第20話 震える悪徳商人
「ぶ、豚野郎だと……！？」
ゴルツは顔を真っ赤にして振り返った。
しかし、その目に映った人物を確認した瞬間、怒りの表情が凍りついた恐怖へと変わるのに時間はかからなかった。
ジークフリート様が一歩踏み出すたびに、床板がミシミシと鳴り、その足元から白い霜が広がっていく。
店内の気温は、もはや真冬の屋外よりも低い。
護衛の屈強な男たちが本能的な恐怖で後ずさる。
「だ、誰だ貴様！ 私の護衛が怖くないのか！ やっちまえ！」
ゴルツの金切り声に従い、護衛の一人が剣を抜いてジーク様へ襲いかかった。
「おらぁっ！ 死に――」
「……邪魔だ」
ジーク様は剣を抜くことすらしなかった。
ただ、冷ややかな視線を向け、指先を軽く振っただけ。
パキパキパキッ！！
乾いた音が響き、襲いかかった男の足元から腰までが、一瞬にして分厚い氷塊に閉じ込められた。
「う、うわぁぁぁぁ！？ あ、足が、動かねぇ！？」
「なっ……無詠唱の氷魔法……！？」
残りの護衛たちが悲鳴を上げる。
この辺境で、これほどの高等魔法を息をするように扱える人物は一人しかいない。
「が、銀髪に……青い瞳……まさか……」
ゴルツの顔からサーッと血の気が引いていく。
脂ぎっていた額には、冷や汗が滝のように流れていた。
「へ、辺境伯……ジークフリート・フォン・ノルド閣下……！？」
その名が呼ばれた瞬間、店内にいた他の客たちが一斉に立ち上がり、敬礼の姿勢をとった。
「そ、そんな……まさかこんな平民の店に領主様がいるわけが……」
「平民の店、か」
ジーク様はゴルツの目の前まで歩み寄ると、氷のように冷たい瞳で見下ろした。
「ここは私の安息の地であり、彼女は私が認めた唯一無二の料理人だ。その店を焼き討ちにするだと？ ……それはつまり、このノルド家に対する宣戦布告と受け取っていいのだな？」
「ひぃぃッ！！ め、滅相もございません！！ じょ、冗談です、商売の駆け引きで、少し言葉が過ぎただけで……！」
ゴルツはその場に土下座した。
床に額を擦り付け、必死に命乞いをする。
「お許しください！ 二度としません！ すぐに帰ります！ 金も置いていきます！」
「……帰すと思うか？」
ジーク様の声には慈悲の欠片もなかった。
「恐喝、暴行未遂、そして貴族への侮辱。罪状は十分だ。……おい、誰かいるか」
「ハッ！ ここに！」
客席にいた騎士たちが駆け寄ってくる。
「こいつらを地下牢へぶち込んでおけ。王都の司法省へは私から直接報告を入れておく。ゴルツ商会は、今日をもって当領地での全取引を停止、資産はすべて没収だ」
「そ、そんなぁぁぁ……！ 私の金がぁぁぁ！」
ゴルツの絶叫が響く中、彼らは騎士たちによってズルズルと引きずり出されていった。
あっという間の出来事だった。
店内に静寂が戻る。
ジーク様はふぅ、と小さく息を吐くと、張り詰めていた冷気を解いた。そしてカウンターの中に立ち尽くしていた私の方へ向き直った。
「……怖がらせたか」
「い、いえ！ 助けていただいて、本当にありがとうございます」
私が深々と頭を下げると、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「礼には及ばん。……私が、お前の料理をこれからも食べたいだけだ」
「ジーク様……」
「それに、お前が悲しい顔をしていると……飯が不味くなる」
ぶっきらぼうな言葉。けれど、その奥にある優しさに、私の胸はキュンと締め付けられた。
この人は、不器用だけど本当に温かい人だ。
緊張の糸が切れたせいか、私は急に力が抜けてカウンターに手をついた。
「はぁ……なんだか、ドッと疲れが出ちゃいました」
「……私もだ。怒鳴るのにはエネルギーがいる」
ジーク様も少し肩を落としている。
そういえば、ストレスは美容と健康の大敵だ。こんな気疲れした時には、パァッと汗をかいて、嫌な気分を吹き飛ばすような料理が必要だ。
「ジーク様。お礼と言ってはなんですが、ストレス発散になる『刺激的な料理』、食べていきませんか？」
「刺激的？」
きょとんとする彼に、私はニヤリと笑った。
「ええ。辛くて、熱くて、食べれば悩みがどうでもよくなっちゃうような……激辛のアレです！」
