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30歳の誕生日のロウソクを吹き消した瞬間、最愛の夫が他人の婚約者になっていた件

作者: 熾星
掲載日:2026/07/11



 三十歳の誕生日の夜、夫の久我怜司は、伊豆の海沿いにある別荘で盛大な誕生日パーティーを開いてくれた。


 けれど、私が目を閉じて願い事をし、ろうそくを吹き消した瞬間、別荘中の明かりが一斉に落ちた。


 再び照明がついたとき、さっきまで私にグラスを掲げて祝福していた招待客たちは、まるで化け物でも見るような目で私を見ていた。


「何なの、この女。久我さんと白石さんの婚約披露の席に勝手に入り込んでくるなんて」


 リビングの大型モニターに流れていた文字も、「佐倉澪さん、お誕生日おめでとう」から、「久我怜司&白石莉奈 ご婚約おめでとうございます」に変わっていた。


 私は混乱したまま怜司の袖をつかんだ。けれど、彼の母親だという千鶴子に頬を叩かれ、床に倒された。彼女は精神科病院の診断書のコピーを私の顔に投げつけ、私は妄想癖のあるストーカーだと、冷たい声で周囲に告げた。


 親友の森下遥でさえ、電話の向こうで小さく笑った。


「澪、また具合が悪くなったの? 大学を出てからずっと独り身だったじゃない。夫なんて、どこにいるの?」


 その瞬間、私はようやく理解した。


 彼らが私を忘れたのではない。


 この世界に信じ込ませようとしているのだ。


 佐倉澪という人間は、最初から存在していなかったのだと。



1



 ビデオ通話が切れたあとも、私はスマホを掲げた姿勢のまま固まっていた。


 ひび割れた画面には、ひどく取り乱した自分の顔と、その後ろに広がる暖かな金色の照明が映っていた。数分前まで、ここは私の誕生日パーティーの会場だった。なのに今、全員が怪物でも見るような目で私を見ている。まるで、他人の幸せに土足で踏み込んだ狂った女は、私のほうだと言わんばかりに。


 私はゆっくりスマホを下ろした。耳の奥では、遥の最後の言葉がまだ残っていた。


 ――大学を出てからずっと独り身だったじゃない。夫なんて、どこにいるの?


 あり得ない。


 その言葉が頭の中で何度もぶつかった。それなのに、声にならなかった。怜司は少し離れた場所に立ち、莉奈はその腕に寄り添っている。二人の後ろのモニターでは、婚約を祝う文字が何度も流れていた。その文字は鈍い刃のように、私と三年間の結婚生活を少しずつ切り離していった。


 私は床に手をついて立ち上がろうとした。だが、手のひらが割れたガラスの縁に触れ、痛みに指先が縮こまった。その痛みで一瞬だけ意識が澄んだ。これは夢ではない。頬はまだ痛み、手の甲には千鶴子のステッキで打たれた赤い痕が残っていた。


 私は怜司を見上げた。


「あなたたち、何のつもり?」


 怜司は答えなかった。


 莉奈は彼のそばにそっと身を寄せ、邪魔をされたことへの不快感を隠しもしなかった。彼女は本物の女主人のようにそこに立っていた。黙っているだけで、自分こそが正しい場所にいるのだと示していた。反対に、誕生日用のドレスを着たまま床に膝をつく私は、この婚約披露の場で最も目障りな汚点になっていた。


 私はスマホを強く握りしめた。声がこわばる。


「怜司。あなたが私を知らないふりをしても、遥が電話でめちゃくちゃなことを言っても、記録は消えない」


「婚姻届も、私の住民票も、不動産の登記事項証明書も、保険の書類も、調べれば全部出てくる」


 怜司がようやく私を見た。


「佐倉さん」


 その呼び方をされた瞬間、胸を強く押しつぶされたような気がした。


「少し落ち着いたほうがいい。ここはあなたの家ではないし、あなたの夫もここにはいない」


 周囲から小さな笑い声が漏れた。


「本気で久我さんの奥さんのつもりなんだ」


「精神科の診断書まで出てるのに、まだ認めないなんて」


「今日は久我家と白石家の大事な日なのに。縁起でもないわ」


 声は大きくなかった。それでも、一つ一つが耳の奥に刺さった。私は周囲を見回し、知った顔を探した。さっきまで私のために誕生日の歌を歌っていた人たち。グラスを掲げて幸せを祝ってくれた人たち。その全員が、今はまるで別人の顔をしていた。


 怜司に否定されることよりも恐ろしいのは、この場にいる全員が、その否定に加担していることだった。


 二人の警備員が再び近づき、左右から私の腕をつかんだ。私は後ずさった。ヒールが大理石の床を引っかき、耳障りな音を立てる。体を引きずられそうになった瞬間、私は本能的にドア枠をつかんだ。


「行かない!」


「ここは私の家よ!」


 爪が木製の枠に食い込み、割れそうな痛みが走った。それでも手を離すわけにはいかなかった。この扉の外へ引きずり出されたら、私は本当に、彼らの言う「おかしな女」として、この家から処分されてしまう。


「この別荘は久我名義でも、結婚後の生活費や維持費は私も負担してきた」


「私の服も、身分証も、薬箱も、両親の遺品も、全部主寝室にある」


「本当にないと言うなら、中を確認させて」


 千鶴子が冷たい顔で歩いてきた。手には細いステッキが握られている。黒い杖身が照明を受けて鈍く光った。次の瞬間、ステッキが私の手の甲に振り下ろされた。


 痛みに、指がドア枠から外れた。


「もうやめなさい」


 千鶴子の声は低かった。けれど、周囲に聞こえるには十分だった。


「あなたみたいな人、何人も見てきたわ。裕福な男に目をつけて、自分はその妻だと思い込む。今度は家まで自分のものだと言い出すの? 次は久我家の財産も半分よこせとでも?」


 私は手の甲を押さえ、信じられない思いで彼女を見た。


「前は、そんなふうに私に言わなかった」


 千鶴子の目は少しも揺れなかった。


「私はあなたに会ったことなんて一度もない」


 正臣は彼女の後ろで陰気な顔をしていた。こんな場でこれ以上時間を無駄にしたくないのだろう。ただ片手を上げ、警備員に早くしろと合図した。広間ではまだ音楽が流れている。軽やかな旋律が、今の私の状況とあまりにも噛み合わず、かえって耳に痛かった。


「今日は怜司と莉奈の大事な日だ」


「連れていけ。二度とここへ近づけるな」


 警備員はさらに力を込めた。腕が痛む。入口へ引きずられながら、私は怜司を振り返った。彼はその場に立ったまま、莉奈が絡めた手の上に指を置いている。まるで本当に怯えているのは莉奈のほうだとでも言うように。


「怜司」


 私は彼の名前を呼んだ。


 彼は動かなかった。


「私を見て」


 ようやく彼が目を上げた。


 その目を、私は数えきれないほど見てきた。朝起きたとき、海辺を散歩したとき、夜中に彼が私に布団をかけ直してくれたとき、そこにはいつも優しさがあった。けれど今、その瞳の中には、私の影がどこにもなかった。


「何か事情があるの?」


「誰かに脅されてるの?」


 莉奈が小さく笑った。


「怜司、この人、まだ芝居を続ける気みたい」


 怜司は目を伏せ、袖口を整えた。


「警察を呼べ」


 私は凍りついた。


 彼はあまりにも平静だった。その言葉が私に向けられているのではないかのように。だが分かっていた。彼らが用意した精神科の診断書をもとに警察が対応すれば、私は「妄想障害の患者」として扱われる。そうなれば、私の言葉はすべて症状の一部にされてしまう。


 私は力を振り絞り、警備員の腕を振り払って廊下へ走った。


 主寝室は廊下の奥にある。


 そこに入れさえすればいい。私の身分証、服、日記、産婦人科のエコー写真。それさえ手に入れば、私は突然現れたおかしな女ではないと証明できる。


 だが二歩も進まないうちに、後ろから髪をつかまれた。頭皮が引き裂かれるように痛み、私はよろめいて床に倒れた。ドレスの裾を踏まれ、布が小さく裂ける音がした。


「逃げる気か?」


 警備員が私を床に押さえつけた。


 私は顔を上げ、彼らの間から廊下の奥の扉を見た。あれは私と怜司の寝室だった。そこで何度も朝を迎え、何度も彼から愛していると言われた。けれど今、その扉まで十数メートルしかないのに、まるで別の世界の入り口のように遠かった。


「入らせて」


「中を見れば、証明できる」


 怜司が私の前まで来た。視界の中で、彼の革靴が止まる。


「久我家の私的な場所に、あなたが入る資格はない」


 私は喉を詰まらせながら彼を見上げた。


「中に私のものがある」


 彼は数秒、私を見下ろした。ふいに腰をかがめ、近くの数人にしか聞こえない声で言った。


「佐倉さん。あなたが自分のものだと思っているものは、すべてあなたの想像だ」


 そう言って身を起こし、警備員に顎で合図した。


「外へ出せ」


 再び体を引き起こされたとき、私はほとんど立っていられなかった。広間の招待客たちは自分から道を開けた。私の体に触れないよう避けていく。まるで不吉なものがうつるとでも思っているように。スマホで撮影する人も、口元を押さえて笑う人もいた。


 痛みより耐えがたかったのは、大勢に晒される屈辱だった。


 私はこの別荘の女主人のはずだった。


 今夜の主役のはずだった。


 それなのに彼らの中で私は、婚約披露の場に紛れ込んだおかしな女になった。夫を妄想するストーカーになった。自分の人生さえ説明できない病人になった。


 入口まで来たとき、ふと一つのものを思い出した。


 左手の薬指。


 結婚指輪は、まだそこにあった。


 私は足を止め、必死に手を上げた。指輪が照明の下で小さく光った。暗闇の中でまだ消えていない、最後の証拠のようだった。


「待って」


 私は怜司を見た。痛みのせいで、声はかすれていた。


「私を知らないと言ってもいい。写真は合成だと言ってもいい。遥が電話で言ったことが真実だと言ってもいい」


「じゃあ、これは?」


 私はゆっくり薬指から指輪を外し、手のひらに握り込んだ。


「軽井沢の教会で、あなたが私にはめてくれた結婚指輪よ」


「内側には、R&Mって刻まれている」


「久我怜司と佐倉澪」


「見る勇気、ある?」



2



 莉奈のほうが怜司より早かった。彼女は私の手から指輪を取り上げ、ちらりと見てから笑い出した。その軽い笑い声は、私に残っていた最後の希望を水底へ押し沈める手のようだった。


「怜司、見て。ガラス玉にしては、よくできてるわね」


 彼女は二本の指で指輪をつまみ、照明の下で揺らした。


「佐倉さん、ここまで用意して婚約披露に入り込むなんて、ずいぶん熱心なのね」


 私は手を伸ばした。


「返して」


 莉奈の指先がほどけた。


 指輪は隣のシャンパンタワーの中へ落ちた。小さな金属音がしただけだったのに、その音は私の心臓を直撃した。莉奈は口元に手を当てたが、その目に謝罪の色はなかった。


「あら、ごめんなさい。手が滑ったわ」


「でも、そんな安物なら惜しくないでしょう?」


 その瞬間、私の理性は切れた。あれは怜司との唯一の証であり、私がまだ正気だと証明できるものだった。周囲のざわめきも、背後から伸びる警備員の手も振り切り、私はシャンパンタワーへ飛び込んだ。


 グラスが倒れ、酒が飛び散り、割れる音が連続して響いた。私は床に倒れ込み、膝と手のひらがガラス片に沈んだ。痛みで視界が黒くなりかけたが、それでも砕けたガラスの中を必死に探った。


「指輪……」


「私の指輪……」


 黒い革靴が、私の手の甲を踏みつけた。ガラス片が肉に食い込み、私は痛みに体を丸めた。顔を上げると、怜司が目の前に立っていた。その目は、汚れたものでも見るように冷たかった。


 昔、私が料理中に指を切っただけで、彼はすぐ救急箱を持ってきた。眉をひそめ、私以上に痛そうな顔をしていた。なのに今、その優しさは彼の中から完全にはぎ取られていた。彼はかがみ込み、ガラス片のそばから指輪を拾い上げた。


「こんなもので騙せると思ったのか」


 私は彼を見た。


「怜司、痛い……」


 彼は足にさらに力を込めた。


「莉奈のために用意した婚約披露を台無しにしておいて、痛いだと?」


 そう言うと、彼は指輪を口に入れた。私は目を見開いたが、止める暇もなかった。彼の喉仏が上下した瞬間、何かが完全に壊れる音が聞こえた気がした。


 彼は私の目の前で、その指輪を飲み込んだのだ。


 怜司は背筋を伸ばし、硬い声で言った。


「警備員」


「外へ引きずり出せ。まだ暴れるなら、足の一本でも折っておけ」


 数人の警備員が私の髪と腕をつかみ、外へ引きずった。私は床を必死につかんだ。指先が大理石の目地をこすり、爪がめくれた。それでも彼らは少しも止まらない。まるでそこにあってはならない汚物でも引きずるように。


「私はあなたの妻よ!」


「怜司、こんなことしないで!」


 莉奈が私の前にしゃがみ込んだ。片手には赤ワインのグラスを持っている。彼女は私を見下ろし、優しげで、だからこそ残酷な笑みを浮かべた。次の瞬間、私たち二人にしか聞こえない声で囁いた。


「澪。さっきの指輪、私、ちゃんと見たわよ」


 私は一瞬だけ目を輝かせた。莉奈の笑みが深くなる。わざと私に希望を持たせるように、彼女は少し身を寄せ、グラスを軽く揺らした。


「内側には、たしかにR&Mって刻まれていた」


 息が止まった。


「じゃあ、どうして……」


「意味がないからよ」


 莉奈が遮った。


「ここで彼の婚約者は、私だけ」


 赤ワインが私の顔に浴びせられ、顎からドレスへ滴り落ちた。莉奈は立ち上がり、何もなかったように怜司の隣へ戻った。彼女はスカートの裾を軽く整え、婚約披露の主役らしい落ち着いた声に戻った。


「連れていって」


 広間の入口まで引きずられたとき、私はバッグの中の書類を思い出した。それは今日の午後、産婦人科でもらったエコー写真だった。まだ小さな命だった。けれど、確かに存在していた。その子だけが、私に残された最後の切り札だった。


「怜司、私、妊娠しているの!」


 広間が静まり返った。怜司の表情が、初めてわずかに揺れた。私は片手を振りほどき、バッグを指さした。ほとんどすべての力をそこに込めた。


「書類はバッグの内ポケットに入ってる。見れば分かる」


 莉奈は眉を上げ、ゆっくりバッグのファスナーを開けた。中のものをすべて床にぶちまける。口紅、ファンデーション、ティッシュ、鍵。そして折りたたまれたA4の紙。心臓が喉元までせり上がった。


 莉奈はその紙を拾い、開くと肩を震わせて笑った。


「怜司、見て」


 怜司は紙を受け取り、一目見ただけで顔を冷たくした。彼はその紙を私の顔へ投げつけた。紙の端が頬をかすめ、ガラス片のそばに落ちる。


「恥を知れ」


 私は這うようにして紙を拾った。それはエコー写真ではなかった。精神科病院の診断書のコピーだった。内容は先ほどと同じ。重度の妄想障害、架空の伴侶への執着、攻撃性あり。


 私はその紙を破り捨て、バッグの内ポケットを狂ったように探った。そこには何もなかった。私の産婦人科の書類は、私という妻の存在と同じように、この世界から消されていた。


「嘘よ!」


「エコー写真は確かに内ポケットに入れていたの!」


 怜司がしゃがみ込み、私の顎をつかんだ。彼の指は冷たく、私は無理やり顔を上げさせられた。かつて安心をくれたその顔は、今は見下ろすような冷たさだけで満ちていた。


「佐倉澪。君はかなり悪い状態みたいだ」


「精神科の診断書まであるなら、病院へ戻したほうがいい」


 私は彼の手をつかみ、自分の下腹部へ押し当てた。


「触って。ここに、本当に私たちの子がいるの」


 彼の目は少しも動かなかった。次の瞬間、彼の拳が私の腹にめり込んだ。激痛が下腹部から爆ぜ、私は床の上で体を丸めた。温かいものが脚の間を伝い、ドレスの裾に広がっていく。


 怜司は立ち上がり、莉奈が差し出したウェットティッシュでゆっくり手を拭いた。


「青葉丘の医師に連絡しろ」


「診断書と同意書は用意してある。医療保護入院の手続きを取らせる」


 二人の男が私を持ち上げた。私は広間を振り返った。全員がまた笑い声を取り戻していた。シャンパンは再び注がれ、音楽が流れ始める。ただ私だけが、余計なものとして、この人生から片づけられていった。



3



 別荘の外は夜風が冷たかった。玄関前の階段まで引きずられたとき、雨の中から見覚えのある人影が走ってきた。遥だった。傘を差し、髪の先を濡らし、息を切らしている。


 私の中にかすかな光が灯った。さっき電話で言ったことは、きっと誰かに言わされたのだ。今ここへ来てくれたということは、彼女は本当に私を見捨てたわけではない。


「遥!」


「来てくれたのね」


「お願い、みんなに言って。私はおかしくなんかないって」


 遥は私の前で立ち止まった。血と雨に汚れた私を見下ろし、目を赤くしている。だが次の瞬間、彼女は私の頬を叩いた。顔が横に向き、雨水と血の味が口の中に広がった。


「澪、いつまでこんなことを続けるの?」


 その声は、ひどく冷たかった。


「あなたは孤児でしょう。両親なんていないじゃない」


「夫も、結婚式も、家族も、全部あなたの妄想よ」


 彼女はバッグから古い布人形を取り出し、私の胸に押しつけた。幼い頃から抱いていた人形だった。片目がなく、布は色あせている。遥がそれを無理やり私に持たせたとき、彼女の指先が一瞬だけ私の手の甲に触れた。


「これだけが、あなたの家族よ」


 私は人形を抱きしめ、視界が暗くなるのを感じた。


「遥、私には両親がいる」


 彼女は私を見なかった。


「もういい」


 そして怜司へ向き直った。


「久我さん、私、決めました。連れていってください」


 怜司は彼女を見て、口元に冷たい笑みを浮かべた。ようやく望んでいた答えを得たように、彼は数秒だけ遥を見つめた。それから片手を振った。


「本当に、いい友達だな」


「車に乗せろ」


 私は黒いワンボックスカーに押し込まれた。車は雨の夜を走り出し、山道を上っていく。窓の外に明かりはなく、ワイパーがフロントガラスを何度も拭う音だけが、重いカウントダウンのように響いていた。


 どれほど走ったのか分からない。車が止まり、ドアが開けられた。私は乱暴に引きずり下ろされ、ぬかるんだ地面に足をついた。前方には山中の古い墓地が広がっていた。そばには廃寺があり、傾いた石碑には苔がまとわりつき、無縁仏の供台を雨水が流れている。


 車のライトが、黒い傘を差した人々を照らした。怜司、莉奈、千鶴子、正臣、二人の用心棒、そして遥。全員がそこに立っていた。雨音は激しかったが、誰も何も言わなかった。


 怜司が片手を上げた。


「持ってこい」


 二人の用心棒が、赤い布をかけたものを運んできた。莉奈が歩み寄り、その布をめくる。それは墓石だった。石の表面には、いくつかの文字が刻まれていた。


 ――愛妻 佐倉澪之墓。


 建立者 夫 久我怜司。


 日付は二年前だった。


 私はその墓石を見つめ、体が少しずつ固まっていくのを感じた。雨水が石に落ち、刻まれた文字に沿って流れていく。まるで墓石が涙を流しているようだった。けれど私はここに立っている。私はまだ生きている。


「これは、何……?」


 怜司は懐から封筒を取り出し、数枚の紙を抜いた。彼はそれを私の前へ投げた。紙は泥水の中に落ち、端がすぐに濡れていく。それでも、そこに書かれた文字は刺すようにはっきり見えた。


「自分で見ろ」


 私は泥の上に膝をつき、震える手でそれを拾った。除籍謄本のコピーと、住民票の除票だった。そこには私の名前があった。佐倉澪。死亡。


「そんなはずない」


「私は生きてる」


 莉奈が傘を差して近づいてきた。ヒールが泥水を踏んでも、彼女は少しも乱れなかった。彼女は私を見下ろし、まるで昔話でも語るように柔らかい声を出した。


「まだ分からないの?」


「霊媒師が言っていたわ。あなたは死んだあとも執着が強すぎて、成仏できずにいるのよ」


「自分の手でこの世との縁を断てば、ようやく楽になれるって」


 私は怜司を見た。傘の縁を伝って雨が落ち、彼の顔は影に沈んでいた。彼は否定しなかった。ただ静かに私を見ていた。私がこの馬鹿げた結論を受け入れるのを待っているかのように。


「今日のことは全部、私に自分が死んだって信じ込ませるためだったの?」


 怜司の声には、温度がなかった。


「君が消えれば、みんな楽になる」


 私は布人形を抱きしめた。指の関節が白くなる。


「痛みを感じる」


「物にも触れる」


「血も流れてる」


 莉奈がバッグから古びた神鏡を取り出した。鏡面は雨の夜を映して暗く、縁には細かな模様が刻まれている。彼女はそれを私の目の前へ突き出し、隠しきれない興奮をにじませた。


「なら、本当の自分の姿を見てみなさい」


 私は本能的に目を閉じた。千鶴子が飛びかかるように近づき、私の髪をつかんで無理やり顔を上げさせた。爪が頭皮に食い込み、ガラスを引っかくような声が降ってきた。


「目を開けなさい。よく見るのよ」


 無理やり開かされた目に映ったのは、腐り果てた顔だった。片側の顔には皮膚がなく、白い骨が露出している。眼球は眼窩の端にぶら下がり、もう片方の皮膚は火で溶けたように縮れ、垂れ下がっていた。


 私は悲鳴を上げて鏡を押しのけ、両手で顔を覆った。その顔はあまりにも本物に見えた。一瞬、呼吸の仕方さえ忘れた。全員が雨の中で私を見ている。ようやく自分の死に顔を認めた亡霊を眺めるように。


 怜司はポケットからライターを取り出した。


「二年前の事故で、君は車ごと焼けた」


「霊媒師は言っていた。自分の手で焼かれなければ、本当には解放されないと」


 彼はライターを私へ差し出した。


「澪。もう楽になれ」


 私はそのライターを見た。指が少しずつ伸びていく。私は死んでいたのだ。五年間の痛みも、疑いも、苦しみも、すべて私がこの世にしがみついていたせいだったのだ。その考えが頭に浮かんだ瞬間、全身から力が抜けた。


 遥が私のそばへ来て、一本のボトルを開けた。鼻を刺す液体が足元に注がれる。彼女の動きは落ち着いていたが、手首だけがわずかに震えていた。雨が彼女の肩を濡らしていく。彼女は私を見なかった。


「あちらへ行ったら、もうこっちのことは気にしないで」


 私は彼女を見上げた。その目に一瞬だけ揺れが走った。雨と夜に隠れて、ほとんど誰にも気づかれないほど小さな変化だった。


 私は布人形を抱いたまま、小さく言った。


「うん」


 ライターに火をつけた。小さな炎が雨の夜に揺れる。私はそれを足元の液体へ投げた。


 炎が一気に上がった。


 熱が体を包んだ瞬間、引き裂かれるような痛みが走った。私は布人形を抱きしめたまま炎の中で転がり、喉の奥から悲鳴を絞り出した。周囲の人々が後ずさる。莉奈は口を覆い、千鶴子の顔には哀れみの色など少しもない。怜司は傘の下で、冷たく私を見ていた。


 私はようやく立ち上がり、よろめきながら崖のほうへ走った。背後で誰かが低く言った。


「あの女、本当に壊れたな」


「あれなら早く終わるだろう」


 崖から落ちる瞬間、私は振り返った。怜司の冷たさ、莉奈の勝ち誇った顔、千鶴子の残酷さ、正臣の無関心。そのすべてが目に焼きついた。


 そして、遥の心配そうな目も。


 私は風の中で、かすかに口元をゆるめた。


 そんなに私を死なせたいのなら。


 死んであげる。



4



 私は燃える火の玉のように、暗闇へ落ちていった。数秒後、体は激しく水面に叩きつけられた。冷たい水が口と鼻に流れ込み、炎は一瞬で消えた。衝撃の痛みで意識が遠のきかけたが、生きようとする本能が私の目をこじ開けた。


 私は布人形を抱きしめたまま、必死に手足を動かした。崖の下には深い淵があった。雨が水面を叩き、周囲は真っ暗で方角も分からない。どれほど泳いだのか分からない。ようやく岸辺の岩をつかみ、泥の上へ這い上がった。


 私は岸に倒れ込み、水を何度も吐いた。胸が激しく上下する。夜の雨が体を叩き、火傷とガラスの傷が同時に鋭く痛んだ。それでも私は生きていた。


 私は死んでいない。


 死ぬわけにはいかない。


 怜司と莉奈は、死んでも気づかないだろう。これは怪異でも何でもない。私は幽霊ではないし、彼らに本当に狂わされたわけでもない。これは、精神支配、監禁、財産の奪取を目的とした、周到に仕組まれた結婚詐欺と殺人の計画だった。


 久我怜司は富豪の御曹司などではない。そもそも「久我怜司」という名前すら、本物かどうか分からない。三年前、彼は優しく誠実な男を演じて私に近づき、少しずつ私を元の生活から切り離していった。


 私の両親は早くに亡くなり、信託財産といくつかの保険を残してくれていた。それらは資産管理会社と弁護士の管理下にあり、私本人の署名なしには簡単に動かせない。怜司はすぐに金を求めなかった。先に、私に家族を与えた。


 彼は私の誕生日を覚えていた。ネギが苦手なことも、幼い頃から海辺に住みたかったことも覚えていた。結婚後、彼は私を伊豆の海沿いの別荘へ連れてきた。ここは静かで、二人で暮らすにはちょうどいいと言った。あの頃の私は、ようやく自分の居場所ができたのだと思っていた。


 悪夢はそこから始まった。彼は「体調を整えるため」「妊活のため」「眠れるようにするため」と言って、私に薬を飲ませた。最初は眠気だけだった。やがて、日付が分からなくなり、夢と現実の境目が曖昧になっていった。


 彼の両親や親戚、使用人を演じていた人々は、毎日のように同じことを言い続けた。私は情緒不安定だ、妄想がある、両親はもういない、怜司以外に私を受け入れる人間はいない。少しでも抵抗すれば、彼らは私を地下室へ閉じ込めた。


 水も食事も与えられず、電気ショックを浴びせられ、拘束具で手足を縛られた。あの日々には始まりも終わりもなかった。ただ明かりがつき、消えるだけだった。私は一時、本当に自分が病気なのだと思い込んでいた。


 ある日、彼らは私に紫外線消毒ライトを持たせ、二階のトイレ掃除を命じた。水が便器の内側を流れたとき、紫外線の光に数行の文字が浮かび上がった。その文字は普通の筆跡ではなかった。日常の隙間に隠された、命綱のようだった。


 ――逃げろ。


 ――あいつは人を殺している。


 ――薬を飲むな。


 それは特殊な蛍光塗料で書かれていた。水の屈折と紫外線が重なったときだけ見える。書いた人は賭けたのだ。怜司たちが自分たちでトイレ掃除をするはずがない、と。彼女は賭けに勝ち、後に来る誰かへ唯一の警告を残してくれた。


 それ以来、私はその文字を見るたび、自分を正気に引き戻した。こっそり喉に指を入れ、薬を吐き出した。妊娠は最も使いやすい口実になった。つわりがあれば、何度もトイレに行ける。体内に残る薬を減らすこともできた。


 けれど妊娠は、怜司たちの計画を早めるきっかけにもなった。彼らは子どもを生ませるわけにはいかない。私が弁護士に連絡できるほど正気を取り戻すことも許せなかった。だから私は、逃げる準備を始めた。


 唯一頼れるのは遥だった。怜司が私の通話を監視していることは分かっていた。だから私は、あえて遥を彼に「紹介」した。孤独で、私を信じ、私の財産についてもある程度知っている女性。怜司にとって、彼女は次の獲物として格好の存在だった。


 彼はすぐに食いついた。遥を脅して協力させ、自分を守るために私を裏切ると思い込んだ。けれど彼は知らなかった。私と遥は孤児院で一緒に育ち、子どもの頃から暗号遊びをしていたのだ。


 表面上は罵倒にしか聞こえない言葉の中に、本当の情報を決まった位置で隠す。ビデオ通話で遥が言ったひどい言葉は、私を傷つけるためではなかった。旧墓地は安全、崖下は深い淵、必要なものは用意してある。彼女はそう伝えていた。


 旧墓地での「あちらへ行ったら、もうこっちのことは気にしないで」という言葉も暗号だった。落ちたらすぐ計画どおり逃げろ。振り返るな。私たちが大雨の日を選んだのは、雨で火の勢いを弱め、濡れた泥で体を覆えば火傷を少しでも抑えられるからだった。


 遥が私の足元にまいたのは純粋なアルコールではない。水で薄めたアルコール混合液だった。見た目には激しく燃えるが、実際の燃焼時間は短い。そして、彼女が私に押しつけた布人形こそが、生き延びる鍵だった。


 私は泥の上に座り、布人形の背中の縫い目をほどいた。中には密封袋が入っていた。消毒液、包帯、痛み止め、数枚の古着、分解された簡易携帯電話。さらに別の袋には、特殊メイク用の道具が入っていた。


 腐肉色の油彩、切断された指の模型、義眼、火傷用の特殊シート、そして重りになる金属片。それらは夜の中で不気味に見えたが、私の呼吸を落ち着かせてくれた。これがある限り、私はまだ反撃できる。


 私は都内の美術大学で映像表現を学び、特殊メイクと舞台造形を履修していた。怜司は私の過去に興味を持ったことがない。私が崖跳びのサークルに入っていたことも、卒業制作のために冷たい水の中で何度も入水姿勢を練習したことも知らなかった。


 布人形を先に落としたのは、道具を運ぶためだけではない。重くした人形が先に水面を乱せば、私が生き残る可能性が少しでも上がる。生きていなければ、遥を助けることも、彼らを本当の地獄へ落とすこともできない。


 消毒液で傷を処置しながら、何度も唇を噛んだ。下腹部はまだ鈍く痛む。あの拳が落ちた瞬間、怜司が本気で私を殺そうとしていることが分かった。彼はもう待てなかったのだ。


 両親が残してくれた信託財産の一部は、私の死亡後、結婚後に署名させられた遺言や保険受取人の指定によって配偶者へ流れる仕組みになっていた。あの書類は、私が薬で朦朧としていた時期に署名したものだ。彼らが今夜、誕生日会を婚約披露にすり替えたのは、私に自分が存在しないと思い込ませ、「精神疾患のある女性が焼身自殺して崖から落ちた」という形で終わらせるためだった。


 そして、あの結婚指輪は怜司への贈り物だった。彼には異常な癖がある。殺した女性たちの大切な小物を戦利品として飲み込むのだ。私はあの指輪こそが最後の心の支えだと彼に思わせるため、わざと必死に取り戻そうとした。


 彼は思った通り、飲み込んだ。指輪の内側には小型の位置情報チップと、短時間録音用のモジュールが仕込んである。ただし、本当の証拠は指輪だけではない。私は古いスマホとクラウドに、彼が薬を飲ませ、暴力を振るい、仲間と私の財産を奪う方法について話している録音を保存していた。


 指輪は最後の位置情報の証拠だった。今、それは怜司の胃の中にある。そう思った瞬間、私は雨の中で小さく笑った。胸の痛みさえ、少し遠ざかった気がした。


 私は遥が用意してくれた服に着替え、簡易携帯電話を組み立てた。電源を入れると、画面が光り、電波は十分に入っていた。私は一一〇番に電話をかけた。


 つながると、私はできるだけ短く状況を説明した。


「佐倉澪です。伊豆の山中にある古い墓地付近で、監禁と殺人未遂の被害に遭いました」


「容疑者たちは海沿いの別荘にいます。現場には複数の共犯者がいる可能性があります」


「この携帯の位置情報から、すぐに来てください」


 通話を切ったあと、私は特殊メイクの道具が入った袋を見た。雨はまだ降っている。遠くの別荘のほうには、かすかな明かりが見えた。あそこにいる人たちは、きっと私の死を祝っているのだろう。


 私はゆっくり口元をゆるめた。


 怜司、莉奈、千鶴子。


 私を幽霊にしたかったんでしょう?


 だったら見せてあげる。


 地獄から這い上がってきた女が、どんな姿をしているのか。



5



 別荘には明かりがともっていた。私を焼身自殺に追い込み、崖から落としたあと、婚約披露はすぐに祝勝会へ変わった。怜司はリビングの中央に座り、グラスを揺らしている。その表情は、ついさっき一人の人間が死んだとは思えないほど軽かった。


 招待客たちは彼の周りを囲み、興奮と下劣さの混じった笑みを浮かべていた。誰かが見事な手口だと褒め、誰かが精神疾患の女の自殺なら一番きれいに片づくと言った。酒と音楽に混じるその言葉は、上流の仮面をかぶった分配会のようだった。


「久我さん、見事でしたよ」


「自分の手を汚さず、あの女を自分から飛び降りさせるなんて」


「精神疾患のある女の自殺なら、誰にも疑われませんからね」


 莉奈は怜司の腕の中で、勝ち誇ったように笑っていた。そして近くに立つ遥へ目を向ける。その目には、軽蔑と探るような色があった。遥はグラスを持ち、指先をわずかに白くしていた。


「遥、あなたもなかなかだったわね」


「親友にあそこまでできるなんて、感心したわ」


 遥は目を伏せ、落ち着いた声で答えた。


「久我さんが機会をくださったおかげです」


「澪のことは、前から気に入りませんでしたから」


 怜司が声を上げて笑った。彼はグラスを置き、遥へ視線を向けた。その目は、すでに手に入れた新しい商品を品定めしているようだった。リビングの空気が、ふいに微妙に変わる。


「賢いな」


「だが獲物が一人いなくなった以上、次を探さないといけない」


 部屋が少し静かになった。莉奈は遥を見て、悪意を浮かべる。遥の背中は汗で濡れていたが、一歩も下がらなかった。


 怜司がゆっくり口を開いた。


「次は誰だと思う?」


 その続きを言おうとした瞬間、ぱん、と音を立てて別荘中の明かりが消えた。悲鳴が上がり、グラスが絨毯に落ちて割れた。暗闇の中で、全員の呼吸が乱れていく。


「何だ?」


「停電か?」


「非常電源は?」


 怜司の声が闇の中で響いた。


「ブレーカーを見てこい!」


 誰も動かなかった。リビングの奥から泣き声が聞こえた。細く、途切れ途切れで、それなのに耳の内側に貼りつくような声だった。さっきまで騒がしかったリビングが、一瞬で閉ざされた墓のようになった。


「う……うう……」


 千鶴子が無理やり気丈な声を出した。


「誰よ、悪ふざけしているのは」


 泣き声がぴたりと止まった。リビング中央のスクリーンが突然点灯し、白い光が怯えた顔を次々と照らした。画面の中では、一人の女が炎の中でもがいていた。


 腕には古びた布人形を抱いている。体は焼け焦げ、それでも苦しそうに転がり続けていた。その映像は、さっき旧墓地で起きた出来事が地獄から再生されたようだった。誰かが気づき、震える声を漏らした。


「あれ、さっきの女じゃないか?」


「崖から落ちたはずだろ……?」


 画面の中から、低い声が流れた。


「怜司……」


「私の指輪……」


「痛いよ……」


 怜司の顔から血の気が引いた。彼は胃のあたりを押さえた。そこは、じくじくと痛んでいるはずだった。莉奈は叫び、怜司の腕にしがみついた。声は完全に裏返っていた。


「怜司、幽霊よ!」


 怜司は無理やり立ち上がった。


「黙れ。誰かのいたずらに決まっている」


 その言葉が終わる前に、二階の階段口に白い影が現れた。ぼろぼろの服をまとい、布地には泥と暗い赤がこびりついている。長い髪を乱し、裸足で階段を踏みしめ、うなだれたまま、一段ずつ降りてくる。


 木の階段が軋んだ。スクリーンの白い光がその影を照らし、全員がその顔を見た。片側の顔は皮膚がなく、骨と黒焦げの組織が露出している。もう片側の皮膚は溶けた蝋のように垂れ下がり、眼球は今にも落ちそうに揺れていた。


 それは、彼らが神鏡で私に見せた「死に顔」そのものだった。


 悲鳴が爆発した。招待客たちは入口へ殺到し、テーブルや椅子を倒し、酒とデザートを床にぶちまけた。莉奈が最初にドアノブへ手を伸ばしたが、怜司が彼女を突き飛ばすように引き倒した。


「どけ、俺が先だ!」


 彼は入口へ飛びつき、ドアを力任せに引いた。だが外から鍵がかかっていて、びくともしない。白い影はゆっくり近づいてくる。その一歩一歩が、全員の神経を踏みつけるようだった。


 千鶴子は目をむいて、その場に倒れた。正臣は後ずさり、ローテーブルを倒した。莉奈は床にへたり込み、スカートの下に濡れた染みを広げた。


「私じゃない」


「全部、怜司がやったの。全部あの人の指示よ」


 怜司の顔から、最後の余裕が消えた。彼は胃を押さえ、額に汗を浮かべ、唇を震わせていた。白い影は彼の前で立ち止まり、黒焦げの手を上げて、彼の腹を指さした。


「怜司」


「私が自分で焼かれなければ、楽になれないって言ったよね」


「戻ってきたよ」


 その声は、とても静かだった。


「私の指輪、まだお腹の中にある」


「返して」


 怜司は床に尻もちをつき、手足を使って後ずさった。ソファに背中をぶつけ、もう逃げ場はない。顔は真っ青で、ズボンは大きく濡れていた。ひどい臭いが漂い始めたが、誰一人笑う者はいなかった。


「来るな」


「悪かった。澪、悪かった」


 白い影がゆっくり身をかがめた。


「私のこと、知らないんじゃなかったの?」


 そのとき、別荘のドアが外から破られた。


「動くな!」


「警察だ!」


「全員、その場で手を上げろ!」


 数人の警察官がなだれ込み、素早く現場を制圧した。先頭にいた佐伯刑事がブレーカーを入れる。照明が一斉についた。リビングはひどく荒れ果てていた。中央には腐りかけた女の幽霊が立ち、華やかな服を着た男女が部屋の隅でみじめに縮こまっている。


 私はゆっくり怜司の前へ歩いた。彼が怯えきった目で見上げる中、腐った顔の半分をはがした。特殊メイクの素材が床に落ち、明るい照明がようやく私の本当の顔を照らした。


 私は彼を見下ろした。


「怜司、驚いた?」


「あなたの亡き妻が、地獄から戻ってきたの」


 彼の唇は震えていた。


「そんなはずない……あの高さから落ちて、生きているわけがない」


「お前は、幽霊だ」


 私はしゃがみ込み、完全に崩れた彼の顔を見た。この男は私を獲物だと思っていた。金を引き出すための道具だと思っていた。気に入らなければ消せる存在だと思っていた。けれど彼は考えもしなかったのだ。私にも、彼の知らない過去があることを。


「あなたの一番の失敗は、私の過去に何の興味も持たなかったこと」


「私が大学で特殊メイクを学んでいたことも」


「崖跳びを練習していたことも」


「あなたが完璧だと思っていた計画が、二階のトイレに負けたことも、知らなかったでしょう」


 怜司はその場で固まった。佐伯刑事が手を振ると、警察官たちがすぐに彼を取り押さえた。私の横を通るとき、彼はまだ私の顔をにらみつけていた。そこに後悔はなかった。あるのは憎しみだけだった。


「連れていけ」



6



 警察署の取調室で、温かい生姜湯が私の前に置かれた。私は毛布を羽織っていた。火傷とガラスで切った傷は、すでに応急処置を受けている。向かいに座る佐伯刑事は年配で、目つきは落ち着いていた。


 窓の外はまだ明るくなっていなかった。取調室の白い照明は冷たく、机の上の録音機をはっきり照らしている。私は紙コップを握りしめた。指先には、まだしびれが残っていた。


「佐倉さん、医師はもうすぐ来ます」


 佐伯刑事は録音機を机に置いた。


「大まかな状況は把握しています。ただ、この事件は根が深い。最初から順を追って話してもらえますか」


 私は紙コップを握ったまま、少しずつ話し始めた。怜司がどうやって私に近づいたのか。完璧な夫をどう演じていたのか。伊豆の別荘での薬物支配、地下室の拘束具と電気ショック。二階のトイレに残された蛍光文字。そして遥と暗号で立てた脱出計画。一つずつ言葉にしていった。


 今夜の誕生日パーティー、婚約披露、精神科の診断書、偽造された除籍謄本のコピー、墓石、焼身、崖からの転落。その一つを口にするたび、体の中で腐っていた棘を一本ずつ抜いていくようだった。記録係のペンは止まらなかった。佐伯刑事の顔は、話が進むほど険しくなっていった。


 私が話し終えると、彼はしばらく沈黙した。


「実は、我々は以前からこのグループを追っていました」


 私は顔を上げた。佐伯刑事は資料を開いた。数枚の写真と時系列のメモが挟まれている。それを目の前へ置かれた瞬間、私の指先は反射的に強くこわばった。


「過去八年、東京、神奈川、静岡周辺で、似たような事件がいくつも起きています」


「被害者はいずれも、社会的なつながりが薄く、一定の資産を持つ女性でした」


「結婚後まもなく、うつ病や精神障害と診断され、その後、自殺や事故として亡くなっている」


「高額の保険金や遺産は、最終的に配偶者、あるいは関連口座へ流れています」


 指先が冷たくなった。


「その夫たちは、怜司と関係があるんですか?」


 佐伯刑事は首を横に振った。


「関係がある、というより」


 彼は私を見た。声を低くする。


「久我怜司という人物は、彼が使った複数の身分の一つにすぎない可能性があります」


 取調室が静まり返った。その言葉は氷の塊のように、ゆっくり胃の底へ沈んでいった。私は一人の悪魔に出会ったのだと思っていた。だがその背後には、もっと大きな巣があった。


「このグループは整形、偽造身分、偽の親族、協力医師、偽造文書を使って、それぞれ違う『理想の夫』を作り上げていました」


「標的へ接近する役」


「家族や友人を演じる役」


「薬物を提供する役」


「精神科の診断資料や財産関係の同意書を偽造する役」


「そして、死亡を自殺や事故に見せかける後処理役」


 背中が冷えた。もし逃げられなければ、私も彼女たちと同じように、「精神疾患」「うつ病」「自殺」というラベルを貼られ、誰にも知られないまま消えていた。彼女たちの名前は、書類の中の一行になり、犯人はまた別の顔で次の標的を探しただろう。


 取調室のドアが開いた。若い警察官が足早に入り、密封された証拠袋を机に置いた。中には、あの指輪が入っていた。きれいに処理されているはずなのに、見ただけで胃がひっくり返りそうになった。


「佐伯さん、指輪が出ました」


「中に位置情報チップと小型録音モジュールが確認されています。技術班がデータを解析中です」


 若い警察官は一度言葉を切った。顔色がさらに悪くなる。


「それから、別荘の地下に隠し部屋が見つかりました」


 佐伯刑事が目を上げる。


「大量の向精神薬、スタンガン、拘束具、偽造文書のテンプレートがありました」


「それと、大型の冷凍庫がいくつも……」


 彼は言葉を続けられなかった。取調室の空気が一瞬で凍りついた。私は紙コップを握りしめた。熱い生姜湯の温度が紙越しに伝わっているのに、指先は少しも温まらなかった。


 佐伯刑事は立ち上がった。声は低く抑えられていた。


「分けて聴取する」


「久我怜司、白石莉奈、千鶴子、正臣、それに今夜現場にいた全員だ。一人も漏らすな」


 動かぬ証拠を突きつけられると、グループ内部はすぐに互いを売り始めた。莉奈が最初に崩れ、すべての責任を怜司に押しつけ、自分は脅されていただけだと主張した。千鶴子と正臣も本物の久我夫妻ではなかった。彼らはグループの古参で、裕福な家庭の両親を演じ、被害者の信頼を得る役だった。


 あの霊媒師も、迷信を利用したシナリオと精神支配を担当する一員だった。古い墓地、神鏡、墓石、除籍謄本のコピー、すべてが事前に用意された道具だった。死に顔を映す神鏡には、小型ディスプレイと投影装置が仕込まれていた。


 彼らは、私を追い込めば、私の死を「精神疾患の女性による自殺」として処理できると思っていた。まさか、自分たちが最も扱いやすいと思っていた女が、崖下から生きて戻ってくるとは思っていなかった。まして、見下していた私の過去が、生き延びる理由になるとは考えもしなかった。


 怜司の精神的な防壁は、録音が再生された瞬間に崩れた。指輪の録音は完全ではなかったが、十分に明瞭だった。そこには、彼と莉奈が私の産婦人科の書類をすり替える相談をする声があった。千鶴子に精神科診断書のコピーを用意させる声もあった。そして、「前の女たちもこの方法で処理した」と口にする声も。


 その後、警察はクラウドに保存されたデータと、遥が提出した暗号記録によって証拠を補強した。この大規模な連続結婚詐欺殺人事件は、全国を震撼させた。ニュースは連日報道したが、その映像は私には薄い霧の向こうの出来事のように見えた。


 裁判は長く続いた。怜司は主犯として、殺人、殺人未遂、監禁、詐欺、有印私文書偽造、薬機法違反など複数の罪に問われ、長い審理の末に死刑判決を受けた。主要メンバーには無期懲役、または長期の有期刑が言い渡された。


 披露の場に参加し、身分偽装や脅迫に協力した者たちも、関与の程度に応じて処罰された。遥は脅迫を受けていたこと、そして被害者の救出と証拠保全に重要な役割を果たしたことから、不起訴処分となった。あの夜、照明の下で私を笑っていた人々は、ようやく一人ずつ頭を下げることになった。



7



 退院の日、遥が迎えに来てくれた。東京の空は珍しく晴れていた。病院の入口の木々が風に揺れ、陽の光が体に落ちる。その温かさが、どこか現実離れして感じられた。


 遥は階段の下に立ち、白い小さな花束を持っていた。私を見た瞬間、彼女の目が赤くなった。私たちは数段の階段を挟んで、しばらく見つめ合った。どちらも、すぐには歩き出せなかった。


「澪」


 私は彼女のほうへ歩いた。遥は私を抱きしめた。体がまだかすかに震えている。その瞬間、旧墓地の雨音も、別荘の悲鳴も、取調室の冷たい白い光も、潮が引くように遠ざかっていった。


「ごめん」


 私は首を横に振った。


「謝るのは、私のほうだよ」


 遥は私を離した。目には疲れが濃く浮かんでいた。ずいぶん痩せて、顔色も悪かった。長い間、本当に眠ることができなかったように見えた。それでも彼女はここにいた。生きて、私の前に立っていた。


「あのとき、本当に怖かった」


「うまく演じられなかったらどうしようって。澪が暗号に気づかなかったらどうしようって。飛び降りたあと、二度と上がってこなかったらどうしようって」


 私は彼女を見た。


「旧墓地で言った『あちらへ行ったら、もうこっちのことは気にしないで』って言葉、本当は逃げたら戻ってくるなって意味だったんでしょう」


 遥は何も言わなかった。彼女は顔を伏せ、花束の包装紙を強く握った。その小さな音が、胸を締めつけた。


 私は彼女の手を握った。


「遥がいなかったら、私はとっくに死んでいた」


「あなたを置いていくなんて、最初から選択肢になかった」


 遥はうつむき、涙を手の甲に落とした。


「生きていて、よかった」


 私は彼女を抱きしめた。


「うん。本当に」


 事件の処理は長く続いた。警察は地下室と冷凍庫から、複数の被害者の身元を確認した。かつて「自殺」や「事故死」とされた女性たちは、ようやく名前を取り戻した。


 私は両親が残してくれた遺産の一部を、被害女性を支援する公益基金へ寄付した。残ったお金は、治療やリハビリ、法的手続きの費用に充てた。伊豆の別荘は差し押さえられた。私はその後、一度も戻っていない。


 私と遥は日本を離れ、長い旅に出た。逃げるためではない。自分たちがまだ自由に世界を歩けるのだと確かめたかったからだ。私たちは多くの場所を訪れ、見知らぬ街で少しずつ呼吸の仕方を取り戻していった。


 フィレンツェの夕暮れ、川面は橙色に染まっていた。遥はグラスを持ったまま、ふいに私を見た。その声は、ようやく塞がりかけた傷を驚かせないような、静かな声だった。


「澪は、また誰かを愛せると思う?」


 私は遠くの空を見た。長い時間が経ってから、小さく笑った。川から吹く風には、知らない街の匂いが混じっていた。


「分からない」


 私はグラスを少し持ち上げた。


「でも、夜が明ければ、ちゃんと朝は来るって信じてる」


 そのとき、スマホが鳴った。画面には佐伯刑事の名前が表示されている。電話に出ると、彼の落ち着いた声が聞こえた。


「佐倉さん、森下さん。お二人が使っていた暗号について、こちらで非常に関心を持っています」


「もし協力していただけるなら、被害者が助けを求めるための暗号システムの整備に参加してもらえないでしょうか」


 私と遥は顔を見合わせた。先に笑ったのは遥だった。その目には、ようやく少しだけ軽さが戻っていた。その瞬間、私たちはあの悪夢から、ほんの一歩だけ外へ出られたのだと思った。


「どうする?」


 私はスマホをしまい、川の向こうの光を見た。


「行こう」


「私たちにできることがあるなら、やってみよう」


 川から風が吹いてきた。私は目を閉じた。頬の傷痕に、陽の光がそっと触れている気がした。消えない痕も、きっとある。


 それでもその痕は、私に思い出させてくれる。


 私は地獄から這い上がった。


 そして、自分の手で悪魔を送り返したのだ。





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