第四話 全てを失った君が「やり直したい」と泣きついてきたけど、隣にはもう新しい彼女がいるんだ
あの祝賀会での地獄絵図から、数ヶ月の時が流れた。季節は冬を迎え、大学のキャンパスは冷たい風に吹かれている。あれ以来、俺の日常は驚くほど穏やかなものになった。
天羽玲の転落は、予想以上に早かった。祝賀会の翌日には、大学の懲罰委員会が招集された。不正入学疑惑、度重なる女子学生との金銭トラブル。それらが全て事実と認定され、彼は退学処分という最も重い罰を受けた。さらに、彼の父親が経営する天羽ホールディングスも、代表取締役の子息の不祥事と不正な寄付金問題でマスコミに大きく取り上げられ、株価は暴落。父親は引責辞任に追い込まれ、玲は勘当同然の身となった。SNSで彼の末路を検索すると、日雇いのバイトで糊口を凌いでいるという惨めな噂が流れてくるだけだった。
一方の白石莉緒奈も、社会的な制裁からは逃れられなかった。サークル内での浮気、しかもその相手が金と不正で大学に入学した男だったということ、そして何より、自分を支えてくれていた彼氏を裏切り、嘲笑っていたという事実は、あっという間に学内全体に広まった。
彼女は、どこへ行っても好奇と軽蔑の視線に晒された。友人だと思っていた人間は蜘蛛の子を散らすように去っていき、サークルからも追い出された。SNSは炎上し、見知らぬ人間からの誹謗中傷が殺到した。耐えきれなくなった彼女は、大学に退学届を提出し、故郷に逃げ帰ったと聞いた。だが、その実家からも勘当同然の扱いを受け、孤独のどん底に突き落とされたらしい。
俺はと言えば、第一志望だった広告代理店から、正式に内定通知を受け取っていた。あの最終面接での手応えは、本物だったのだ。
そして、俺の隣には、いつしか柊詩織がいるのが当たり前になっていた。
復讐という共犯関係は、俺たちを強く結びつけた。地獄のような映像を共に作り上げた夜、全てが終わった後に見た夜空。あの時間を共有するうちに、俺は彼女の冷静さの奥にある優しさと、深い思慮に惹かれていった。詩織もまた、俺が莉緒奈の裏切りで負った傷を、静かに、しかし丁寧に癒してくれた。
「奏斗、手、冷たい」
大学近くのカフェで、詩織が俺の手を取り、自分の両手で包み込む。その温かさが、心地よかった。
「悪い、考え事してた」
「白石さんのこと?」
彼女はいつも、核心を突いてくる。俺は苦笑しながら首を振った。
「いや。もう、どうでもいいよ。あいつらのことなんて」
それは本心だった。あれだけ燃え上がった憎しみも、今は遠い過去の出来事のように感じられる。俺の心は、詩織という新しい光によって、すっかり満たされていたのだ。
「それならいいんだけど。……そうだ、今度の休み、どこか行かない? あなたの内定祝い、まだできてなかったから」
詩織がはにかみながらそう提案する。クールな彼女が見せる、時折の可愛らしさ。それに、俺の心は強く掴まれる。
「そうだな。どこか、綺麗な写真が撮れる場所にでも行くか。君を撮りたい」
俺がそう言うと、詩織は少し驚いたように目を見開き、そして、嬉しそうに頬を染めた。
「……うん。楽しみにしてる」
友人から恋人へ。俺たちの関係は、ゆっくりと、しかし確実に形を変えていた。過去の悪夢を乗り越え、俺は新しい未来へと歩き出していた。
◇
その数日後、事件は起きた。詩織と共に、来年から住む部屋を探すために不動産屋を訪れた帰り道だった。駅前の雑踏の中、ふと、見覚えのある人影が目に留まった。
「……莉緒奈?」
俺が思わず呟くと、その人影がびくりと肩を震わせ、こちらを振り返った。そこに立っていたのは、変わり果てた姿の白石莉緒奈だった。
艶やかだった髪はぱさつき、お洒落だった服装は、くたびれた安物のコートに変わっている。祝賀会で見た華やかなドレス姿とは、まるで別人だった。化粧気のない顔はやつれ、目の下には深い隈が刻まれている。あの頃の輝きは、どこにも見当たらなかった。
「……奏斗」
か細い声で、彼女が俺の名前を呼ぶ。その瞳は怯えるように揺れ、俺の隣に立つ詩織の姿を認めて、さらに暗く沈んだ。
「なんで……なんで、詩織さんと……」
「見ての通りだよ。今の俺の彼女だ」
俺は詩織の肩を抱き寄せ、きっぱりと言い放った。詩織は何も言わず、ただ黙って俺の隣に立っている。
その言葉が引き金になったのか、莉緒奈の目から大粒の涙が溢れ出した。彼女は、その場に崩れ落ちるように膝をつくと、アスファルトに額を擦り付けた。
「ごめんなさい! 私が、私が馬鹿だったの!」
突然の土下座に、周囲の通行人が何事かと足を止め、遠巻きにこちらを見ている。だが、莉緒奈はそんなことにも構わず、嗚咽混じりに叫び続けた。
「あの時は、奏斗が就活で構ってくれなくて、寂しくて……玲くんに優しくされて、舞い上がっちゃっただけで……! 本当に好きだったのは、奏斗だけなの! あなたしかいなかったのよ!」
見苦しい言い訳。今更、そんな言葉が俺の心に響くはずもなかった。彼女は顔を上げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、俺に懇願する。
「お願い、もう一度やり直して! 今度こそ、あなたをずっと支えるから! あの祝賀会でのことも、全部水に流して……お願い!」
その姿は、あまりにも惨めだった。かつてサークルのマドンナとして輝いていた面影は、微塵もない。全てを失い、俺という最後の蜘蛛の糸に、必死で手を伸ばしている。
だが、俺の心は氷のように冷え切っていた。俺は、そんな彼女を、ただ静かに見下ろした。
「今更だよ、莉緒奈」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
「君が俺を裏切って、別の男の腕の中で俺を嘲笑った、あの日から。君はもう、俺の世界にはいない人間なんだ」
俺は、隣に立つ詩織の手を固く握った。詩織も、その手を強く握り返してくれる。
「それに、今の俺には……この人がいるから。君の入る隙間なんて、どこにもない」
絶望。莉緒奈の顔が、その一言で染まっていくのを、俺ははっきりと見た。彼女の瞳から、最後の光が消え失せる。
「そんな……嘘……」
俺は、もはや彼女に興味はなかった。背を向け、詩織と共に歩き出す。後ろから、莉緒奈の絶叫に近い泣き声が聞こえてきたが、俺は一度も振り返らなかった。
「……よかったの?」
少し歩いたところで、詩織が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ああ。あれで、全部終わりだ」
俺は、晴れやかな気持ちで答えた。過去との決別。それは、新しい未来への始まりの儀式だった。
「さあ、行こう。俺たちの未来を探しに」
俺は詩織の手を引き、新しい生活への希望に満ちた街並みの中を歩き出す。背後には、自分の犯した罪の重さに打ちひしがれ、ただ泣きじゃくる元彼女の惨めな姿が残されているだけだった。
だが、それはもう、俺の知ったことではない。俺の隣には、新しい愛と、輝かしい未来が広がっているのだから。




