第32話 計算され尽くしたスポンジケーキ
「いいこと? 私が勝ったら、この店は私のものよ。もちろん、辺境伯様も私の護衛になってもらうわ!」
ミナ様は厨房に入るなり、我が物顔で最高級の小麦粉と砂糖を要求した。
私はため息をつきつつ、彼女に私と同じ材料――地元の製粉所で作った小麦粉と、新鮮な卵、牛乳、そして裏庭の菜園で採れた完熟イチゴを渡した。
「審査員は……そこにいるフレデリック殿下とジークフリート様にお願いします」
「ふん、望むところよ。殿下が私の味方なのは決まっているし、辺境伯様だって私の『聖女の愛』を食べれば、イチコロなんだから!」
ミナ様は鼻息荒くボウルを掴んだ。
勝負の課題は『イチゴのショートケーキ』。
シンプルだからこそ、ごまかしの効かない王道スイーツである。
調理開始。
「えいっ! やぁっ!」
ミナ様は力任せに卵を泡立て始めた。
ガチャン、ガチャン!と泡立て器がボウルに当たる音がうるさい。彼女は「空気を含ませる」という意味を理解していないようだ。ただ混ぜればいいと思っている。
「見てなさい……ここに私の聖なる祈りを込めれば……『聖女の加護よ、宿れぇぇ!』」
彼女は砂糖をドバッと入れ、謎の呪文を唱えながら混ぜている。
……ダメだ。砂糖は数回に分けて入れないと、泡が安定しないのに。
私は彼女を視界から外し、自分の手元に集中した。ショートケーキの命はスポンジだ。
ボウルに入れた卵と砂糖を湯煎にかけながら泡立てる。人肌程度に温めることで、卵の気泡性を高めるのだ。ハンドミキサーなどないこの世界では、腕力がモノを言う。
シャカシャカシャカ……。
リズミカルに手首のスナップを効かせて空気を含ませる。やがて卵液は白っぽくもったりとし、泡立て器を持ち上げるとリボンのように跡が残る状態になった。
ここだ。
粉を振るい入れベラに持ち替える。
ここからはスピード勝負。練らないように、底からすくい上げるように『の』の字を書くように混ぜ合わせる。
グルテンを出さず、かつ粉気をなくす。
この絶妙なバランスが口溶けの良さを決める。
溶かしバターを回し入れ、ツヤが出たら型に流し込む。
トン、と落として空気を抜き、オーブンへ。
「ふふん、私の方が早いわよ!」
ミナ様はすでに生地をオーブンに放り込んでいた。けれど、その生地は気泡が潰れ、ドロドロとした重たい液体のようだった。
――数十分後。
甘い香りが厨房に漂う。
焼き上がったスポンジを取り出す。
私のはふっくらと均一に膨らみ、綺麗なキツネ色だ。
一方、ミナ様のは……。
「な、なんで!? 真ん中が凹んでるじゃない!」
いわゆる「焼き縮み」を起こし、煎餅のようにペシャンコになっていた。
泡立て不足と混ぜすぎが原因だ。
「ま、まだよ! クリームで隠せば分からないわ!」
ミナ様は焦って、まだ熱々のスポンジに生クリームを塗りたくった。
当然、熱でクリームが溶け出し、デロデロと崩れていく。
「ああっ! 止まりなさいよクリーム!」
悲惨だ。
私はスポンジをしっかり冷ましてから、シロップを打ち、七分立てのクリームをナッペしていく。回転台を回し、パレットナイフで平らにならす。真っ白なキャンバスが出来上がったら、絞り袋でフリルを描き、真っ赤なイチゴを飾り付ける。
「完成です」
二つのケーキがカウンターに並べられた。
一つは雪のように白く美しく、イチゴが宝石のように輝く、背の高いケーキ。
もう一つは、溶けたクリームが皿に広がり、スポンジが重く湿った、無惨な黄色い塊。
「……勝負あったな」
審査員のジーク様が冷ややかに呟いた。
「ま、まだよ! 味よ! 味は私の方が美味しいに決まってるわ! 食べてみてよ殿下!」
ミナ様が悲鳴のように叫ぶ。
殿下は顔を引きつらせながら、ドロドロの塊をフォークですくった。
「……い、いただきます」
パクッ。
「……ぐっ」
殿下の動きが止まった。
重い。硬い。そし、砂糖がジャリジャリする。
スポンジはゴムのような食感で溶けたクリームが生ぬるく絡みつく。
「……ミナ。これは……小麦粉の塊だ」
「そ、そんなはずは……! ジーク様も食べてください!」
ミナ様がジーク様に皿を押し付ける。
ジーク様は眉一つ動かさず、それを手で払いのけた。
「断る。レティシアの料理以外で、私の舌を汚すつもりはない」
一刀両断。
そして彼は私の作ったケーキへと手を伸ばした。
「……美しいな。雪原に咲く花のようだ」
フォークを入れる。
その感触だけで違いは明白だった。




