第9話 肉汁溢れるジューシー唐揚げ
翌日、私は朝から「戦場」に立っていた。
ボウルに山盛りになった鶏もも肉。そこに、すりおろした生姜とニンニク、酒、そして醤油をたっぷりと揉み込む。
ジップロックのような保存袋がないので、ボウルに落とし蓋をして重石を乗せ、しっかりと味を染み込ませる。
「美味しくなーれ、美味しくなーれ」
これはおまじないではない。
私の魔力を微量に織り交ぜるための重要な工程だ。三十分ほど寝かせた肉に片栗粉の代わりに芋の粉をまぶす。
余分な粉をはたき、準備は完了だ。
そして昼下がり。
店の扉が開くと同時に店内の空気が一変した。
サァァァ……と、まるで冷気が流れ込んだかのように気温が下がる。
「……ここか」
現れたのは、昨日来店した騎士たちに先導された一人の青年だった。
銀糸を溶かしたようなプラチナシルバーの髪。
凍てつく氷河のようなアイスブルーの瞳。
整った顔立ちだが、その表情は能面のように無表情で人を寄せ付けない鋭い覇気を纏っている。
――辺境伯、ジークフリート・フォン・ノルド。
通称『氷の騎士』。
(うわぁ、本当に怖そう……というか、顔色が真っ青じゃない!)
私の目には、彼の美貌よりもその不健康さが目に付いた。眉間には深い皺が刻まれ、こめかみを指で押さえている。強大な魔力が体内で暴走し、激しい頭痛を引き起こしているのが、魔力持ちの私にはなんとなく分かった。
「い、いらっしゃいませ。奥のテーブルへどうぞ」
他のお客様が怯えて硬直する中、私は精一杯の笑顔で案内した。ジークフリート様は無言で頷き、重そうに椅子に腰を下ろした。
「……食欲はない。水だけでいい」
「閣下、そう仰らずに。一口だけでも」
「……うるさい。頭に響く」
部下の騎士たちがオロオロしている。
私は厨房に戻り、熱した油の前に立った。
食欲がない? そんな言葉、この料理の前では無意味にしてあげるわ。
私は味の染みた鶏肉を高温の油へと滑り込ませた。
ジュワアアアァァァァッ!!
静まり返っていた店内に油が跳ねる勇ましい音が響き渡る。
それと同時に爆発的な香りが広がった。
醤油の焦げる香ばしさ。ニンニクと生姜の食欲を刺激するスパイシーな香り。鶏の脂が溶け出す甘い匂い。
ホールにいるジークフリート様の眉がピクリと動いたのが見えた。
喉仏が小さく動く。体は正直だ。
「お待たせいたしました。『特製・スタミナ唐揚げ定食』です」
私は揚げたて熱々の唐揚げを山盛りにした皿を彼の目の前に置いた。
キツネ色に揚がった衣は、見るからにカリカリだ。湯気とともに立ち上るガーリック醤油の香りが彼の鼻腔を直撃する。
「……なんだこれは。肉の塊か」
「唐揚げと言います。外はカリッと、中はジューシー。騙されたと思って、一つ召し上がってください」
ジークフリート様は怪訝な顔でフォークを突き刺した。そして、恐る恐る口へと運ぶ。
カリッ、ザクッ。
小気味よい音が店内に響いた。
その瞬間、彼の目がカッと見開かれる。
衣を突き破った先から、熱々の肉汁が鉄砲水のように溢れ出したのだ。
舌を火傷しそうなほどの熱さ。けれど、それを凌駕する圧倒的な旨味。ニンニク醤油のパンチが効いた濃い目の味付けが疲労した脳髄にダイレクトに響く。
「ッ……!?」
彼は言葉を失ったまま、二口、三口と咀嚼を進めた。飲み込むのが惜しいほどの旨味。
ゴクリと飲み込むと、熱い塊が胃袋に落ち、そこからじんわりと温かい何かが――私の魔力が――全身へ広がっていく。
(……痛みが、消えていく?)
彼がハッとしてこめかみに手をやる。
ガンガンと鳴り響いていた鐘のような頭痛が、唐揚げを一つ食べるごとに霧散していくのだ。
代わりに満たされるのは、暴力的なまでの「美味しい」という多幸感。
「……美味い」
彼はポツリと呟いた。
そして、次は白米を一口。濃い味の唐揚げと、ほかほかの白米。この組み合わせは至高だ。
フォークを持つ手が止まらない。
食欲がないと言っていたのが嘘のように、彼は山盛りの唐揚げを次々と平らげていく。
部下の騎士たちが「あ、あの閣下が……完食しそうだぞ!?」と驚愕している。
私はその様子をカウンター越しに見守りながら、小さくガッツポーズをした。
よし、勝ったわ! 氷の騎士様、陥落です!




