第二話 震える手で再生したボイスレコーダー。そこには聞きたくなかった彼女の喘ぎ声が…
食卓に並んだのは、俺の好物である生姜焼きと、だし巻き卵だった。湯気の立つ白米に、豆腐とワカメの味噌汁。最終面接の成功を祝うための、莉緒奈なりの心のこもった手料理。そのはずだった。
「どう? 美味しい?」
「……ああ、美味いよ」
俺は、まるで砂を噛むような思いでご飯を口に運んだ。味なんて、ほとんどしない。目の前で屈託なく微笑む莉緒奈の顔を、まともに見ることができなかった。彼女の顔を見るたびに、脳裏にあのスマホの通知がフラッシュバックする。
【莉緒奈先輩、今夜も会いたいな】
今夜も。今夜「も」。その言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。俺が必死に未来を掴もうと足掻いている間、こいつは……俺のベッドで眠り、俺の服を着て、俺のいない場所で、別の男と。
「奏斗? どうかした? やっぱり疲れてる?」
心配そうに顔を覗き込んでくる莉緒奈。その仕草一つ一つが、今はただひたすらに白々しく、俺の神経を逆撫でした。
「いや、大丈夫だ。ちょっと緊張が解けて、どっと疲れただけ」
嘘だ。疲れているのは体じゃない。信じていた人間に裏切られ、心が軋みを上げて砕け散りそうになっているんだ。叫び出しそうな衝動を、奥歯を噛み締めることで必死に抑え込む。ここで問い詰めたらどうなる? 莉緒奈は泣きながら言い訳をするだろうか。それとも、逆ギレして開き直るだろうか。どちらにせよ、感情的に動けば俺が不利になるだけだ。
「そっか。無理しないでね。面接、手応えあったんでしょ? きっと大丈夫だよ!」
根拠のない楽観論を、満面の笑みで語る莉緒奈。その無邪気さが、今は鋭い刃物となって俺の心を抉った。俺は曖昧に笑って見せると、残りの食事を胃袋に詰め込む作業に没頭した。
その夜、莉緒奈は当然のように俺の隣で眠っていた。すうすうと穏やかな寝息を立てるその横顔を、俺は暗闇の中でじっと見つめる。この腕の中にいる女は、本当に俺の知っている莉緒奈なのだろうか。
触れたいと思わなかった。抱きしめたいとも思わない。ただ、底知れない沼のほとりに立たされているような、冷たい孤独感だけが俺を支配していた。真実を確かめなければならない。たとえそれが、俺の心を完膚なきまでに破壊するものであっても。
◇
翌日、俺は大学の図書館の隅にある、人の寄り付かない閲覧席にいた。目の前には、黒縁メガネをかけたクールな印象の女性が座っている。
「……で、彼女のスマホに、サークルの後輩からそんな通知が来た、と」
柊詩織。俺と同じ文学部の同級生で、ゼミ仲間だ。物静かで、他人とあまり群れることはないが、並外れて頭が切れ、物事の本質を見抜く力に長けている。俺が心から信頼できる、数少ない友人だった。
俺は昨夜からの出来事を、洗いざらい彼女に打ち明けた。詩織は眉一つ動かさず、俺の話を最後まで黙って聞いていた。
「……どう思う、詩織。俺の、考えすぎだと思うか?」
情けない質問だと自分でも分かっていた。誰かに「考えすぎだ」と言ってもらって、安心したかったのかもしれない。だが、詩織の答えは無情だった。
「考えすぎじゃない。十中八九、黒よ」
彼女はきっぱりと言い切った。その瞳には、憐れみも同情もない。ただ、冷徹な事実だけが映っていた。
「前から少し、気になってはいたの。白石さん、最近あなたのいないところで、よくその天羽玲って一年生と一緒にいるのを見かけてたから。あまりにも距離が近すぎる、ってね」
「……そうだったのか」
俺は何も知らなかった。いや、気づかないふりをしていただけなのかもしれない。就活という免罪符を盾に、彼女から目を逸らしていた。
「奏斗はどうしたいの? このまま別れる? それとも、証拠を突きつけて問い詰める?」
「……分からない。でも、このままじゃ終われない。あいつらが俺を馬鹿にして、俺が何も知らずにいるなんて、我慢できない」
怒りで声が震える。詩織はそんな俺の目をじっと見つめると、小さく息を吐いた。
「なら、まずは動かぬ証拠を掴むのが先決ね。感情的になったら負け。冷静に、確実に、相手を追い詰めるの」
そう言うと、彼女はカバンから小さな黒い機械を取り出した。手のひらに収まるほどの、超小型のボイスレコーダーだった。
「これ、白石さんのカバンに仕掛けなさい。彼女、いつも同じトートバッグを使ってるでしょ? 内ポケットにでも忍ばせておけば、まずバレない」
「ボイスレコーダー……?」
「ええ。LINEのやり取りだけじゃ、『冗談だった』って言い逃れされる可能性がある。でも、音声はごまかせない。特に……男女が二人きりになった時の音声はね」
詩織は淡々とした口調で、恐ろしいことを言う。だが、彼女の言葉には妙な説得力があった。そうだ、言い逃れの出来ない、決定的な証拠が必要なんだ。
「……分かった。やってみる」
俺は覚悟を決め、詩織からボイスレコーダーを受け取った。ずしりと重いそれは、まるで地獄への片道切符のように感じられた。
その日の夕方、莉緒奈からLINEが届いた。
『ごめん、奏斗! 今日、急にサークルの後輩たちの相談に乗ることになっちゃって、飲みに行くことになったの。だから、今日はそっち行けないや』
来た。
俺はスマホを握りしめ、心の中でほくそ笑んだ。「サークルの後輩たち」だと? どうせ、天羽玲と二人きりで会うための口実に決まっている。
『そうか、分かった。楽しんでこいよ』
完璧な彼氏を演じ、そう返信する。数分後、莉緒奈が「着替えを取りに行くだけだから」と言って、アパートにやってきた。これはチャンスだ。
「おかえり。飲み会、何時から?」
「七時からかな。あ、奏斗、これ洗濯しておいてくれる?」
莉緒奈は部屋着を脱ぎ捨て、クローゼットからお洒落なワンピースを取り出す。彼女が洗面所で化粧を直し始めた隙を狙い、俺は詩織から受け取ったボイスレコーダーを握りしめた。心臓が早鐘のように鳴る。
リビングの床に置かれた、莉緒奈の白いトートバッグ。俺はそれに近づき、震える手で内ポケットにそっとレコーダーを滑り込ませた。指先に触れた布の感触が、まるで罪の証のように感じられる。
「お待たせ! じゃあ、行ってくるね!」
化粧を終えた莉緒奈が、何も知らずにそのトートバッグを肩にかける。そして、俺の頬に軽くキスをした。
「いってらっしゃい」
俺は笑顔で彼女を送り出した。ドアが閉まり、鍵がかかる音が聞こえる。その瞬間、俺の顔から笑みは消え、冷たい能面のような無表情に変わった。さあ、舞台は整った。お前たちの愚かな密会を、一つ残らず記録させてもらう。
◇
部屋の明かりもつけず、俺はただひたすらに時間が過ぎるのを待っていた。テレビの音も、音楽も、今の俺にはただの騒音でしかない。静寂の中、壁の時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
午前一時を回った頃、ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
「ただいまぁ……」
呂律の回らない、甘えた声。リビングにふらふらと入ってきた莉緒奈は、案の定、酒の匂いをプンプンさせていた。
「おかえり。ずいぶん遅かったな」
「んー……なんか、盛り上がっちゃってぇ。奏斗、お水……」
千鳥足でソファに倒れ込む莉緒奈。俺は彼女に水を渡すと、「先に寝てるぞ」とだけ告げて寝室に向かった。すぐに追いかけてくるかと思ったが、莉緒奈はソファでそのまま寝入ってしまったようだった。
好都合だ。
俺は足音を忍ばせ、リビングに戻る。床に投げ出されたトートバッグから、目的のブツを慎重に取り出した。ひんやりとした金属の感触が、俺の決意を鈍らせようとする。本当に、聞くのか? これを聞いてしまったら、もう後戻りはできない。
一瞬の躊躇。だが、すぐに憎悪がそれを打ち消した。俺はボイスレコーダーを握りしめ、自分の部屋に戻ると、パソコンに接続した。ヘッドフォンを装着し、再生ボタンをクリックする指が、恐怖と怒りで震える。
再生、開始。
最初は、居酒屋の喧騒。莉緒奈と玲が、周囲のサークル員たちと当たり障りのない会話をしているのが聞こえる。ここまでは、まだ普通の飲み会だ。
だが、三十分ほど経った頃、音声は急に静かになった。雑踏の音。二人が店を出て、二人きりで歩いている。
『莉緒奈先輩、マジ可愛いっすね。さっきの店、つまんなかったでしょ?』
『ううん、そんなことないよ。でも……玲くんと二人の方が、楽しいかな』
莉緒奈の媚びるような声。俺には決して見せない、甘ったるい声色だった。
『じゃあ、この後、二人で飲み直しません? いい店、知ってるんすよ』
『えー、でも……』
『俺、もう我慢できないんすけど』
次の瞬間、ヘッドフォンから「チュッ」という生々しいリップ音が響いた。俺は思わずヘッドフォンを外しそうになったが、必死でこらえた。
『……もう、玲くんのバカ』
まんざらでもない、莉緒奈の声。そして、二人の足音はタクシーに乗り込む音へと変わった。行き先は、俺が絶対に聞きたくなかった地名――この街で最も有名なラブホテル街の名前だった。
ホテルの部屋に入ったのだろう。衣擦れの音。そして、玲の卑猥な言葉が、俺の鼓膜を直接殴りつけた。
『奏斗さんって先輩とは、もうヤってないんすか?』
『……最近は、全然。就活ばさっかで、つまんない男だよ、あの人』
――つまんない男。
莉緒奈が放った言葉が、氷の刃となって俺の心臓を貫いた。俺が、二人の未来のために必死になっている間、こいつは俺をそんな風に見ていたのか。
『先輩としてしか、もう見てないかも。なんか、もう男として見れないっていうか』
ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな!
怒りで目の前が真っ赤に染まる。だが、地獄はまだ終わらない。ヘッドフォンから流れ込んできたのは、もはや聞くに堪えない、二人が体を重ねる音。そして、俺が今まで聞いたこともないような、莉緒奈の甲高い喘ぎ声だった。
それは、俺の前で見せる控えめなそれとは全く違う、獣のような、恥も外聞もない、欲望に忠実な声だった。玲の煽るような声に、莉緒奈が嬌声で応える。その全てが、俺の精神を粉々に破壊していった。
しばらくして、行為が終わった後の、気怠い会話が始まる。
『やっぱ莉緒奈先輩、最高っすわ。あの人より、俺の方がいいでしょ?』
『……うん。玲くんの方が、全然……気持ちいい』
もう、限界だった。俺はヘッドフォンを床に叩きつけ、声にならない叫びを上げた。涙は出なかった。あまりの絶望と憎悪に、涙腺さえも機能しなくなったかのようだった。
俺は震える手でスマホを掴み、詩織に電話をかけた。ワンコールで、彼女は電話に出る。
「……聞いたのね」
全てを察したような、静かな声だった。
「ああ、聞いたよ。全部」
俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、乾ききっていた。絶望の底で、俺の中で何かが完全に死に、そして、別の何かが生まれた。
「詩織。手伝ってくれ」
俺は言った。
「あいつら二人を、地獄に堕とす。徹底的に、完膚なきまでに、社会的に抹殺する」
電話の向こうで、詩織が小さく息を呑むのが分かった。一瞬の沈黙の後、彼女ははっきりと答えた。
「ええ。望むところよ。あなたの共犯者に、なってあげる」
その言葉を合図に、俺たちの静かな復讐計画が、静かに、そして確実に幕を開けたのだった。




