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地獄の番犬は黙れない  作者: 斜ー


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4.S級冒険者の敗北

 王都ルアウムの冒険者ギルド。その重厚な扉を蹴破らんばかりの勢いで開け、一人の男が入ってきた。


 全身に刻まれた数々の古傷、背負った大剣から放たれる圧倒的なプレッシャー。アルテニア王国に数人しかいない最高位、S級冒険者ジャイル・エブタリフである。


「……南の森の調査報告だ。ギルドマスターを出せ」


 ジャイルの声が響くと、酒場にいたベテラン冒険者たちが一斉に冷や汗を流し、道を空けた。


「ジャイルさん、お疲れ様です! 南の森、どうだったんですか?」


 受付嬢のリリア・ローダーが、いつもの笑顔で応対する。


 ジャイルは眉間に深い皺を刻んだまま、カウンターを拳で叩いた。


「……異常だ。あそこは現在、生物の気配が一切ない。アビス・タランチュラどころか、羽虫一匹飛んでおらん。何者かが、森の全生命体を一瞬で『沈黙』させたような……そんな絶望的な魔力の残滓(ざんし)を感じた」


 ジャイルの「生存本能」は、かつて対峙した魔王級の存在ですら味わったことのない、根源的な恐怖を訴えていた。


「ええっ、そんなことが! でも、先日、南の森から戻った新人さんは、すごく平和だったって言ってましたよ?」


「新人だと……? 誰だ、その幸運な馬鹿は」


 ジャイルが鋭い眼光をギルド内に走らせた、その時だった。

 

「あ、すみません。リリアさん、納品に来ました!」


 場違いなほど明るい声と共に、カラムがカウンターにやってきた。その肩には、いつものように漆黒の毛並みを持つクロが座っている。


 ジャイルの全神経が、一瞬でクロに集中した。


(……っ!? なんだ、この魔力の質量は……! この小さな体に、冥界を丸ごと圧縮して詰め込んだような異様なプレッシャー……貴様か! 貴様が森を黙らせた『個』なのか!?)


 ジャイルは無意識に大剣の柄に手をかけた。あまりの恐怖に、身体が勝手に防御姿勢を取ったのだ。


「ジャイルさん、この人が新人のカラムさんで、こちらが相棒のクーちゃんです!」


「……フム。貴様、人間の中ではなかなかの眼力を持っているな。ワシの気配を僅かでも察知するとは、褒めてやろう」


 クロが、威厳たっぷりの渋い大人の声でジャイルを見下ろした。


 ジャイルの背中に、冷たい汗が流れる。


(……喋った。しかもこの声の重み、ただの魔物ではない。こいつは……一体何者だ!?)


「あ、初めまして。少し前にこのギルドで冒険者登録をした新人のカラムと言います。すいません、うちのクロ、カッコつけたい盛りで。『ワシはケルベロスだ!』なんて言って、偉そうな口を叩く癖があるんです。厨二病っていうんですかね?」


 カラムが申し訳なさそうに頭を下げる。


 ジャイルは戦慄した。


(何を言っている、この新人は! 『厨二病』だと!? 貴様の隣にいるのは、おそらく世界を軽く滅ぼせる災害種だぞ!?)


 ジャイルは、必死にカラムを救い出そうと、震える口を開いた。


「……おい、カラムと言ったか。その魔物を今すぐ放せ。それは、貴様のような人間が連れて歩いていい存在ではない……!」

 

「ジャイルさん、どうしたんですか。クロは僕の家族ですよ」


 カラムは不思議そうに、クロを抱き上げた。


「ワシの恐ろしさを理解しているようだな、人間。貴様はなかなか有能なようだ。わしの眷属にしてやってもよいぞ? どうだ?」


 クロが赤い瞳をギラつかせ、今にも咆哮を放とうとした、その瞬間。


「クーちゃん、そんなこと言っちゃダメよ!」


 リリアがカウンターから身を乗り出し、クロのふっくらとした頬を、両手でムニュゥッと挟み込んだ。


「……む!? ……きっ貴様、何を……!? やめろ、ワシの威厳が……!」


「ほら見て、ジャイルさん! この怒ったお顔、最高にキュートでしょ? この『ぷにっ』とした感触! 災害種が、こんなに可愛いわけないじゃないですか!」


 リリアに弄ばれ、手足をバタつかせるクロ。その拍子に、クロの豊かな長毛が、ジャイルの鼻先をフワリと掠めた。


「…………」


 ジャイルの思考が停止した。


 彼の鼻孔を突いたのは、死の臭いではない。「お日様の下で干したお布団のような、最高に可愛いわんこの匂い」だった。


(……なんだ、この匂い。香ばしい……いや、それだけではない。この、もふもふとした毛並みの質感、そしてこの……必死に抵抗しようとして足が空回っている、愛くるしいフォルム……)


 実は、ジャイル・エブタリフもまた、無類の犬好きだったのである。


 ジャイルの脳内で、最高レベルの「生存本能」と、限界突破した「愛犬本能」が激しく衝突を始めた。


(……待て、騙されるな。こいつは森を消滅させたバケモノだ。しかし……しかしだ、私を見上げる上目遣いのこの赤い目は……なんと美しく愛くるしいことか……!)


「クーちゃん、お座り! はい、いい子ね!」


 リリアがクロをカウンターに置くと、クロは文句を言いながらも、「ちょこん」と座った。


「……フン。ワシに命令など……一億年早いわ。だが、この木の質感が尻に馴染むのでな、一時的に座ってやるだけだ」


「見てくださいよ、ジャイルさん! この『お座り』の完璧なフォルム! 後ろ足のラインが堪りません!」


 リリアの熱烈なプレゼンを受け、ジャイルの指が、ピクピクと痙攣した。


 彼は、抗えなかった。


 ジャイルは無言のまま、鉄の拳をゆっくりと開きクロへと伸ばした。


 そして──クロの額を、人差し指でそっと、撫でた。


「……っ!?」


 クロが驚いてジャイルを見る。


 ジャイルは、震える声で呟いた。


「……フム……なるほどな。確かに……よく訓練された、芸達者な……『設定の凝った』子犬だ。ケルベロスを名乗るという……その、いわゆる……『厨二病』というやつか……よくできている」


 ジャイルの生存本能は、まだ全力で「逃げろ!」と叫んでいた。


 だが、指先に伝わる「至高のもふもふ」が、彼の理性と本能を、強引にシャットダウンさせたのだ。


「ああ、ジャイルさんも分かってくれましたか! クロ、よかったな、褒められたぞ!」


 カラムが嬉しそうに笑う。


「……貴様……ワシを撫でたな。ワシを、撫でたな……!」


 クロが真っ赤になって喚いているが、ジャイルの耳にはもう「可愛い鳴き声」としてしか届いていなかった。

 

「リリア……南の森の件は、私の勘違いだったようだ。あれは……そう、強力な局地的旋風による、一時的な静寂だ。魔物の気配など……最初から無かった」


 ジャイルは、自らのS級としてのプライドを粉々に砕き、自分を納得させるために壮大な嘘を吐いた。


「あ、ジャイルさん! お帰りですか?」


「……ああ……これから、最高級の、霜降り肉を買いに行く……理由は、聞くな」


 ジャイルはそう言い残すと、足早にギルドを去っていった。


 彼の頭の中は、「あの毛並みを維持するには、良質なタンパク質が必要だ。もし明日、あの新人がまた現れたら、ワシのポケットにあるジャーキーを……いや、我慢だ」という葛藤で一杯だった。


「ジャイルさんも、クーちゃんの可愛さにノックアウトされちゃったみたいですね!」


 リリアが楽しそうに笑う。


「よかったなぁクロ。S級のジャイルさんにも認められたぞ!」


「認められたのではない! ワシは……ワシは屈辱を味わったのだ! カラム、今すぐジャイルを追いかけろ! 謝罪として肉を十キロ要求する!」


「はいはい、わかったわかった。じゃあ、帰りに市場に寄ろうな」


 カラムは、クロが本当はジャイルを震え上がらせるほどの威圧を放っていたことなど、露ほども気づいていない。


 そしてクロもまた、自分がどれほどジャイルの「理性を破壊したか」に気づかず、ただ撫でられた場所が少し痒いような、妙に落ち着かない気分を味わっていた。


 こうして、王都最強の冒険者さえも「もふもふ」の軍門に下らせたクロ。


 真実を知る者は誰もおらず、ただ「恐ろしいほど可愛くて生意気な設定の犬」という噂だけが、王都に広まっていくのであった。


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