1.深淵を拾った男
一人の青年が腰に一振りの剣を差し、旅立ちの空を見上げていた。
カラム・アルブラスター、二十歳。どこにでもいる素朴で真面目な農家の青年だ。彼の足元には、漆黒の毛並みを持つ愛らしい子犬がちょこんと座っている。
燃えるような赤い瞳を持つその子犬の名は、クロ。
「よし、クロ、行くぞ。王都ルアウム行きの馬車に乗り遅れたら大変だからな!」
「待て、カラム。貴様、このワシを馬車などという家畜の引く箱に押し込むつもりか? 地獄の番犬たるワシが移動する際は、本来、次元の裂目を通るのが通例だぞ」
クロは、子犬の見た目に反して、威厳たっぷりの渋い大人の声で話し始めた。
「はいはい。というかクロ、外で喋るなって言っただろ」カラムは屈み込み、クロを抱き上げた。
「秘密にしておかないと、見世物小屋に連れて行かれちゃうかもしれないんだぞ? 俺たちは王都で立派な冒険者になって働いて、母ちゃんに仕送りしなきゃいけないんだから」
「フン。見世物小屋だと? ワシが本気を出せば、そのような施設は一瞬で塵と化すが? 貴様の心配は常に次元が低すぎて欠伸が出るわ」
クロはそう毒づきながらも、カラムの腕の中でフワフワの尻尾を揺らしていた。
──カラムとクロの出会いは半月前。
アルテニア王国、グリーンウッド村。この村から一歩踏み出すと、昼でも薄暗い「霧の森」が広がっている。方位磁針すら狂わせるその森の奥には、古びた祠があった。
カラム・アルブラスターは、王都へ発つ前に祈りを捧げるため、その祠を訪れた。そこで彼は、運命の出会いを果たす。
森の奥にある、古びた祠の裏手。そこには、周囲の草花を焼き払い、地面が真っ赤に熱を帯び、魔力が澱んでいる岩穴があった。
「……ん? なんだ、あの黒い塊」
カラムが岩穴を覗き込むと、そこには一匹の子犬が倒れていた。
漆黒の毛並み、ややモサモサとした長毛。大の犬好きであるカラムは、その場所が放つ異常な熱気も、空気がピリピリと震える魔圧も気にせず、迷わず手を突っ込んでその小さな体を抱き上げた。
「うわっ、酷い怪我だ! 大丈夫か、お前。こんなところで寝てたら死んじゃうぞ」
その瞬間、子犬の目がカッと開いた。燃えるような真紅の瞳。
「……愚かな人間め……その……穢れた手で……ワシに触れるな……」
子犬の口から漏れ出たのは、地底の底から響くような、重厚で威厳に満ちた「男の声」だった。普通の人間なら、恐怖で腰を抜かすか、魔物として剣を抜く場面だ。だが、カラムは違った。
「えっ、お前、喋れるのか!? 」
「……は?」
「怪我してるみたいだけど、元気そうだな! よかった!」
「貴様……ワシは地獄の番犬ケルベロス……三つの首で魂を喰らう死神ぞ……」
「よしよし、大丈夫、大丈夫。怖くない、怖くない。俺はカラム、よろしくな」
「貴様、聞いているのか? ワシは炎で世界を焼き尽くす……死を司る神……ケルベロスぞ……」
カラムはケルベロスが放つ凄まじい殺気や、周囲の空気を歪ませるほどの魔圧を、「元気そうだな」として処理した。
「お前、ケルベロスって言うのか! かっこいい名前だな!」
「そうだ……地獄の業火で……お前を焼き尽くしてやってもよいのだぞ……」
「なあ、一つ聞いてもいいか? 地獄の番犬ケルベロスってさ、デカくて、頭が三つあって、燃えるような赤い瞳と、黒くて美しい毛並みを持つ神のような存在だろ?」
「ふん……分かっているではないか」
「でも、お前、頭は一つだし、ちっちゃくてめちゃくちゃ可愛いぞ? あ、毛並みは黒くてモサモサしてて、そこはケルベロスっぽいな!」
「……これは……本来の姿ではないのだ……」
「ふーん。お前、熱でもあるのか?」
「……きっ、貴様!」
「まあ、いいや。じゃあ、ケルベロスってことでいいけど、いちいちケルベロスじゃ呼び難いから、俺はお前のこと、呼びやすいように『クロ』って呼ぶことにするよ。黒いしな!」
「……聞け。ワシの名はケルベロスだ……そして今、ワシに……」
「分かった、分かった。取り敢えず、その怪我の手当てもしなきゃだろ? お腹は空いてないか?」カラムは聞いちゃいなかった。
クロ(ケルベロス)は、力を振り絞って牙を剥いた。だが、カラムはその鼻先に、自分の指を優しく添えた。
「ほら、無茶するな。怪我してるんだから、大人しくしてなきゃダメだ」
カラムの指先は、クロが放つ熱で火傷しそうになっていたが、彼は全く気にせず微笑んでいた。
「クロは今日から俺の家族だ!」
クロは困惑した。今まで出会った全ての存在は、自分を「恐怖」か「力」としてしか見ていなかった。だが、この目の前の男は、自分を「恐怖」でも「力」でもなく「ただの犬」として……いや、「助けるべき家族」として見ている。こんな人間は初めてだった。
「……勝手にせよ……ワシの傷が癒えた瞬間……貴様の村ごと、灰にしてやろうぞ……」
「おう、元気になったら一緒に散歩にでも行こうな!」
これが、世界最強の番犬が、世界最強の天然男に「拾われた」瞬間だった──




