タカヒトのいた世界
「なんの因果かわからぬが主は狭間におる。それで・・・・。」
とくべえは淡々と話を始めた。もちろんタカヒトには何を話しているのか、最初は全く理解が出来なかった。タカヒトが生きていた世界を人道と呼び、ほかに天道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道などから構成されてこれらをまとめて六道と呼ぶ。人道に人間が生きているようにほかの世界にもそこで生まれ生活している者達がいる。狭間とはすべての世界を繋げる鎖のようなものであるがいつでも繋がっているわけではなく、繋がったり途切れたりを繰り返しているらしい。どうして狭間が存在しているのかはとくべえにもわからなかった。本来死んだ者は狭間を通らずに別の世界に堕ちるようになっているが稀に狭間に堕ちる者がいるとのことだった。
「よく分かんないよ。テンドウとかジンドウとか・・・何のこと?」
とくべえはタカヒトの隣に座るとゆっくりと語った。天道とは人間の言ういわゆる神様の世界、修羅道は血で血を洗ういくさだけがすべての世界、畜生道は獣や物の怪のいる世界、餓鬼道は死を待つ世界、そして地獄道は六道の中でもっとも業の深い世界である。タカヒトは真剣にとくべえの話を聞いていたが突然のことでそしてあまりに大きすぎる話になかなか理解出来ない。
「うぅ~ん・・・あまりよくわからないけど、狭間ってどこにも属さない場所なんだね。
それでどうすれば戻れるの?」
「戻る?タカヒトは人道に戻りたいのか?」
「戻りたい・・・あれ?戻りたいって・・・なんでここにいるんだ?
戻りたいって・・・何処に・・・僕は戻るつもりなんだろう?」
タカヒトが戻りたいと願う場所はどこなのか?タカヒトがこの狭間に堕ちるキッカケとなる事件は彼がまだ人道にいるときに起こった。
「五味先生・・・まだですか?はやくしてくださいね。」
「はっ、はい!すっ、すみません!」
隆人の担任教師の五味は頭を下げ続けた。彼女は今年入ってきたばかりの新任の教師だ。学校を変えていこうと夢を抱いて教師になったわけだが現実は違う。いや実を言うと彼女はこの学校が教師生活の最初だったわけではないのだ。この学校へ来る前に別の学校へ行っていたがその学校をやめている。理由は体調を崩した為である。そのように児童やPTAには伝えたが実際は重度のうつ病に悩まされていた。当時、五味先生はその学校で四年生を担当していたが進学校であったために親からの進路に関する問い合わせが異常に多かった。電話での対応も多かったが学校に児童の保護者が乗り込んでくることもあった。五味先生は校長と共に対応に当たったが彼女は保護者が帰ったあと校長に頭を下げていた。 五味先生は世間で言う要領の悪い人だった。教室での保護者と児童との三者面談があった日のことだ。一日八名の児童との面談をこなさなくてはならないのだが彼女は・・・。
「先生、聞いてよ!うちの馬鹿息子ときたら・・・。」
「は・・・はあ・・・・。」
「先生は結婚なされてないから子供の気持ちとかわからないかもしれないですけどね。
私の教育方針としては・・・。」
「えっ・・・ええ、そうですね・・・。」
「先生!うちの子はどんな事をしてもあの進学校のT学校にお願いします!」
「・・・・」
保護者の子供に対する愚痴、教師相手の自分勝手な教育論、雑談、成績を考慮せず無理な有名学校への合格希望など保護者の一方的な相談に振り回され面談をこなせなくなっていた。五味先生は保護者や管理職の教師・同僚の教師から出来損ないのレッテルを貼られ苦しんだ。
「まったく、五味先生は段取りと言うか・・・要領が悪いですな!」
「ほんと、私などあの人の尻拭いばかりしてますからね!」
「がっはっはっはっ、まあまあ、先生方そう言わずに!
五味先生もあれでも頑張っているんだと思いますよ!たぶんね。あっはっはっはっ。」
周囲の五味先生への態度は児童にまで伝わり児童すら五味先生の言う事を聞かなくなっていた。まさに学級崩壊である。その頃、国による教育改革が提唱され新学習指導要領が発行された。現場の教師への負担はさらに重くなり五味先生は夜遅くまで教育指導に関する文書作りに追われていた。五味先生には教師の教育能力向上プランも適用されて自身の教育に関する論文も作成しなければならなかった。 教科指導、児童指導、校務分掌や雑用、学校行事の準備。管理職からの叱咤、保護者からの罵声、同僚の教師からの無関心、無協力、児童からの無能者扱い・・・心も身体も次第に衰退して心身崩壊のもと学校を去ることとなった。
「お父様・・・私はもう教師には・・・」
「学校のほうには私から説明してある。おまえも兄の立場を考えなさい。」
五味先生がうつ病となり入院してから三年の歳月が過ぎていた。病状もすっかり良くなり五味先生は退院していた。五味家は兄が教育委員会に勤めて若くして管理職に就いているエリート。父親は国立大学の名誉教授で学校教育論を唱える著名な人物であった。五味先生は学校とは関わらない仕事に就くつもりでいたが父親と兄がそれを認めない。五味先生はもう一度教師にさせられてしまいその学校が隆人達の通う学校だったのだ。
「五味先生・・・まあ、いろいろ聞いてはおるが宜しくお願いするよ。」
校長は五味先生の教育能力を通知にて把握はしていたが教育委員会の決定には逆らえず五味先生を学校に受け入れた。こうして五味先生は教師生活を再スタートさせたわけだが以前と違い進学校ではないこの学校では五味先生を悩ませる保護者はあまりいない。新学習指導要領が普及してかなり経ったので教師達の負担も以前と比べると落ち着いていた。ただそれでもまったくないというわけではなかった・・・。
「五味先生!隆人君が苛められてるみたいです。」
「えっ?・・・イジメ?」
隆人と同じクラスの白鳥実花が職員室にいる五味先生に報告していた。
「わっ、分かったわ。すぐに行くから・・・。」
実花を教室へ帰したが五味先生はその場を動かなかった。新学習指導要領により教師の児童へ対する体罰が禁止されている。口だけで言って言うことを聞く児童だけではなく以前は手をあげたこともあった。しかし新学習指導要領により手をあげれば教師が罰せられるのである。児童にもいつのまにか新学習指導要領の内容が伝わり教師が手をあげなくなると知るとその行動はどんどんエスカレートしていった。担当するクラスには五味先生と同じ位の身長の緒方大樹という児童がいてイジメっ子のリーダー格である。五味先生は大樹を恐れていた。前の学校での数々の負担、恐怖感が大樹と重なったのである。それを悟られないように自分では行動していたつもりだった。しかし大樹は頭のいい児童で五味先生の自分への態度を察していた。その上で大樹は自分を筆頭とするクラス造りを始める。どんな生態系でもそうだが天敵さえいなければその生物は増え続ける。五味先生の経験不足と恐怖感が強者と弱者を作り上げ大樹を筆頭とするクラスの児童が隆人をいじめる構図が出来たのである。
「おい、隆人 ちょっとこっちに来いよ!」
「えっ?・・・・うっ、うん・・・」
放課後になると隆人は大樹達に呼ばれて男子トイレに入っていった。服を脱ぐように指示されたが隆人はそれを拒絶した。激怒した大樹が隆人の腹部をおもいっきり蹴りつけると体重の軽い隆人は簡単に壁へ吹っ飛んでいった。
「ふぅっ・・・・ゲホッ、ゲホッ・・・・」
息も出来ず、下腹部をおさえ苦悶の表情をする隆人を見て大樹はゲラゲラと笑った。大樹はそのまま水道の蛇口をひねるとホースから出てくる冷水を隆人に浴びせた。ズボ濡れの隆人は逃げるようにトイレの個室に入っていくと大樹達は笑いながらトイレから出ていった。誰もいなくなったトイレでしばらくの間、隆人は激痛で立ち上がることが出来なかった。大樹達がいないことを確認すると下腹部をおさえながら階段をのぼっていく。隆人は濡れた服を乾かそうと夕日が傾くまで屋上にいた。
「そんなに濡れて何かあったの?」
「ううん、なんでもないよ。遊んでたらつい・・・」
隆人の父親は彼がまだ二歳位の頃、病気で他界していて母親は女手ひとつで隆人を育てていた。そんな母親を心配させるわけにはいかず隆人はいじめられていることを黙っていた。家に帰ったときも濡れた理由は釣りをしていたら石につまずき転んだと言い訳していた。
それから一週間ほど経ったある日のことだ。当初より予定されていた学校の行事で隆人達は修学旅行に行くのだがその事前教育として日帰りの研修が行われることになった。自立心を高める事を目的としてクラスでグループを作りグループ別に研修地へのルートを決めて行動するレクレーションがあった。この行事を提案したのはPTA会長であり、国会議員の白鳥一郎である。
「白鳥先生・・・いくらなんでも子供達だけで行動させるのは危険ではないでしょうか?」
「ん?校長・・・私の教育方針に間違いでもあると?」
「いえいえ、そういうことではありません。」
学校としてはリスクが多く取り止めたかったのだがPTA会長でテレビ出演でも話題の国会議員である白鳥の言動は絶対であり校長や教師達は言いなりとなるしかなかった。レクレーションの当日、校庭に集まった児童や保護者、学校関係者を前に白鳥議員のスピーチは学校中に響き渡っていた。その声が響き渡る校庭で隆人は大樹と同じグループとなっていてこれから始まるであろう恐怖に怯えていた。白鳥議員の長いスピーチは終わり各グループが校庭を出て研修地を目指していく。最初の頃は大樹のグループもほかのグループと同様のルートを歩いていたが誰にも悟られないようにルートを変更していくとほかのグループと離れて大樹のグループは単独行動になった。
「おい、隆人。これ持てよ!」
大樹は辺りを見渡してニヤリと笑みを浮かべると自分の持っていた荷物を隆人に押し付けた。それを見たほかの三名の男子も次々と荷物を押し付けた。五人分の荷物を持つのはかなり辛かったがそれを嘲笑うように大樹達は軽々とした様子で隆人の前方を歩いていた。
「あ~~あ かったりぃ~~なぁ~・・・おい、隆人早く着いて来いよぉ~!」
大樹の罵声に続いてほかの三名の男子も罵声を浴びせる。隆人も必死に着いて行こうとするが小学生の力では五人分の荷物はあまりにも重すぎた。
「なんか喉が渇かねえ?」
大樹が言うと一人の男子が隆人に近づいてきた。
「隆人、ジュース買うから財布を出せ!」
「嫌だ!このお金は病気の母さんが昼間のご飯代にくれたんだ。」
隆人の母親は仕事の無理が重なり今、病気で床に臥せている。母親は朝と夕方の食事を隆人に用意しているのだが昼間だけはお昼の弁当代にとお金を渡していた。しかし隆人は少しでも母親への負担を減らそうと昼間は食パンのみで貰った金を貯め込んでいた。何かあったらお金がいるという隆人なりの母親へのいたわりがあったのだろう。そんな隆人から強引に財布を奪い取ると自動販売機でジュースを買い四人はゴクゴクと飲みほした。
「プハァ~・・・うめぇ~!」
大樹はタクシーを止めると皆で乗り込んだ。小学生だけでタクシーに乗る事に運転手も困惑したが大樹の巧みな言葉にすっかり騙された運転手は研修所へと車を走らせた。もちろんこのタクシー代も取り上げた隆人の財布から出された。タクシーを降りると研修所には誰もいなかった。一番乗りであったのだがほかのグループが来るまでの間、大樹達は退屈だった。暇な時間を有効に使おうと大樹達は暇つぶしに隆人を苛めた。ここで言う暇つぶしとは大樹達にとってであり隆人にとっては苦しみそのものである。
「やめて!やめてよ!」
季節は秋であったが肌寒い時期だった。研修地の建物近くの小川で隆人はびしょ濡れになっていた。大樹の命令により三人の男子は隆人に水を掛け続けたのだ。隆人がどんなに嫌がっても男子達は大樹に怯え水かけを止めようとはしなかった。
「おい、お前らどけ!いくぞ、オラ!!」
嫌がる隆人を見て興奮した大樹は隆人に向かって走り出しプロレスの真似をして飛び蹴りをした。小柄で体重の軽い隆人はその衝撃で小川を滑るように飛んでいった。
「ズサァァー・・・うっ、い・・たい。」
背中や足を小石のゴロゴロした川底に打ちつけた隆人は痛みに顔をゆがめた。擦り切れた皮膚から血が流れそれは川の流れと共に流されていく。それでも大樹のイジメは加速していく。小川で倒れ込んでいる隆人の髪の毛を掴むと川底に頭を押し付けた。息が出来なくなりもがいている姿を大樹は面白がって隆人の顔を川底より再び持ち上げた。
「オラオラ、どうした!ギブアップか?」
「ゲボッゲボッ、やめ・・・やめて・・・よ・・・」
か細い隆人の声に大樹の行動は更にエスカレートしていく。力任せに大樹は隆人の頭を川底に押し付けては持ち上げる行動を続けていく。次第に隆人の顔色が蒼くなっていくとほかの三人の男子はその大樹の姿に恐怖した。隆人がグッタリしだした頃、女子達の声が聞こえてきた。
「大樹君、実花達が来たよ!」
ひとりの男子が声をかけると大樹は舌打しながら隆人の頭を放した。実花はグループの女子達と話しながら歩いていると研修地の近くの小川で大樹達がいるのを見つけた。そして実花は大樹の近くで隆人が倒れているのを発見した。小川のほうへ走っていく実花は意識を失っていた隆人に駆け寄った。
「隆ちゃん!どうしたの?・・・大樹!隆ちゃんに何をしたの?」
「何もしてねえよ!隆人が足を滑らせて倒れたんだ。なぁ~、みんな!そうだよな?」
「そうだ。隆人が勝手に転んだんだ!」
大樹の問い掛けに三人の男子達は声を揃えて言った。実花はその言葉をまったく信じてはいないがとにかく隆人の容態を心配して教師達を呼びに研修地まで走っていった。すぐに教師達が駆け寄ってきて隆人を車に乗せて病院へ連れていく。大樹は隆人が足を踏み外して小川に落ちたと説明する。五味先生はパニックに陥りながらもほかの教師の協力もあってなんとかレクレーションを終わらせて児童達を下校させた。 その日から隆人は打ち身と高熱にうなされて一週間ほど学校を休んだ。