愛人を選んだ旦那様と離縁したので、恋心を忘れる魔法をかけてもらいました
「正妻の座を、私に譲ってくださいませんか?」
あまりにも突拍子のない言葉に、私はすぐには意味を理解できず、ぱちぱちと瞬きをした。
応接室の向かい側のソファに座ったミレーユ・オルタン様が両手を膝の上に揃え、緊張した面持ちでこちらを見つめている。
淡い蜂蜜色の髪に、潤んだ青い瞳。
二年前に夫を亡くした彼女は、黒を基調とした控えめなドレスに身を包んでいた。
(どうしよう、どうすれば……)
心臓が激しく脈打ち、背中に冷たい汗が滲んだ。
もし、これがミレーユ様おひとりだったら、きっと何かの冗談だろうと思えたはずだ。私がこんなにも動揺しているのは、ミレーユ様の隣に――夫であるアルベルトまで座っていたからだ。
「俺からも、頼む」
アルベルトの言葉に頭がくらくらとしてきた。
私は、何か悪い夢を見ているのだろうか。
「俺は、ずっとミレーユのことが好きだった。だから、彼女を妻にしたい」
「ずっと……?」
ミレーユ様が夫を亡くしてから、幼馴染であるアルベルトが何かと気にかけていたことは知っていた。
生活に困っていると聞けば援助をしていたし、理由をつけては屋敷を訪ねていた。体調を崩せば医師を手配し、つきっきりで看病していたこともある。
もちろん、妻として思うところがなかったわけではない。
けれど夫を喪ったばかりの孤独な幼馴染を放っておけないのだと、理解のある妻を演じ、本来彼がやるべき仕事も全て私が引き受けてきた。
「そういうわけだ、エレナ。だから――」
「待ってください!」
アルベルトが話を纏めようとしたため、私は慌てて彼の言葉を遮った。
五年も一緒に暮らしてきたのだ。「離婚しましょう」「はいそうですか」なんて簡単に話が進むわけがない。
「それならば、今のままでは駄目なのでしょうか」
「えっ?」
「これまでどおり、ミレーユ様を支えても構いません。ですから、どうか……」
我ながら、みっともないと思う。浮気をされても、離縁してくれとまで言われたって、夫に捨てないでほしいと縋っているのだから。
――だって私は、アルベルトにひどく惚れている。
アルベルトとの婚約は、両家の利害が一致したことから始まった。
両親を事故で失ったばかりの彼は、若くして侯爵位を継いだものの、後ろ盾も乏しかった。そこで私の父は、我が家から一時的に資金と領地経営の支援をする代わりに、私との縁談を持ちかけたのだ。
『結婚なんてしたくありません!』
当時、魔法士として順調に出世していた私は、当然のように反発した。一生独身のつもりだったし、知らない侯爵の妻になるなんて御免だった。
それでも顔合わせを重ねるうちに、少しずつ彼を知った。
大きく口を開けて笑うところも、私の料理を食べて嬉しそうに目を細めるところも、亡くした両親を思い出して人知れず泣いていた顔も。
気づけば、彼となら一緒に生きていきたいと思うようになっていた。
『僕と結婚してください』
『ええ、もちろん!』
『……! 妻として大切にするよ』
そして、アルベルトは立派に領地を建て直し、実家に借金どころか莫大な寄付まで送ってくれたのだ。
けれど、いつからか、彼は変わってしまった。
「エレナ様は、美しくて、聡明で、社交も領地のことも何でもお出来になる。アルベルト様だって、あなたを妻として尊敬していらっしゃいます……でも、それは愛とは違うと思うんです」
ミレーユ様の声に、アルベルトも深く頷いた。
「そうだ。君は一人でも生きていけるだろう?」
「……」
「俺もミレーユも、家族を失って孤独を味わったんだ。この気持ちは君には分かりようがない」
アルベルトは、泣きそうなミレーユ様の肩を抱いた。
その目は、私ではなく彼女だけを見つめていて。
(ああ、もう。終わってしまったんだ……)
左手の薬指を見る。
そこには、五年前にアルベルトが嵌めてくれた結婚指輪がある。
プロポーズしてくれた時の彼は、私以上に緊張していた。指輪を嵌める手が少し震えていて、二人で笑い合った時に感じた気持ちは、きっと嘘ではなかったと思いたいのに。
「……分かりました」
指輪に少しだけ力を入れると、ようやく薬指から抜けた。
白く残った跡が、痛々しい。
「離縁を受け入れます」
自室へ戻って扉を閉めると、部屋の中にはアルベルトとの思い出が溢れていた。
アルベルトと初めて観劇へ行った時に着たドレス。
誕生日にもらった髪飾り。
領地へ向かう馬車の中で二人して読み、どちらが先に犯人を当てるか競った小説。
どれも見れば、その時のことをすぐに思い出せる。
彼との五年間を後悔しているわけではない。
(幸せだった。少なくとも、私は)
残したものはすべて処分してほしいと書き置きを残し、旅行鞄を手に玄関を出る。
すると、後ろからバタバタと足音が聞こえてきた。どうやら、私がいなくなったことに気が付いた使用人たちが追いかけてきたらしい。
「ローレンツ、どうしたの?」
「どうしたのではございません。お発ちになるのなら、せめて私どもに一言お声をかけてください」
「ごめんなさい。騒ぎにしたくなかったの」
家令のローレンツは何かを堪えるように唇を引き結んだ。
「奥様がいなくなられたあと、この屋敷がどうなるのか……。私には、かの方に侯爵夫人が務まるとはとても思えません」
「ローレンツ」
「失言でございました」
深く頭を下げながらも、撤回するつもりはなさそうだった。
「私はもう奥様ではないわ。この家をよろしくね」
そう告げると、ローレンツの後ろにいたメイドたちが声を上げる。
「奥様、お待ちください!」
「行ってしまわれるなんて、本当ですか?」
みな、手には箒や雑巾を握りしめている。どうやら仕事の途中で飛び出してきたらしい。
「奥様がいなくなるなら、私、屋敷を辞めます!」
「私もです!」
「ちょっと待って。どうしてそうなるの?」
思わず苦笑いすると、メイドたちは揃って泣きそうな顔をした。
「だって、奥様がいらっしゃらない屋敷で働くなんて……」
「駄目よ。あなたたちが暮らしていけなくなっちゃうでしょ?」
本当は、私だって寂しい。
けれど口にすれば泣いてしまいそうで、私は慌てて馬車に乗り込んだ。
「皆、元気でね」
(ああ、あなたへの恋心なんて、早く忘れられたらいいのに)
こうして私は、まだ愛している夫と離縁し、一人で王都へ向かったのだった。
◇
数日後、私は王都の中心部で馬車を降りた。
荷物は御者に頼んで宿へ運んでもらい、行き先も決めずに街を歩く。
焼きたてのパンの匂いが通りに漂い、露店には色とりどりの果物が並んでいる。かつて魔法士をしていた頃は、よくこの辺りを歩いていたから、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
家柄ではなく、自分の実力で戦える環境は、居心地がよかった。
(それでも、私がアルベルトを選んだんだから)
向かいから歩いてきた若い夫婦が、楽しそうに笑っているのが目に入り、私はいたたまれない気持ちになる。
侯爵夫人という役目がなくなった途端、自分の中にぽっかりと穴が空いてしまったようで、もう宿に帰ろうと思い立った。
その時、向かいから紺色の制服に身を包んだ一人の魔法士が歩いてきた。
任務から戻る途中らしく、片手には杖を、もう一方の手には書類鞄を持っている。銀糸の装飾が施された長いローブは、王立魔法士団で最も優秀とされる筆頭魔法士だけに許されたものだ。
(あの方が、今の筆頭魔法士なのね)
周囲の男性より頭ひとつ分ほど背が高く、長い脚で歩く姿は人通りの多い中でもかなり目立っていた。
涼しげな目元と、すっと通った鼻筋。きりりと結ばれた口元まで美しく、通りにいた女性たちが、彼の姿を見て頬を染めて囁き合っている。
筆頭魔法士は私の横を通り過ぎていくけれど、数歩進んだところで突然足を止めた。
何かを感じ取ったように振り返り、真っ直ぐに私を見る。
「……先輩?」
(えっ?)
思いがけない呼びかけに、私はポカンと口を開けた。
「先輩ですよね。どうして王都に……」
男性は急に、私のもとへ駆け寄ってきた。近くで見ると、ますます見目のよい人だけれど、こんなに目立つ男性と知り合いだった記憶はない。
「あの……どちら様でしょうか?」
「えっ」
私が尋ねると、彼はあからさまにショックを受けた顔をした。
「俺です。ジルです。ジル・レーヴェン」
「ジル……? もしかして、あのジル!?」
「はい。あのジルです!」
ジルは、私が王立魔法士団に所属していた頃の後輩だ。
並外れた魔力量を持っていたものの、その制御が不得意で、問題ばかり起こしていた。
『先輩、俺、もう辞めたいです……』
失敗するたびに私のもとへやってきて、何度泣き言を漏らしていたことか。
当時は顔立ちにもまだ可愛らしさが残っていたはずなのに、五年の間にずいぶんと変わってしまったらしい。
「それにしても、あなたが筆頭魔法士だなんて。本当に立派になったのね」
「先輩に辞めるなって、何度も叱られましたから」
「叱ってはいないわ。励ましていたのよ」
「そうだったんですか? 先輩、結構怖かったですよ」
「それはあなたが、同じ失敗を何度も繰り返すからでしょう!」
懐かしいやり取りに、自然と頬が緩んでいく。嬉しそうに笑うジルの口元から八重歯が覗いた。
「そうだ。先輩はなんで王都に――」
ふとその時、ジルの視線が私の左手に止まった。
正確には、何も嵌まっていない薬指に。
「先輩。結婚指輪はどうしたんですか?」
「えーっと、それは……」
「今日は、たまたま外しているだけですか?」
隠し続けられるものではないと諦め、私は小さく首を横へ振った。
「アルベルトとは、離縁したの」
「……え?」
「いろいろあったの。でも、もう終わったことだから」
納得がいかないような顔をしているジルへ、私は笑ってみせる。
「私は大丈夫よ。だから、ジルも心配しないで――」
いつものようにそう告げようとしたのに。不意に視界が歪み、ぼろぼろと頬を温かいものが伝った。
慌てて指先で目元を拭うけれど、一度こぼれた涙は止まってくれなかった。
「ご、ごめんなさい。違うの。これは……」
「先輩」
おかしい。全然止まってくれない。
そんな情けない先輩にジルは何も尋ねず、白いハンカチを差し出した。
「先輩は昔から、つらい時ほど大丈夫なふりをしますよね。これから食事でもいかがですか」
◇
ジルは、近くにある静かな酒場へ連れていってくれた。
「ジル、お酒飲めるの?」
「失礼な。もう大人ですよ」
そんな軽口を叩きながら、ミレーユ様から正妻の座を譲ってほしいと言われたことや、アルベルトが彼女を選んだことを、ぽつぽつと話した。
すると、ジルの顔がだんだんと険しくなっていく。
「一体、俺がどんな気持ちで先輩を送り出したと……」
ジルは結婚式の日に、泣きながらお祝いをしてくれたのだ。こんな結果になって申し訳ないと伝えれば、ジルは「そういう意味じゃないです」と怒られた。
曰く私は鈍感らしい。はて?
「それで、先輩はまだ侯爵様が好きなんですか?」
「嫌いになれたら、もっと楽だったのでしょうけれど」
もちろん、アルベルトのしたことは許せない。
それでも、好きだった気持ちまで、離縁した途端に消えてくれるわけではなかった。
「この世に、恋心を忘れる魔法でもあればいいのにね」
「……ありますよ」
「えっ?」
冗談のつもりで口にしたのに、ジルは真剣な顔で椅子から立ち上がった。
「で、でも、恋心を忘れる魔法なんて、聞いたことがないわ」
「先輩が魔法士団を辞めてから、五年も経っているんですよ。今ではいろいろな魔法が開発されています」
「本当に?」
「俺を信じてください。これでも筆頭魔法士ですから」
確かに、魔法は日々進歩している。何より、あれほど魔力の制御に苦労していたのに、立派に筆頭魔法士をしているジルが言うのだから、本当なのだろう。
ジルはテーブルを回り込み、私のすぐそばへ立った。
「恋心を忘れる魔法、かけてあげましょうか?」
それは、とても魅力的な提案だった。
もし本当に忘れられるのなら、アルベルトを思い出すたびに苦しまずに済む。それでもすぐには頷けずにいると、ジルが安心させるように微笑んだ。
「危険な魔法ではありませんよ」
「……それなら、お願いします」
思い切ってそう答えれば、ジルは腰に下げていた杖を抜くと、その先端をゆっくりと動かした。
空中に描かれた小さな魔法陣が淡い青色に輝き、柔らかな光が私の胸元へ吸い込まれていく。温かな魔力に包まれた途端、強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていくような感覚がした。
「――確かに、ちょっとだけ落ち着いたような」
「はい。ただし、すぐにすべてを忘れられるわけではありません」
ジルによると、この魔法は遅効性なのだとか。そのため、日々の生活が大切になってくるという。
「元旦那様以外のことで、頭をいっぱいにするんです。もう一度仕事を始めたり、美味しいものを食べたり、楽しいと思えることを増やしてください。それから、定期的に俺の経過観察を受けてください」
ジルは涼しい顔で言っているけれど、なぜか耳だけがわずかに赤くなっており、それを隠すようにはにかんでみせた。
「でも、仕事といっても、これから探さないと……」
「それなら、魔法士団へ戻ってくればいいじゃないですか」
思いがけない誘いに、私は目を瞬いた。
魔法士団で働いていた頃は、忙しくて大変なことも多かった。
それでも、知らない魔法を覚えたり、難しい課題を前に同僚と頭を抱えたりする時間が好きだった。任務を終え、自分の働きを認めてもらえるのは楽しいのだ。
侯爵夫人として過ごすうちに、すっかり遠いものになっていた日々が蘇る。
「でも、辞めてから五年も経っているのよ。今の私が戻っても、迷惑をかけるだけかもしれないわ」
「今は人手不足なので、人助けだと思ってぜひ。それに、先輩の実力なら何の問題もありません」
もう一度魔法士の制服を着て働く自分を想像すると、胸が高鳴った。
「……考えてみるわ」
「はい。よい返事を待っています」
ジルは満足そうに笑った。
◇
結局、私はジルの誘いに乗り、魔法士団へ復帰することとなった。
もともと上級魔法士として働いていたこともあり、簡単な実技の確認を受けるだけで復帰は認められた。五年ぶりに顔を合わせた仲間たちも、私が戻ってきたことを喜んでくれた。
初めこそ、進歩した魔道具や新しい規則に戸惑うこともあったけれど、魔法陣の描き方まで忘れたわけではない。
知らないことは教わり、できることから仕事を引き受けていくうちに、少しずつ以前の感覚を取り戻していった。
その日、私が任されていたのは、ここ数年に行われた魔物の討伐記録を整理する仕事だった。
机の上へ積み上げられた報告書を日付と地域ごとに分け、被害の状況を新しい記録帳へ書き写していく。
「……同じ場所ばかりだわ」
じっと記録帳を見つめていれば、北東にある村の周辺だけ、魔物が発見された回数が不自然に多いことに気が付いた。
気になって古い記録まで調べてみると、昔は別の道を通っていた討伐隊が、最近になって巡回経路を変えていたことが分かった。
すぐに担当者へ報告したところ、村の近くにある森が巡回から外れていることが判明し、翌日から経路が見直されることになった。
「助かったよ。昔の記録まで知っているエレナさんだから気づけたんだな」
「いえ。たまたま気になっただけです」
謙遜してみるものの、やっぱり褒められると嬉しいものだ。侯爵夫人だった頃は、どれほど領地のために働いても、すべて領主であるアルベルトの功績として扱われていたのが今になって悔しく感じる。
「先輩、お疲れさまです」
声をかけられて顔を上げると、ジルが紙袋を手に立っていた。
「今日は何の用?」
「一緒に昼食を取りましょう。美味しいパンも買ってきたんで!」
もしかして、筆頭魔法士って暇なのだろうか。
「ほら、先輩。経過観察です」
半強制的に食堂に向かわされ、ジルは私の向かいへ座ると、紙袋から蜂蜜パンと林檎のパンを取り出した。どちらも昔から私が好んで食べていたもので、その記憶力に感心してしまう。
「今日は侯爵様のことを思い出しましたか?」
「朝、手紙が届いていたから、そのときに少しだけ」
「また届いたんですか?」
「ええ。これで五通目ね」
アルベルトから手紙が届くようになったのは、私が魔法士団へ復帰して間もなくのことだった。
最初こそ、離縁後の暮らしを案じる言葉が書かれていた。しかし、次の手紙からは領地の仕事について相談したいという話ばかりで、質問攻めに遭っていたのだ。
ちなみに、返事は一度も書いていない。
以前の私なら、アルベルトから頼られたというだけで、すぐにペンを取っていたはずだ。
でも、今は朝から仕事へ向かい、昼にはジルや仲間たちと食事をして、帰宅する頃には翌日のことで頭がいっぱいになっている。
「魔法が効いてきたのかもしれないわ」
「ええ、良かったです」
ジルは満足げな笑みを浮かべながら、胡散臭いくらい何度も頷いた。詐欺師か。
「では、もう少し強く効かせましょうか」
「どうやって?」
「来月、王宮で開かれる夜会へ魔法士団も招待されています。先輩も出席することになっていますよね?」
忘れかけていた憂鬱な予定を思い出してしまい、私は溜息をついた。
今度の夜会は、建国祭に伴って魔法士団から数名が出席することになっている。貴族のマナーが身についているということで、私も強制的に出席者に加えられてしまったのだ。
「そうだけど……」
「では、俺の同伴者になってください」
あまりにもさらりと告げられて、私は手にしていたパンを取り落としそうになった。
「それも経過観察なの?」
「もちろん!」
「……分かったわ。一緒に行きましょう」
――その夜会で、アルベルトと再会することになるとは知らないまま。
◇
そうして迎えた夜会当日。
筆頭魔法士であるジルが女性を伴って現れたことで、周囲から一斉に視線が集まる。けれど、私の顔に気づいた人々からは、すぐに戸惑いの声が聞こえてきた。
「あれは、クライン侯爵夫人ではなくて?」
「離縁したと聞きましたわ。それに、あの礼装は……」
「王立魔法士団へ復帰されたそうですよ」
これまで夜会へ出席するときは、いつもアルベルトの妻として彼の隣に立っていた。
けれど今夜身につけているのは、侯爵家が用意したドレスではない。王立魔法士団の紋章が入った、上級魔法士の礼装だ。
「エレナ殿」
声をかけてきたのは、以前にも夜会で顔を合わせたことのある年配の伯爵だった。
「先日、北東部の討伐経路が見直されたと聞いた。過去の記録から、巡回の漏れを見つけたのはあなたなのだろう?」
「はい。以前とは魔物の現れる場所が変わっていたため、気になって報告いたしました」
「あのまま放置していれば、我が領にまで被害が出ていたかもしれない。さすが、見事な働きですな」
伯爵の声が聞こえたのか、近くにいた貴族たちも驚いたように私を見る。
「結婚する前は、上級魔法士として働いていらっしゃったのだとか」
「まあ……存じませんでしたわ。凄い方なのね」
侯爵夫人だった頃、自分が魔法士だったことを社交の場で話す機会はほとんどなかった。領地の仕事に関わっていると告げても、夫を支える妻として受け取られるだけだった。
けれど今は、エレナ・クライン侯爵夫人ではなく、一人の魔法士として私の働きを見てもらえている。
「今度、北部の領主たちが集まる会合があります。魔物への備えについて、ぜひあなたの意見を伺いたい」
「私でお役に立てるのでしたら、喜んで」
伯爵へ頭を下げると、周囲からも次々と声をかけられた。
私へ向けられていた好奇の視線が、少しずつ好意を含んだものへ変わっていく。
そのとき、少し離れた場所から聞き慣れた声がした。
「報告書については、近日中に必ず提出しますので……!」
焦った顔をしたアルベルトがペコペコと頭を下げているところだった。
隣には、華やかな薄紅色のドレスを着たミレーユ様がいる。アルベルトの前にいる年配の男性が、呆れたように眉を寄せていた。
「その返事を聞くのは三度目だ。エレナ様が進めていた治水工事も、離縁してから止まったままだと聞いている。うちの商会も関わっているんだから早く進めてくれ」
「引き継ぎに少々問題がありまして……」
「妻がいなくなっただけで、領地の仕事が回らなくなるのか? あなたは何をしていたんだね」
アルベルトは返す言葉を失い、唇を引き結んだ。
あの様子を見るに、どうやら、領地管理が上手くいっていないらしい。気まずい気持ちでその場を去ろうとしたのだが、アルベルトがふと顔を上げ、私に気づいた。
「エレナ……?」
驚いたように目を見開いたあと、その視線が隣にいるジルへ移る。私がジルの腕へ手を添えていることへ気づくと、アルベルトの顔が強張った。
話していた男性へ慌ただしく断りを入れ、こちらへ歩いてくる。
「エレナ、どうして手紙の返事をくれないんだ。おかげでこちらは今大変なことになっているんだぞ」
大声で問い詰めるような言い方に、周囲の人々がこちらへ目を向けた。
「もう離縁したのですから、私がお返事をする義務はないと思いまして」
「領地の仕事について、君に確認したいことがあったんだ」
「使用人たちに引き継ぎましたが……」
「君がいなくなるなら辞めるといっていなくなったんだ!」
なんと、使用人の皆は本当に辞めてしまったらしい。アルベルトよりも、皆の次の仕事先が無事に見つかっているかの方が気がかりである。
「おかげで工事も止まっている。ほんの少しでいい。屋敷へ戻って、手伝ってくれないか」
「お断りします」
「なぜだ? 領民たちを放っておくつもりなのか?」
なんて無責任な言葉なのだろう。貴族というのは、特権を与えられる代わりに領民の生活を保証しなければならない人間のことであって、決して楽してお金が入ってくる身分ではないというのに。
「領民を放っておいたのは、私ではありません」
「エ、エレナ?」
「アルベルト様が普段から領地のお仕事をされていれば、こんなことにはなっていないのではないですか」
アルベルトが黙り込むと、隣にいたミレーユ様が、困ったように彼の袖口を引っ張った。
「アルベルト様、もうよろしいではありませんか」
「しかし、君も屋敷の仕事が分からず困っているだろう」
「私は、そのような難しいことをするためにあなたのそばへ来たのではありませんけれど?」
ミレーユ様は眉を寄せ、私へ視線を向けた。
「貴女も貴女よ。少しくらい手伝ってくださってもよいのではなくて?」
周囲から小さなざわめきが起こった。
離縁へ追いやった前妻を夜会の場で呼び止め、自分たちの代わりに働かせようとしている。その異様さに、二人ともようやく気づいたらしい。
ミレーユ様は周囲を見回して顔を赤くし、アルベルトは苦しそうに私を見つめた。
「……まだミレーユとは籍を入れていない。エレナ、また戻って来ないか?」
「アルベルト様!?」
まさかの申し出に思わず変な声を上げそうになった。
(ミレーユ様が好きなら好きを貫きなさいよ!)
離縁したばかりの頃なら、願っても無いその言葉に喜んで飛びついたことだろう。
「結婚期間は沢山のことを学ばせていただきましたし、感謝もしております。ですが、もう戻ることはありません」
「なぜだ! 君はまだ私のことが好きなんだろう!」
アルベルトの中で、きっと私の時間は止まったままなのだろう。旦那に別れないで欲しいと縋りつく哀れな女だと思っているのだ。
けれど、私はもう自分の人生を歩み始めている。
「残念ながら、私は、あなたへの恋心を忘れたんです」
「忘れた……?」
「ええ。ですから、もう戻ることはありません」
以前なら、こんなことを口にするだけで胸が張り裂けそうになっただろうけれど、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。
アルベルトを愛していたことも、妻として過ごした日々も、私の大切な過去だと割り切れるようになった。
「失礼します」
私は一礼すると、ジルの腕へもう一度手を添えた。
「行きましょう、ジル」
「はい、先輩。恰好よかったですよ」
「からかうのはやめてちょうだい」
ジルと笑い合いながら、その場を離れる。背後からアルベルトに名前を呼ばれたけれど、振り返ることはなかった。
やがて音楽が流れ始めると、ジルは私を広間の中央へ誘った。
「気分転換に踊っていただけますか?」
「ええ」
差し出された白い手袋へ手を重ねる。
腰へ腕を回され、思っていたより近い距離にジルの顔があることへ気づくと、急に緊張してきた。
「先輩、謝らなければいけないことがあります」
ジルは、踊りながら少し言いにくそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。実は――恋心を忘れる魔法なんて存在しません」
「……え?」
驚いて、目を瞬いて彼を見上げる。だって、私の恋心はジルのおかげで徐々に消えていったのに。
「存在しないって、どういうこと?」
「あのとき使ったのは、気持ちを落ち着かせるだけの簡単な魔法です」
確かに、魔法士に復帰してからも、人の気持ちを操る魔法なんて聞いたことが無かった。
私は踊っている足を止めかけたけれど、ジルが腰を支え、何事もなかったようにステップを踏み続ける。
「それでは、私がアルベルト様を忘れられたのは……」
「先輩自身の力です」
ジルは、にっこりと笑って告げる。
「魔法士団へ戻ると決めたのも、仕事を頑張ったのも、新しい暮らしを作ったのも、全部先輩です」
(自分の力で……)
魔法で忘れたのではない。
自分の足で歩き出し、新しい日々を積み重ねるうちに、あれほど苦しかった恋を過去へ昇華することができたのだ。
「それでも、毎日そばにいてくれたでしょう?」
「それは、俺がそうしたかったからです」
「どうして?」
そう尋ねた途端、ジルが困ったように笑った。
「先輩。いくら鈍感でも、そろそろ気づいてください」
曲に合わせてぐいっと身体を引き寄せられる。ジルのとんでもなく整った顔が、私の目の前に迫ってきた。
「俺は昔から、ずっと前から先輩が好きです」
思いがけない言葉に、心臓が大きく跳ねた。
私にとってジルは、可愛い後輩だったけれど、ジルにとっての私は、先輩というだけではなかったらしい。
「い、いつから……?」
「先輩が結婚する前から、ずっと好きでした。落ちこぼれだった俺の訓練に何度も付き合ってくれて、どんなときも前向きな先輩が眩しかったんです」
『一体、俺がどんな気持ちで先輩を送り出したと……』
王都で再会した時に、彼が言いかけていた言葉の意味が、今になってようやく分かった。
「なので今回は、本当に侯爵様を呪い殺すところでした。危なかったです」
「ジルなら本当にできそうだから、やめてね」
「先輩がそう言うなら、やめておきます」
にっこり笑って答えているけれど、どこまでが冗談なのか分からない。
「それから、経過観察というのも、俺が先輩と一緒にいるための理由付けです。騙すようなことをして、申し訳ありませんでした」
「それはいいんだけれど……」
恋心を忘れる魔法は存在しなかった。
それでも、あの魔法をかけてもらったことで気持ちは落ち着いたし、仕事へ戻るきっかけにもなった。アルベルトへの恋心を忘れられたのは私自身の力だとしても、ジルがそばにいてくれたことに何度も救われた。
経過観察と称して何かと構ってくれたことも、私の好きなパンを覚えていたことも、夜会に誘ってくれたことも。
全部、私のことが好きだったからなのだ。
ようやくすべての意味が分かり、顔が一気に熱くなってくる。
「返事は、すぐでなくても構いません」
ジルは私の手を取り直し、優しく指を重ねた。
「もし先輩が良ければですが、次は経過観察ではなく、本当のデートに誘ってもいいですか?」
アルベルトへの恋心は、もう忘れた。
けれど、空いた場所へすぐ別の恋を入れなければならないわけではない。これから少しずつ、今のジルを知っていけばいいのだ。
「ええ。それなら、いつにする?」
そう答えれば、ジルは周囲に花が飛んでいるのかと思うほどぱあっと明るい笑顔を浮かべる。
その瞬間、突如として私の心臓がどきどきと落ち着かない音を立てて体温が一気に上がっていく。
(……え、ちょっと、今のって)
――どうやら、私は別の厄介な魔法にかかってしまったらしい。
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