としたまま声をかけた。横目でそれを確認し、所長はまた息を吐く。

「ゴクロウサマ」

 刺のある所長の一言に助手は視線を左に向けた。

「所長も長時間ご苦労様です」

助手の言葉に眉間を狭め、への字にした口を開く

「ああいう女性ってのはどうして無駄話が多いんだろうな。理解できないね、まったく」

「情報量が多いのは美味しいのではないんですか?」

 緩く首をふる。

「何事も腹八分だ。旨味が分からなくなっちまうだろ。大体、要らん情報で腹一杯にはなりたくないからな」

 狭い車内で所長が大袈裟に身振り手振り動かし、助手はただひとつ頷き顔を文庫の方へと戻す。

「成る程。必要な情報を手に入れたんですね」

 助手の言葉に宙を切った手を下ろし目の色を変えた。

「…ああ、早くしないとヤバイかもしれないな」

「ですがまだ、ですね」

 所長の顔を一度見ると栞を挟み閉じる。

「そうだな。俺達はあくまで奥さんの浮気の証拠を撮らないといけない。…巻き込まれるのはいい加減勘弁してくれよ」

 独り言のような言葉尻で、所長はポスと、頭をシートに預けた。



 まだ日が明るい。今は昼の13時、明るくて当たり前だ。けれどスーツ姿で公園にいるのは当たり前の光景ではないだろう。

 会社に行っても、調子が戻らなくて早退を言い渡されてしまった。いや、早退じゃないか。貯まっていた有休に宛てがわれたんだった。

 しかし家には帰れない。いや帰りたくない。

 だからあのハードボイルドだという探偵の所に行こうとしたら、昨晩と同じ[調査中の為不在中]という紙が貼付けてあり、鍵がかかっていた。

「どうしよう」

 本当にどうしようもなくなって呟く。

 家に帰るしかないのか、けれど彼女の仕出かした犯罪が、いや犯罪を仕出かした彼女が怖い。あの笑顔も暖かい料理も綺麗な部屋も全部が恐怖の対象だ。彼女が関わるもの全てが。

 キィ。突然鳴った音に顔をあげる。公園にあったブランコが揺れていた。

 キィ、キィ。ぼんやりと揺れるブランコを見ていると、ブランコ奥に見たことがある姿があった。パッと視界がハッキリする。

「君!ちょっとそこの君!!」

 名前を知らないから呼びかけに反応しない。急いで立ち上がって鞄を揺らしながら走る。

「依頼人」

 コチラに気付いた少女も私を覚えていてくれた。よかった、あの事務所にいた少女だ。

 表情を変えずに少女もコチラに足を向けてくれた。

「猫をみませんでしたか」

「え、猫?」

 傍に来た途端に少女は尋ねてきた。予想もしなかったことに尋ね返す。

「猫です。黒い色をしています。そうですね、毛の質感は所長に似ているんですが」

 ツラツラと猫について細かく話してくれる。ペットなのかな。事務所には猫の影らしきものは見当たらなかったけど…

 揺れたブランコを見ても猫は見てなかったし、この子には悪いけど、期待させるのは悪いし。早く言ってあげた方がいいな。

「いや、見てないよ。悪いね…あぁ、そうだ君に聞き」

「そうですか」

 被さるように少女は言った。呆然とした私にあっさりと少女は背を向けた。

「ちょ、ちょっとまってくれ!」 慌てて少女の肩を掴むと、変わらない少女の視線を向けられ、なんだかゾクリと背中が冷えた。すぐに肩から手を放すと少女はまたコチラに顔だけ向けてくれた。

「なんですか。猫を見てないのなら今の依頼人に聞くことはもうありません」

「す、すまないね。あの事務所に行きたいんだけど」

 よほど猫を探してたんだろう。バッサリと言い切られてしまった。全然表情は変わらないが怒ってるみたいだし…なんだか、読めない子だな

「所長に何か」

「あ、あぁそうなんだ。所長さんに話したいことがあってね」

 しばらく置いて貰えないか相談したいし話したい事はある。

「所長は只今調査中です。事務所にはいません」

「そう…」

「はい」

 そうか、調査か。もしかして今日も彼女は誰かといるのだろうか。もしかして彼女が私にあんな物を付けた理由は浮気をスムーズに行う為にだろうか…。

 今までのことを振り返っても、帰ってくる時間が変わっても彼女は必ず出来立ての食事と温かい風呂を用意してくれた。

 私が帰る迄の間に他の男と過ごしているのをバレないために…あぁ駄目だ。やっぱり帰りたくない。目の前の少女に、事務所に入れてもらえるよう頼もう。

 顔を上げると少女は遠くに背を向けて歩いていた

「ちょ、ちょっと待ってくれ!!」

 少女は無言で振り返る。表情はずっと同じだけどこれは確実に怒らせたみたいだ。私はまた走る。

「事務所で待っていたいんだ…お願いします」

「わかりました」

 頭を下げれば少女は言った。よかった。ホッと胸を支えるも、少女はまた間隔を空けていた。私は胸を押さえ、慌てて少女の後を追った。


 都内某探偵事務所。時刻は夕方を迎え、薄暗い事務所には蛍光灯の明かりが灯る。

 中央に鎮座されている応接セットには鞄を抱きしめる依頼人が居心地悪そうに座り、向かいにはカップとシュークリームの箱が置かれたテーブルを挟み、助手が黙々と手元の雑誌に顔を向けていた。

 時間が刻々と過ぎる中、俯いた顔を上げた時、パタンと助手が雑誌を閉じる。

「え、あの」

 顔を上げたものの助手の行動に依頼人は言葉にならない声をもらす。それに全く触れず助手は立ち上がるとパーテーション奥へと引っ込んでいった。

 カチン、チチチ…ボッ。響いた音に彼はチラリとテーブルに視線をやる。目の前には2分の一が入ったカップ。しばらく見て首を傾げる。

 カチャリ。扉から聞こえた音に依頼人は肩を跳ねると、そちらを見た。

「おや、お客さんかなぁ」

 現れた男は目を一度大きく見開くとすぐにニッコリと笑った。人の良さそうな笑顔に依頼人は肩の力を抜かす。

「隣いいかな?」

「あ、はい」

 依頼人は左に寄り、空いたスペースに男は座る。恰幅のいい男が座り、ソファーは窮屈そうに見える。

「珍しいねぇ考助(こうすけ)君が依頼を同時に2個もこなすなんて」

「依頼は1つだけです」

 男が呟いた独り言に戻ってきた助手が答える。

「ありがとう」

 助手が持ってきた新たなカップに男はまた笑顔を浮かべる。

「所長はまだ時間がかかるようです」

「そうかぁ。話、聞いてほしかったんだけどなぁ」

 助手の言葉に男は残念そうに眉を下げコーヒーを口にする

「うん、おいしい。これね、うちの店のオリジナルブレンドなんだ。インスタントと違って深みあるでしょ」

 ニコニコと男が隣に語りかける。依頼人はキョロキョロと視線を見渡してから頷く。

「え、あ…そうですね。あの、店?」

「僕ね、喫茶店のマスターやってるの。喫茶マリアっていう、近所の商店街からちょっと離れたとこでね。よかったらお客さんも来てね」

「そうなんですか」

「最近は通販っていうのも始めてねぇ。さるかに運送に配達してもらうんだけど…あれ?かにさるだったかな」

「さるかに運送ですよ」

「あぁそっか。さるかにだね」

 笑う男に釣られ依頼人もヘラリと笑う。助手は先程の指定席に戻り雑誌を広げた。

 ジリリリリ。緩やかな空気になった室内に煩い音が呼ぶ。三人はそれに視線をやる。

 ジリリリリ。ガチャ。助手は受話器を取り、室内はまた静かになる。

「はい。こちらはハードボイルド探偵事務所です。はい…はい、わかりました。そちらに向かいます」

 ガチャン。

「考助君?」

 受話器を置いた助手に声をかけたのはマスターの男。振り向いた助手は頷く。

「申し訳ありませんが、事務所を閉めます。今日はこちらに所長が戻ることはありませんので」

 最後にペコリと頭を下げる。

「うーん、そっか。残念だけど仕方ないかぁ」

 余り残念そうに思えない間延びした言葉を返すマスターの隣で依頼人は上半身を落としていた。

「依頼人」

「はい…」

 声をかけられ、視線だけ助手に向ける。

「今日一日は家には戻らない様お願いします」

「え、何故ですか」

「…調査の一環です」

 依頼人からの問いに助手は少し言葉を詰まらせながらも答えた。

「そうですか、わかりました」

「ありがとうございます」

 すんなりと受け入れた依頼人の顔はホッと綻ぶ。その会話の中、マスターはポンと掌を叩く。

「だったらウチに来なよ。1人くらいなら泊められるし」

「いいんですか?では、お言葉に甘えます…」

 マスターの言葉に依頼人はペコリと頭を下げた。

「よかったら残りどうぞ」

 残ったシュークリームの箱を閉め、助手はマスターに差し出す。

「あれいいの?じゃあ頂いちゃおうかな。それじゃ雨子(あめこ)ちゃんも気をつけてね」

 パタンと閉じられた扉に助手はカップを下げるべく立ち上がった。



「どうみても普通の家だけどここで会ってんだよなぁ」

 眺めればヤスがガサゴソと音をたてメモをとりだす。あんま音たてんじゃねーってのにこの馬鹿は。

「ウッス。確かにメモの通り間違いないッス」

「閑静な住宅街に一戸建てとはなぁ…流石の俺様でもこりゃ手こずりそうだわ。物音たてんじゃねぇぞ」

「ウッス。物音たてずに見張るッス!」

「本当にわかってんのか」

 でかい声で返事する馬鹿はほっといて侵入させていただくか

 カチャカチャカチャ…カチャン

「よし、開いた。おら、行くぞヤス」

 振り返ったその時。目の前の大きな図体がバランスを崩し前に倒れた。

「は?」

 倒れたヤスの先には女の子。こりゃ面割れたな…悪いが始末させてもらうか

「なんだぁお嬢ちゃん?こいつは見せもんじゃねぇんだ。大人しく黙って去ってくれや」

 笑って背後でナイフを出す。背を向けたところをグサッとひとつきだ。さぁ行ってくれ。行ってくれよ

「は?」

 気がつけば目の前には誰も居なかった。さっきの子逃がしたか?俺様がそんなヘマしちまうか?幻覚だったか?いや、確かに居たは

「ずっ」



 都内某港倉庫。夜も更け、明かりもなく辺りは静かな闇。

 番号が印された倉庫が一列に3棟、計15棟並ぶ中、大通りに近い15と書かれた倉庫の壁に、ピッタリと停められたワーゲンに、もたれる所長は手持ち無沙汰にインスタントカメラをいじる。

「所長」

「おぉ案外早かったんだな。向こうの対応も」

 声をかけられ振り向かずに口角を上げ所長は話す。それに何も答えず現れた助手はジッと所長の手の中のインスタントカメラに視線をやる。

「いい加減インスタントカメラ止めませんか」

「コレでいいんだよ。車のローンも残ってんのに高い金払えるか」

「インスタントカメラはハードボイルドじゃないですよ」

「お前がハードボイルドを語るにはまだ早い。それより何人だった?」

 眉間にシワを寄せた所長は話をすり替える。

「何人だと思いますか」

「2人」

 アッサリと答えた所長に助手は暫く黙り渋々といったように口を開く

「…はい。2人組の男でした。気絶させてから、とりあえず近所の公園に置いてきました」

「上出来だ。じゃもうひと仕事だ」

 パチンと指を鳴らし、カメラを助手に投げ渡す。

「5番倉庫にいる女性と黒いジャケットに赤いネクタイの男のツーショットを撮ってこい。なるべく二人が接近してる奴をな。写真の撮り方わかるよな?」

 受け取った助手は頷く

「カメラの使い方も理解してます。それ以外はありますか」

「お前に任せる」

「わかりました」

 助手はカメラをショートパンツの右ポケットに入れ、音もなく去った。

「結局は巻き込まるわけだ…」

 月も隠れた空を見上げて所長はぼやいた。


 彼に連れられて来た場所はなんだか埃っぽい。

 見せたいものがある。彼はそう言った。私に目隠しまでして意外とロマンチックなのね。

 でも早く帰らなきゃ。彼が帰って来てるかもしれない。早く帰って夕飯とお風呂の用意しなくちゃ…私を愛してくれる以上に私も愛してあげなくちゃ

「ねぇ、見せたいものって何かしら?」

 早く見せてもらってウチに帰ろう。彼には悪いけど私には待っている人がいるの

「あぁお待たせしました」

 ハラリと目の前に急に明るさが入ってきた。瞬きを繰り返すとそこには彼と沢山の男の人が見えてきた。

「貴女に見せたいもの、それはコレです」

 彼はいつもと同じ優しい顔で私のあげた時計を見せた。

「私の時計?」

「正確に言うとこっちですね。この中身です」

 もう片方の握った手を開く。中には私のカケラ。2つ、時計の中に入っているはずの物があった。

「どうして…」

 どうして、取り出したの。だってそれは私なのに

「それはこちらがお聞きしたい。まさか一般人がこんなマネするなんて思わなかったんですから」

 バキ。手の中で二つだったカケラが細かくバラバラになって地面に落ちていく。

「こういうの僕の商売には迷惑なんですよねぇ。それで、このデータは警察に売り付けたんですか?それとも別の組?」

 売り付ける?彼は何を言ってるの。そんなことするわけないのに。だって彼は言ったわ。好きですって、愛してますって。

 だから私も愛してあげたのに。会えなくて寂しいって言うから私を傍に置いただけなのに。迷惑なんてひどい。ひどい。

「まぁ社会勉強にはなりましたね。怖いもんだ…女ってのは」

 コツコツと彼は近付いてきて、私の顎を掴んで上げる。滲む先には私を愛していた彼。でも今は彼を愛しく思えない。悲しい。すごく悲しい。

「最期になるんでご褒美あげましょうか。貴女にとっても、僕にとってもね。」

 ゆっくり近付く顔に、最期という言葉が繰り返す。ああそういえば彼にあんな怒鳴ったの初めてだった。

 あんな風に見送ったのが最後になるなんて…困った顔していた。だから今日は彼の大好きな肉じゃがつくってあげなくちゃって、時計はまた用意すればいいやって、思っていたのに。ごめんなさい。ごめんなさい、健一さん。

 パシャ。

響いたのはシャッター音。触れるリップ音でも、悲鳴でも断末魔でもない。

「誰だ!」

 目の前で彼が左を向く。釣られて向けば女の子がインスタントカメラを構えて立っていた。

「何をした…今、いやどこから入ってきたんだ」

 彼も女の子が意外だったのかブツブツと呟いている。カメラを顔から離すと女の子は首をかしげた。

「はいチーズ、と言うべきでしたか?何故写真を撮る際に乳製品を言うのか理解できませんが」

「な、馬鹿にしてるのか!お前らやれ!この餓鬼も女と一緒に沈めてやれ!!」

 彼が叫ぶと周りの男の人が女の子に襲い掛かる。

 危ない、ギュッと目をつぶれば痛い音と低い唸り声が、最後に隣で何か地面に落ちた音が聞こえた。

 急に静かになって、瞼を上げる。そこには彼が震えて腰を抜かしていた。

「う、嘘だろう…そんな馬鹿な」

 カチカチと歯を鳴らして彼は言った。

 彼の視線を辿ればまっすぐ立った女の子。辺りには沢山の男の人と一緒に廃材や鉄パイプなんかが倒れていた。まさか…この子がやったっていうの?

「ヒィ!来るな、来るなぁあ!!」

 隣から情けない悲鳴をあげた彼は後退りをする。女の子は近付いて彼を追い詰める。

「来るな化け物!!」

「おいおいウチの助手に化け物って言える口か?黒浦組の若頭さんよ」

 背中から聞こえた落ち着いた声に振り返る。

 トレンチコート姿に深く被った帽子、覗いた口元は口角が上がって、顎は声のわりにはシャープで年齢を予想できない男性が立っていた。

「所長」

「なんだ、なんなんだお前らは!どこから頼まれた、誰に雇われた!」

「まったく、噂通りの被害妄想が酷い男だな。だから自分の手を汚さずに人身売買なんて酷い事できるのかもな」

 声を荒げる彼に男性は呆れたように話す。

 いろんな事が起こりすぎて内容は頭に入ってこないけど彼が悪い人だというのは分かった。

「ひ、何故それを…マスコミや警察にもばれてないのに…この女か!この女を使って僕に近付いたのか」

 腰を抜かしたまま彼が乱暴に私の腕を引っ張る。もう今の彼はあの時のような優しさを少しも感じない。これが、本当の彼。

「助手」

 男性がそう言ったと思えば私の腕から痛みが退いた。

 彼は私から離れた場所に倒れていて、女の子が片足上げた状態から姿勢を正していた。

「よくやった。騒ぐだけ騒いで煩い男だったな」

 彼を眺めてこちらに近付く男性には彼のような恐怖を感じない。女の子と同じ、悪い人ではない。けどなんとも言えない違和感を感じる。

「あの…」

「ああ、お気になさらないで下さい城水登紀子さん。直に警察も来るんで色々聞かれると思いますが正直に話して下さいよ。複数の男相手に盗聴器仕込むってのは犯罪なんでね」

「え」

 ニッコリ笑う男性は何故私の名前を?何故私のやったことを知っているの?

「旦那さんを信じてあげるってのも愛してる証になりませんかね。証ってのは何も姿形があるものじゃないでしょう」

「愛してる証…」

 諭すような男性の言葉、それは私の胸に染み渡ってジワジワ熱くなる。

 証、それは目に映るもので目立つものだと思っていた。愛だって与えられる以上に与えるものだと思って、愛し合うなら傍にいなくちゃいけないと思っていた。…私は間違っていたの?

「では。帰るぞ助手」

「はい」

「待って!」

 隣を通り過ぎる前に女の子の腕を咄嗟に掴む。女の子は止まって私を見る

「助けてくれてありがとう」

 それだけを伝えて手を離す。この子が来なかったらきっと私は生きていなかった。

 女の子はパチパチと瞬きを繰り返すと視線をずらした。

「…いえ。私はお仕事をしただけですので」

 それだけを言って男性の後に続いて去って行った。

 残された私は膝をついた。遠くから聴こえたサイレンの音に目をつぶる。思い浮かぶのは初めて出会って以来、見ていない彼のはにかむ笑顔だった。



 都内某探偵事務所。行楽日和の祝日の昼にピッタリな晴々とした声が響く。

「ありがとうございます!本当にありがとうございます!!」

「いや、そんなに何度も言わなくてもいいですよ。席に着いて下さい」

 出入口の扉の前で何度も頭を下げる笑顔の男に所長は苦笑を浮かべ着席を促す。それに片手で断りをいれ、男は頭の上げ下げを止めた。

「いえ、調査だけでなく妻の命まで救って頂いて本当にありがとうございます」

「それはまぁ成り行きでなった結果でして、あぁ城水さん奥さんとは別れるのですか?」

 喜々として見つめる男に視線を反らし所長は話題を変えた。男は目を伏せて感慨深げに口を開く

「…彼女がやったことは許される事ではありませんが、彼女から理由も聞きまして、今まで夫婦らしいこと所か恋人らしいこともしてなかった私にも責任はあります…なので、彼女が出所したらやり直すつもりです」

「そうですか」

 男の決意表明に所長はただそれだけを返す。男は頷くとまた笑う。そして左腕の金色に目をやり、小さく声を漏らした後、また所長に視線を合わすと一礼した。

「ではこの辺で失礼します。この後も面会に向かうので。ではありがとうございました」

 最後まで丁寧な男は静かに扉を閉じて事務所を出た。

「まぁお似合いかもしれないな。あの夫婦は」

「所長…」

 扉を眺め所長は溜息を吐きつつも微笑む。助手はそんな所長を雑誌を片手に見る。

「さて、事件も解決したし祝賀会とするか。俺のシュークリームちゃんってあれ?確かにここに入れて置いたはずだよな」

 鼻歌混じりに立ち上がりパーテーション奥のシンクの向かいにある戸棚の1番上の戸を開く。すぐに鼻歌は止まり眉間にシワを寄せ中を覗きこむ。暫くして顎に手をやり、ソファーに腰かける。

 それを眺めた助手は雑誌をめくり口を開く。

「所長、シュークリームですが昨日依頼人とマスターが食べてしまいました」

 助手の言葉に所長は目を丸くし、暫く呆然とした後にフルフルと震えだした。

 助手は雑誌を閉じてカップに手を伸ばす。

「お、お、俺のシュークリィィィムゥウ!!」

「ドンマイです所長」

 ヒョイとカップを回収した助手の後に所長が力いっぱい叩いたテーブルはガタンと大きな音をたてた。

「うぅくっそ…依頼料、1週間分取ってやりゃあよかった…いや、この際コーヒー代チャラにしてもらって…」

「所長、シュークリームがないのならこの店で祝賀会しませんか」

 ブツブツぼやく所長に助手は雑誌のあるページを開く。所長は一見し、顔を背き溜息を吐く。

「外食は嫌いだって言ってるだろ。しかもそんなキラキラした店…ハードボイルドな俺には似合わ」

「特製デザートプレートが特別に今日だけ無料サービスのようですが」

 被さるように助手が進言すると、所長は今度はジッとページを見つめると唸り声を上げ髪をかきむしると立ち上がった。

「…っしょーがねーなー今日は久々の依頼だったしお前も頑張ったもんな!行くぞ助手」

「はい、所長」

 コートを羽織り帽子を乗せ、扉に向かう所長に助手はいつもと変わらない返事をし、後ろについて事務所を後にした。

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 なんちゃってハードボイルド文体とキャラクタの感情描写を織り込んでみましたが…いかがでしたでしょうか?この話に、少しでも何か反応していただけたら幸いです。


 この所長と助手シリーズは1話完結ものですが、話が進む中で主要キャラクタ、所長と助手の2人がどんな人物か、関係かジワジワと判明していきますので、よかったら次回も読んでくださると嬉しいです。


 次回、所長と助手 第二話 オジサマとオネエサマ

 どうぞよろしくお願いします。


※この物語はフィクションです。実在の人物、団体名とはいっさい関係ありません。浮気も盗聴器も人身売買もくれぐれも真似をしないようにお願いします。

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