足を引く海
再び海へ来た。
堤防の階段を上がると、視界が開け、沖の方で美しい波が立っているのが見えた。
不思議なほど、誰もいない。
「この海、たまに足引っ張られるんで。一人じゃ入らない方がいいですよ」
あの少女の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
だが、無人の海でサーフィンをすることなど、これまで何度も経験してきた。
誰にも邪魔されず、思う存分練習ができる。どうせすぐに他のサーファーがやってくるだろう。
もしかしたら、あの子もまた現れるかもしれない。
俊は素早く準備を整え、海へと入った。
今日の海は黒く沈んでいた。曇天のせいだろうか。
沖へ向かい、波を待つ。
無人の海は、思いのほか心細い。
ふと、少し先の海中を黒い影が横切った。
スナメリだ。人に危害はないが、こうして突然現れると不気味に感じる。
やがて波が来た。左側から崩れる、理想的な波だ。
俊はパドルを漕ぎ、波に乗る。テイクオフは成功。
屈伸のような動きで加速し、長く滑る。
久しぶりに味わうロングライド。最高だった。
再び沖へ向かう。
だが、遠くに大きな波が見えた。
このままでは、まともに食らってしまう。
波が崩れる。ドルフィンスルーでは逃げ切れない。
俊は波に巻かれた。
海面がどこかもわからず、ただ翻弄される。
やがて浮上の感覚を掴み、顔を出す。
右足が軽い。
リーシュコードが切れていた。
ボードは流され、遠くへ消えていく。
そこへ、さらに大波が迫る。
俊は自ら海中へ潜った。
だが、頭に強い衝撃を受け、再び波に巻かれる。
流されながら、岸に近づいていることに気づく。
とはいえ、まだ相当な距離がある。
無人の海で、頼れるものは自分の体だけ。泳ぐしかない。
岸を目指し、覚悟を決めたその瞬間――
左足に、何かが触れた。
驚く間もなく、海の底へと引きずり込まれる。
水中で視界は曖昧だが、確かに左足を誰かが掴んでいる。
白く、細い腕。
その異様な感触に、思わず口から空気が漏れる。
呼吸ができない。苦しい。
――もう、俺は死ぬのか。
目の前が、暗く沈んでいった。