悪魔憑きのリリアーナ2~婚約破棄シンドローム~
前作「悪魔憑きのリリアーナ」を読まないとさっぱりわからないと思います。
https://ncode.syosetu.com/n9608jr/
リリアーナは学園で行われる婚約破棄の現場に小走りで駆けつける!だって面白そうだから!
頻発する婚約破棄劇場には思いがけぬ裏があったのだ――――
己の欲に取り憑かれた男の策略によって、一人の少女の精神が悪魔に塗り替えられた。
リリアーナ・レオフォリア侯爵令嬢―――未来の王太子妃として十分な素質を持った麗しい淑女であったが、残酷なことに彼女は悪魔の器と成り果てたのだ。
しかし、その男も呪法の影響か精神を病んでついには破滅した。
レオフォリア侯爵令嬢の呪いはすでに解かれており、彼女は邪悪なものではないとされたが、大きな瑕疵が付いて婚約も撤回された彼女を貴族たちは陰で「悪魔憑きのリリアーナ」と呼んだ。
そんな悪魔憑きの侯爵令嬢は今、学食で一人ランチを楽しんでいる。
貴族の令息令嬢が通う王立のエリート学校の学食なので、いわゆる「学食」から想像する安い、大盛り、揚げ物というメニューではなくちょっとしたレストラン並みだ。しかもここでは何を飲み食いしても支払いは生じない。
リリアーナの中に巣食う悪魔こと、元は社会人だった田中はこの「無課金ランチタイム」が大好きである。無課金と言っても支払った学費の中にだいぶ盛った金額で食費も含まれているのだろうが、無料なことよりもこの時間こそが田中の憧れを満たすのだ。
悪魔としてこの世界に呼ばれる前、商談で訪れた取引先の担当者に誘われて行った社員食堂。
「ここ、食事も無料なんですよ」
今を時めくIT企業、真新しい立派なビル、ウッディでおしゃれな社員食堂だって「スタッフカフェテリア」と言うらしい。休憩時間は挽き立てのコーヒーをどうぞと置いてある立派なドリップマシーン、取引先の担当者とそのマシーンで淹れたコーヒーを飲みながら田中の視線は食堂のご飯にくぎ付けだった。
食べたい、食べてみたい。
昼食を終えたあとに向かった商談だったけど、今からでもここでご飯を食べたい。しかし田中は自社の担当者の初回挨拶に同行しただけで、その後その会社に行くことはなかった。
今リリアーナである田中は綺麗な食堂で財布も出さずに食事をすることで、あの社食の願いを叶えたような思いでいた。ランチタイムの度に恍惚の顔である。
悪魔憑きと呼ばれるリリアーナの周囲には誰もおらず、なんならテーブルも一つは空けて距離を取られているのだが、そうされていることにも気づくことなく、優雅に昼食を取っていた。
「お前との婚約を破棄する!」
食堂にいる生徒たちが一斉に声の方を向く。どうやらそう遠くはない中庭から聞こえてくるようだ。リリアーナはその声が聞こえた瞬間、残りの昼食を掻き込んだ。結構な量が残っていた皿から秒で食事がなくなる。もちろんこんな食べ方をする令息令嬢はリリアーナ以外にはおらず、これもまたリリアーナがいまだ悪魔憑きと呼ばれ続ける所以である。
そうしてリリアーナはランチを平らげて「ご馳走様!美味しかったです!」と言いながら小走りで食堂を出て行った。向かう先は中庭だ。
「一体どういうことですの?ロレンス様」
「お前はこの可憐なシンシアを苛めていたようだな、そんな性悪女と結婚などできるか!」
この舞台の登場人物は三名、婚約破棄するぞのロレンス、ロレンス曰くの可憐なシンシア、と、それを冷たく見やる婚約者と思わしき令嬢だ。中庭にはギャラリーが出来ており、三人をぐるりと取り囲んでいる。
「ま、間に合った…!ちょっとすみません、すみませんねぇ」
「ひっ…!」
現れたのがリリアーナだと気付くと人々は声を上げて飛び上がり場所を空ける。前の世界で言うところのモーセ状態である。息を切らせてやってきたリリアーナは取り囲む人を左右に散らばしながら騒動の中核に急いだ。
「苛めの証拠もここに…っ」
ロレンスが勢いよく断罪しようとしたが、ギャラリーに不穏などよめきがあがっているのが気になってちょっとそっちに目を向けてしまった。ロレンスが言葉を止めてそっちを見てるので残り二人の令嬢も何となくそちらを向くと、人々が道を開けた真ん中にリリアーナが立っていた。
「…何か用か?」
思わずロレンスがリリアーナに問う。
「あ、いえ、私のことは気にせずに続けてくださいな」
この世界にはテレビも動画配信サイトもない。それらを見ることが楽しみだった田中は新しい娯楽を見つけることが急務であった。しかしこの世界の青春模様は面白く、こんな風に大っぴらに婚約破棄劇場が行われることがあるのだ。
自分たちの込み入った事情を人前でエンタメ消費をしてくれるのだ、有難く拝見しようとリリアーナは婚約破棄が行われている現場に文字通り駆けつけている。
笑顔で観覧するリリアーナにロレンスは多少勢いが削がれはしたものの、三人の役者による断罪と婚約破棄、からの断罪の証拠の打消しと婚約破棄返し劇場は恙無く繰り広げられた。見事な婚約者令嬢の切り替えしがまるで配信で見るプロゲーマーの対戦のごとく綺麗に決まって、リリアーナは思わず拍手をした。
***
「最近、婚約破棄がやたらと横行していますね」
「え?あれって普通じゃないの?」
「あんなのが普通なわけないじゃないですか」
レオフィリア家のタウンハウスでリリアーナと共に夕食を摂るのは弟のラインハルトだ。
「姉上は王太子妃教育ばかりされていたから、世間をご存じない部分がありますね」
「そうなのよね~王太子妃教育ばっかりだったからさ~」
自分がやっていた訳でもない王太子妃教育だが適当に合わせて答える。こうやっていつの日も田中は口先だけで滑らかに場を流していく。
「今週だけでも婚約破棄劇場が3件もあったから、決まった相手と別れる時はみんなやるのかなって思ってた。じゃあなんでやってるの?」
「それが謎なんですよね…まあ、ぼくたち姉弟には関係のない話ですが」
関係のない話。
瑕疵がついて婚約解消となったリリアーナはともかく、ラインハルトにも婚約者はいない。まだリリアーナが王太子の婚約者であった頃はラインハルトにも釣書が来ていたのだが悪魔憑き事件からはめっきりなくなった。
「おハルくん…人の噂も七十五日と言ってね、まあきっと三か月くらい経ったら悪魔憑きとかなんだとかはみんな忘れちゃうと思うんだよ」
「そうですかね?」
「そうしたらきっとおハルくんにも婚約の話がまた来ると思うしさ、あっあとね、高等部に来たら新しい出会いがあるし、ね!」
「はぁ」
悪魔憑きなどただの噂話だという前提でリリアーナは話すが、少なくとも学園の人たちはリリアーナの言動と行動を見て悪魔ではと疑っている。悪魔がいる家に嫁に行きたい令嬢などいたらお目にかかってみたいものだ。
とは言え、令嬢らしからぬ人だとは思うが悪魔というほど邪悪さも感じないので王家による鑑定結果は間違いではないだろうとラインハルトは思っている。
いかんせん幼い頃から王太子の婚約者だったリリアーナは王城で過ごすことも多く、ラインハルトは嫡男のための教育があり、多忙な二人は結果疎遠な姉弟となってしまったので元のリリアーナがどんな人だったかはよくわからない。
完璧な淑女の仮面をつけた姿しか見たことなかったが、それを外したらこんな人だったのだろうか。答えの出ない堂々巡りの思考はこうやってしばしラインハルトの頭に湧き上がる。
***
今日も今日とて学園では婚約破棄劇場が繰り広げられていた。もちろん小走りで駆けつけるリリアーナである。
「ソフィアに言い寄りやがって!お前もだソフィア、こんな尻軽女だったとは!婚約破棄させてもらう!」
今日はいつもと違って男2、女1の舞台らしい。リリアーナが眺めていると「先日のルイの演劇のようですわ」というはしゃいだような声が聞こえて来た。
(それはなんだ?面白いものか?)
リリアーナは耳にするや否や音もなく楽し気な女生徒の背後に忍び寄った。
「ルイの演劇って何のことかしら?」
「ひぃっ…レオフィリア侯爵令嬢…!」
青ざめた女生徒が二人、リリアーナに最敬礼の形を取った。
「まあ、私はもう王太子の婚約者ではなくってよ、学生同士普通になさって」
女生徒が礼を取ったのは権力というよりは未知なものへの畏怖だったのだが。ひとまず女生徒たちは姿勢を戻す。
「ルイというのは、学生に大人気の舞台役者です。あの…こちらご覧になります?」
「これは?」
「劇場の会員向けの会誌です」
「へー!」
見れば劇場で上演する今後の演目や人気の役者へのインタビューなど載っている冊子で、なんだか面白そうなものに出会って満面の笑みのリリアーナである。
「こちら、会員になれば手に入るの?」
「はい…一番最後に劇場の住所も載っておりますから、そちらに申し込みをすれば会員になれますわ」
「まあ、でしたら申し込みするわ!こちらは一日お借りしてもいい?」
「いえ、姉も会員ですのでお返しいただかなくて大丈夫です。家にもう一部ありますので」
「姉妹で観劇をするの?」
「ええ…」
「まあ、すてきね。私もおハルくんを誘ってみようかしら」
そう言ってにっこり微笑んだリリアーナはとても楽しそうで、淑女らしからぬ笑みではあったがとても悪魔に見えなかった。
スキップしながら去っていくリリアーナを、二人の女生徒はじっと見送っていた。
***
リリアーナとラインハルトはお出かけ用におめかしして劇場へやってきた。由緒正しい王立芸術劇場ではなく、新興の王都中央劇場だ。
ここでの演目は巷で話題になっている恋愛小説などを舞台化して若者の観客を集めている。王立芸術劇場を好む客からは低俗と煙たがられたりもするが、恋愛小説ファンの若者の他に、王立芸術劇場からはお呼びが掛からないような役者や演出家が低予算でどこまでの舞台を作っているのかを見たいという舞台オタクも通ってもいる。劇場のロビーは若者が溢れており、どの子もみんな着飾って楽しげだ。
「いい雰囲気だね~」
「この劇場には初めて来ますが、客層が違うと空気も全く違うんですね」
両親に連れられて由緒正しい演劇は見たことがあるラインハルトだが、こんなはしゃいだ雰囲気は初めてだ。物珍しいながらも悪くはなさそうである。
初めて見たこちらの世界の舞台はリリアーナにも面白かった。歌あり踊りあり、この会場だけかもしれないが劇の途中の声援もOKらしい。
「面白かったねおハルくん!」
「ストーリーはペラッペラですが、エンターテイメントとして王立芸術劇場と引けは取らないと思います」
内容は、とある令息の婚約者が真実の愛に目覚め、浮気をした彼女に婚約破棄を言い渡し、そこから始まる騒動と色んな女子が彼女面をしてくる謎のストーリーだった。
「あれ知っている、学園で見た」
思い出してリリアーナがくふくふ笑う。そうかこれだったのか。やっと女生徒が言ってたことがわかった。しかし現実で婚約破棄を言い渡した後に物語の通り彼女面する女子が現れるかは疑問だ。
他の日に上演される演目のポスターを見ていると、そちらは令嬢の肩を抱く令息が、一番大きく描かれている令嬢に何か文句をつけているような絵だ。おそらく婚約破棄パターン1の方だろう。
楽しく帰宅した二人だが、真にリリアーナを喜ばせたのは劇場の会誌であった。
「まって!そんな…バカな!」
「姉上?」
今日手に入れた最新版の会誌を読んでいたリリアーナは慌てて女生徒からもらった別の号も確認する。
「そんな…うそでしょ…んはっんはははははっ」
「姉上…?」
心底不審そうな顔でラインハルトは姉を呼ぶ。しかしリリアーナは笑って返事ができないので会誌の方に目をやった。そのページは役者や演目の紹介ではなく、広告が掲載されているページである。
翌月にはない広告があったりするので都度掲載料を払えば広告が載せられるのだろう。その一つの広告をリリアーナは笑いながら指を刺した。
『婚約破棄の手続きならオーベル法律事務所へおまかせ!』
「………」
「こっ…こんな広告ある!?」
婚約破棄の物語が空前のブームになっているのは今日劇場で知ったけど、それをリアルで「おまかせ!」とか広告を出してしまう法律事務所があるとは。しかも毎月。
ラインハルトはただひたすらに不謹慎だと思うだけだが、どうやらリリアーナの笑いのツボに嵌ってしまったらしい。笑い続けてついに崩れ落ちたリリアーナをラインハルトは冷たく見下ろした。
「…そんなに面白いでしょうか?」
「お…おもし…ひひひ」
「…返事は結構です。オーベル法律事務所…オーベル伯爵家の一族がやっているのか?こんな広告を打つなんて品位も何もないな」
どうやらどっかの貴族の家がやってる事務所のようだ。
「おハルくん、この前招待状が来たパーティーに行けばその法律事務所の人に会えるかしらね?」
「は?」
一体何を言い出すのかと目を見開いたラインハルトだったが、頭の中に入っている貴族名鑑を検索する。
「オーベル伯爵ご自身は王城で役職持ちの文官です。やっているのであれば嫡男か親戚筋じゃないでしょうか…まあどちらにせよ、王城で開かれるパーティーなら行くんじゃないですかね?」
「よし、じゃあ私も行くわ」
「は?姉上、確かに国王の名で全貴族宛に招待状は届いてますが、くれぐれも無理をしないようにって気遣い風の拒否をされているじゃないですか」
めでたい建国の日のパーティーは全貴族を王城へ招待しパーティーをする。こんな誰でもいらっしゃいな催しは年に二回、新年と建国の日である。そんなわけで城からは全員に招待状が送られるわけだが、参加は自由である。
王太子の婚約者を出したレオフィリア家はどんなパーティーでも強制参加要員だったのでいつも参加しているが、それも例の事件からは両親は領地で謹慎の身、子供二人は参加を強制されず、今日まで何となくパーティーに顔を出したことはなかった。
そして建国の日のパーティーの招待状を持ってきた城の使いから「あのような事件の後ですので、レオフィリア侯爵家の面々は無理をされず参加を見送っても良いとの国王直々のお言葉です」と言い渡された。これは王から「来るなよ」と言われていると貴族ならわかる。
「何を言うのおハルくん、王様は心配しているのよ?元気な顔を見せてあげたら安心するんじゃないかな」
「心配なんてしてません、腫物の当家に来て欲しくないだけです」
「直接そう言われたら考えるけど…曖昧な言い方をするなら受け取り手次第よねぇ」
「……」
「ね?」
リリアーナは国王の意図は理解した上で違う解釈で参加しようというのだ。
一体なぜそんなに参加したいのか、それはおもしれー奴を見たいからに過ぎない。
こんな不謹慎な広告を打つおもしれー奴に挨拶し、何なら少しおしゃべりをしたい。そうして家に帰って「実物はあんな人なんだ」と思いたいのだ。完全に野次馬根性である。
***
ラインハルトにエスコートされたリリアーナが登城すると、自然と人の群れが割れて道ができる。道の先では国王が一瞬渋い顔をしたが、すぐに表情を改めた。さすがである。
「我が国の太陽であらせられる国王にご挨拶を申し上げます」
完璧淑女の記憶を引っ張り出して他の者の追随を許さぬ素晴らしいカーテシーを見せつけてドヤ顔のリリアーナである。
「うむ…元気なようで何よりだ。今日は楽しんで行くがよい」
国王は元自分の息子の婚約者に対してあっさりとした上辺だけの言葉を掛ける。話の深掘りはする気はないらしい。その意図はしっかり受け止めレオフィリア姉弟は笑顔でその場をさっさと立ち去って流れるようにご馳走の並ぶテーブルの前へ行く。リリアーナがラインハルトを誘導したのである。
「!姉上!チキンはおやめください!」
真っ先にチキンに伸びたリリアーナの腕をラインハルトが掴んで止める。
「えぇい…邪魔をするなラインハルト!」
リリアーナは先日見た舞台で「こんな奴いたな」と思いながら真似てラインハルトに言い放つ。
「なんで悪役みたいに言うんですか!こんなところで見境ない食べ方をさせるわけにはいきません!」
「そんなものすでに手遅れだぁ!!!」
「だからなんで悪役みたいに言うんですか!」
「チキンを、チキンを寄越せ!」
パーティーの客にはまるで酒を求める中毒者のようなリリアーナと、それを止める嫡男に見えてしょうがない。不穏な姿である。だがこれはレオフィリア家の中ではよく見る姉弟のやり取りである。
「食べてもいいですから丸飲みはやめてください!」
「やだなぁ、あれは丸飲みしてるんじゃないよ、骨に歯を当てて引き抜いてね、そうすると肉が…」
「丸飲みにしか見えないのが問題です!」
同行者がこうまで嫌がるのなら仕方ないと、リリアーナは普通にチキンにかぶりついた。美味い。城のチキンはいつでも美味い。
まったくもう、と事なきを得たような雰囲気を醸し出すラインハルトだが、大口を開けてチキンを頬張る姿はとても淑女とは言えない。事なきを得ていない。
淑女ではないなら何なのか…周囲の人々は恐ろしげに姉弟を遠巻きに見るのであった。
「姉上、あちらがオーベル伯爵ですよ」
ラインハルトが招待客の中から目当ての人物を見つける。複数人で気安い様子で和やかに話しているので友人知人、親族といるのかもしれない。
「まあ、行きましょうおハルくん!」
「はいはい」
リリアーナの目的を知っているラインハルトは言われるままにエスコートして歩き出した。
「ご歓談中失礼します。オーベル伯爵でございますね?」
ラインハルトが貴公子の笑顔で話しかけると、オーベル伯爵が視線を向けた。
「これは…ラインハルト・レオフィリア侯爵令息」
噂の渦中の家の者がやってきてオーベル伯爵は思わず声が上ずってしまう。しかも隣にいるのは悪魔憑きと噂される少女ではないのか?
「お初にお目に掛かります、姉のリリアーナです」
ニコリと微笑み挨拶をしたリリアーナは噂のど真ん中の人物だ。だけど一見して悪い印象はない。ここで魅惑的な美貌と笑顔で気持ちをかき乱そうものなら警戒心も沸いたものだろうが、そういうものも一切ない。
リリアーナである田中は初めて取引先に来た時のような適切な距離感で接していた。媚びるわけでもなく、マウントを取るでもなく。天気の話から入って何の気負いもない雑談を交わし、とてもフラットな空気を作る。そしてお互い声を出すのに慣れた頃、本題を切り出した。
「ところで、劇場の会誌にオーベル法律事務所の広告が載っておりましたの。とても面白い劇をやる劇場の後援をされているのかと思って、今日はお声掛けをさせてもらいました」
「ああ、それなら…ロベルト」
「はい?」
後ろの方で雑談をしていた一人がこちらへやってくる。茶色い髪に眼鏡を掛けた、華やかさはないが真面目そうな青年である。
「まあ、あなたが法律事務所の方!?」
「は、はあ…オーベル伯爵の息子、ロベルトです…」
自分の法律事務所をやっているにはずいぶん若く見えたが、事務所の所長は叔父のオーベル子爵で、王城で相談を受けているのが主な叔父に代わって事務所の運営や新規の案件を甥のロベルトが受け持っているらしい。広告を掲載したのもロベルトの案だという。
「少し劇場のお話をしてもよろしくて?ほほほ、少しご子息をお借りしますわね、ほほほほ」
リリアーナはロベルトを連れ少しだけオーベル家の輪から抜ける。二人で誰もいないところに移動なんかはしない。どんな噂を立てられるかわかったもんじゃないのだ。
「あの…?」
「ロベルト氏」
「ロベルト…氏?」
辺りがオーベルさんだらけなのでリリアーナは名前で呼ぶことにした。
「あなたのコメディのセンス、恐れ入る」
「???????」
まったく状況が呑み込めないロベルトは、口を開けて声も出ない。彼は生まれてこの方コメディのセンスを褒められたことなど一度もない、真面目一辺倒の人生だ。
「あの婚約破棄物語だらけの劇場の会誌に婚約破棄の手続きの広告を打つセンス、本当に面白かったです。あんなに笑ったのはこっちに来て…いや、攫われた時以来じゃないかしら」
「!…その節は…」
「ああ、いいのそれは。その話がしたいんじゃなくてね、私はとっても面白くて笑ったんだけども、…引き際は弁えた方がよろしいかと」
「…え?」
「今はあの会誌を見るのは子供たちだけかもしれませんが、婚約破棄の当事者の親の目に触れればいつ何を言われるかわかりません。お気を付けくださいね、せっかく面白いのですから…」
「……っ」
リリアーナは広告はとても面白かったが、それを不謹慎だと怒られては可哀そうかと思ったのでほどほどの所で引き下げるように助言をしたのだ。万人受けの笑いではないのはわかる。あの広告じゃなくてもきっと彼ならまた面白い広告を打ってくれるだろう。
「それじゃあ、お邪魔しました」
言うだけ言ってラインハルトと共に去っていたリリアーナを、オーベル伯爵は「なんだあいつは」と訝し気にしていたが、ロベルトは真っ青な顔で見送っていた。
(わかっているんだ、彼女は…。悪いことはできないな…)
***
学園の中等部、テラスで一人お茶を飲み休憩しているのはラインハルトである。
以前は学園の寮に入って勉学に励んでいたのだが、急遽両親が領地に引っ込むことになったことで本当ならば数年先から始まるはずだった跡取り教育が始まり、今はタウンハウスから学園まで通っている。
学業と跡取り修行を両立しなくてはいけない上に、今はちょっと歩けば校舎があるという寮暮らしとは訳が違う。時々こう、ぐったりと一人で休みたくなる時があるのだ。
自宅と言えば社交界の話題の中心、悪魔憑きと呼ばれる姉がいる。大層おかしな人とは思うが、おそらく思った以上に姉弟の仲は上手くやっている。
両親は言ってしまえば「鼻持ちならない貴族」のテンプレートみたいな人たちで面白味も何も無く、自宅に居ても特段楽しいことは無かったが、今はとにかく姉がよく構ってくるので退屈をするということはない。
淑女然とした姉しか見たことなかったが、王太子の婚約者を下りれば人懐っこいお人柄だったのかもしれない。
とは言え、規格外の姉といると疲れるのも事実。ラインハルトにとってこうして一人穏やかなお茶の時間はとても大切なものだ。そんな休息時にいきなり嵐はやってきた。
「お前がアリスの真実の愛の相手か!」
「…はい?」
あまりにも自分と縁遠いセリフなのでラインハルトは反応するのに少し遅れてしまった。テラス席の前にやってきたのは騎士科の人気者の伯爵令息である。そしてその後ろに控える女子生徒、ふわりと波打つピンクブロンドと空色の瞳を持つ彼女は美少女と言って相違ないだろう。
「婚約が無くなったのは受け入れるが、それではオレの気が済まない。レオフィリア侯爵家のラインハルト…相手に不足はない!決闘を受けてもらう!」
「エリオット様!ラインハルト様!お願い私のために争わないで!」
突然顔面に脱ぎたての生暖かい手袋を投げつけられラインハルトの休息は台無しである。何?一体何が起こっているんだ??
後ろにいる涙目で訴える女子生徒を見る。選択する科目が被った時に隣の席になったくらいはあるけど特に親しくしてた記憶はない。
そうか、これもあの芝居の弊害か。
ラインハルトは深くため息を吐く。エンターテイメントとしては優秀ではあったが、受け取り側がこうも影響を受けやすい自我の薄い者ばかりだとその被害は計り知れない。
「決闘って何でやるつもりだ」
「決闘と言えば剣と決まっている!ただし訓練用のものにしてやるよ!」
騎士科の訓練用の剣は刃を潰してあり実際に切りつけることはできない。だけど重量はあるので殴打したらただでは済まない。決闘を自分の得意分野で申し込むセコさにこのエリオットという男子生徒の底が見えた気がした。
「いいだろう、相手になろう」
そしてこんな馬鹿げた事に二度と巻き込まないよう厳しく言わなくてはなるまい。
侯爵家での教育だけで騎士科を履修する必要のないラインハルトはギャラリーに見守られながら優雅に、だけど足早に騎士科の校舎側の校庭に向かった。
***
「え~!?おハルくんも婚約破棄劇場に参加したの~!?」
「羨望の眼差しを向けるのはやめてください」
折角の休息の時間に全く休まらなかったラインハルトは家に帰って早々お茶にすることにした。普段は帰って来たらすぐに何かしらの学習に入り、お茶もその合間に飲んでいたのだけどさすがに今日は疲れてしまった。若さだけでは乗り切れないこともある。そのティータイムの席に許可なく向かいの席を陣取り一緒にお茶を始めたリリアーナである。
「本当にそのアリスって子に覚えはないの?釣書が来てたとか?」
「彼女は男爵令嬢ですよ、うちに釣書を送る身分ではないですよ」
「で、おハルくん勝ったの?」
「当然です」
ラインハルトはムッとした顔を隠しもせずお茶に口を付ける。
「見たかったな~!次はやる前に私も呼んでね?」
「次なんて起きないようにしっかり打ちのめしてきました」
決闘の開始早々、先手必勝とばかりに相手の剣を跳ね付け終わらせた。決闘相手のエリオットも、それを見守るアリスを含めたギャラリーも声が出なかった。
「二度と、するな!」
そう言い残してラインハルトは剣を投げ捨て去って行った。未来の腹黒はまだ感情のコントロールが完璧ではないのか、はたまた休息の時間を邪魔されたのがそれほど許せなかったのか。とにかくその怒った様子に近づける者はいなかった。
そんな本日の事件を楽しく聞いていたリリアーナに来客の知らせがあった。事前に誰かが来るとは聞いてはいない。本来は貴族の屋敷にやってくる時には前もってお伺いを立てるものだ。訝し気な顔をするラインハルトを他所にリリアーナはどうぞと招き入れることにする。暇なのだ。
「わざわざ席を移すのも面倒だからここに通してちょうだい、そんでケーキスタンドを人数分持ってきて」
「畏まりました」
前の世界でホテルのアフタヌーンティーは今日日五千円は軽く超えていたが、ここではいつでもタダである。特段アフタヌーンティーが好きというわけじゃないが食べなくては損だとリリアーナである田中は思っている。
そうしてやってきた思いがけない来客はロベルト・オーベル伯爵令息であった。劇場の会誌に面白広告を打った法律事務所のお兄ちゃんだ。この世の終わりのような顔をしたロベルトは出されたお茶にも手を付けず、じっとその表面のゆらぎを見ている。ロベルトと一緒にやってきたのはリリアーナと同じ年ごろの少年である。
「なんだろう…婚約の打診かな?この顔は美しすぎるからいつか誰かは来ると思っていたけど」
「姉上、あの蒼白な顔を見てよく言えますね」
姉だけでは何かと心配なのでラインハルトもそのまま同席することにした。そして二人ともロベルトの同行者を「どっかで見たことあるな?」と思っている。こうして向き合ったことはかつてないはずだが、何故か知っているのである。
「レオフィリア侯爵令嬢…先日の夜会でのご指摘、反省しきりです…」
やっと口を開いたロベルトの声は一応出ているが今にも死にそうな声色である。一体何を言ったのかとラインハルトは姉に怪しむような視線を送る。
「このルイと組んで、婚約破棄の物語を流行らせたのに気付いたのですね…」
その言葉にレオフィリア姉弟は驚いて顔を見合わせた。
「婚約破棄の物語をわざと流行らせた?」
「どっかで見たと思ったらルイ!舞台に出てた人だよね!」
驚くタイミングは同じだったもののキャッチした情報は違ったらようで、姉と弟が同時に発した声がハモることはなかった。
「それは一体…」
「あ、アフタヌーンティーどうぞ」
「え…こんな立派なの食べていいの!?」
「ルイ!今は謝罪に来てるんだ手を付けたらダメだぞ!」
「ちょっと!話を!進めさせてくれ!姉上は黙って!ケーキはどうぞお好きに手を付けてください!で、オーベル伯爵子息は話の続きを!」
話の行方が迷子になりそうになりラインハルトが場を仕切る。ロベルトに叱られケーキスタンドには手を付けないルイにリリアーナがどうぞどうぞと促しているが、入ってきても話の邪魔になるので放っておいた。
ロベルトの話すところによるとこういうことだった。
ロベルトとルイは正真正銘の兄弟である。ただしルイは認知されていない。オーベル伯爵が年若い女優に手を付けて出来たのがルイだった。オーベル伯爵は女優が妊娠したと知るとすぐに捨て連絡を一切断った。ルイの母は貴族なんてそんなもの、手切れ金を渡してきただけマシだとめげずに一人で子育てをしていたらしい。
ロベルトは両親の夫婦喧嘩をうっかり立ち聞きしてしまった時に弟の存在を知った。父親に愛人が何人もいるのは知っていたけどまさか弟がいるとは思ってもみなかった。
ロベルトは特に暖かな家庭で育ったわけではないが、本人はとても善良だった。こっそりと相手の女性とその子供のことを調べて会いに行ったのはすぐのことだ。
すでに女優は引退し劇場の裏方として働いていた母親と、その手伝いや劇場のチョイ役をしていたルイにロベルトは父には内緒で支援をするようになったのだ。
「それはどうしてです?」
「弟がいると知って嬉しくて…一人っ子でずっと兄弟が欲しいと思っていたものですから」
ラインハルトの問いにどういうわけか頭を下げながら答えるロベルトは本当に人がいいのだろう。最初は自分を捨てた男の息子を警戒していたルイの母も、次第と裏が無いことをわかり、何かあればルイを助けてあげて欲しいとお願いしたそうだ。
「何かあったわけですね」
「どうしてわかるんですか?」
「そうじゃなければ今日その弟を連れてくる理由がないじゃないですか」
ラインハルトがそう言って目を向けるとルイはピタリとケーキを食べていた手を止めて頭を下げる。その動きがロベルトにそっくりであった。
ルイはとても美しい顔をしている。女優であった母親に似ているらしい。この甘い美貌で現在大人気の役者であるが、役者をやっているのは本人が夢見ていたわけじゃなく、周囲の者にそうするのがいいと言われたからだ。深く物事を考えないタチである。
「女に騙されましたか」
「どうしてわかるんですか!?」
「いや、どうしてって…」
ひとまずありそうなことを口にしたら当たってしまった。この少年を騙すのはさぞ簡単だっただろうとラインハルトは思う。何かは知らないけど謝罪にきた貴族の家で勧められたとはいえケーキに手を付け幸せそうに「美味しいです」なんて言ってるのだから素直なのだろう。
自分のファンだという少女と仲良くなり、将来は結婚しようねなどと言い合っていたそうなのだが、ある日その娘と一緒に見知らぬ青年が現れたらしい。
曰く、彼女は貴族の令嬢でその青年と婚約している。相手のいる女性に手を出したのだからそれ相応の報いは受けてもらうと。本来なら貴族にこんなことをしたら死刑だが、青年は優しい貴族だから金を払えば許してやると言われたという。
「死刑ってなんだよ…それで、払ったと…」
「金貸しを紹介されて、その場で借りてしまったのだと」
「…なるほど。で、相手の素性は?」
「それきり会ってはいないのでわからないそうです」
面白いくらいに簡単にやられたものだ。平民、しかも未成年を脅迫して金を巻き上げるなんていうゴロツキは恐らく貴族などではない。金貸しを紹介されたということはその金貸しの関係者だったのだろう。
借金の証文もろくに読まずにサインをし、毎週利息を取り立てられる生活にルイはあっという間に困窮した。さすがにおかしく思った母親がルイに何があったか聞き出し、自分にはどうにもできないとロベルトに相談したのだった。
「相手のこともわからないし、証文はちゃんとルイのサインがしてあります。未成年に貸し付けたことで訴えることもできたでしょうが、裁判になったら平民のルイと母親には勝ち目はないです。やるならオーベル家の名前で戦うことになるでしょうが、それはできませんでした…」
「でしょうね。裁判費用を考えても借金を肩代わりした方がまだマシでしょう」
「仰る通り。だけどなかなか高額で…それで私は…借金を返済するのに事務所の運営資金から一部を出してしまったんです」
オーベル伯爵に相談できればそれくらいの金額はどうにでもできただろう。しかしあくまでオーベル伯爵には内密に動かせる金額はロベルトの個人資産だとしてもたかが知れていた。オーベル法律事務所は叔父のものだが、現在運営を一手に引き受けているのはロベルトで、金を持ち出しても気付かれぬうちに戻せばと手を付けてしまったという。身内の仕出かしとはいえ横領だ、褒められた話ではない。
「…あの、そちらの家の事情はわかりましたけど、それがどうしてうちに謝りに来るんです?」
話をずっと聞いてはいたが、そこがラインハルトにはサッパリ解らなかった。何一つとしてレオフィリア家に関係ない。
「レオフィリア侯爵令嬢は…そこから私が手を染めた悪事に気が付かれ、夜会で忠告をされたのです」
「「え?」」
疑問の音を発したのはラインハルトだけではなく姉もである。リリアーナのサンドイッチを食べる手が止まる。一体何のことを言っているんだ?
「ルイが主演をする舞台で真実の愛ゆえに婚約破棄をする物語が受けていて…そんな話が人気があるとはにわかに信じがたかったんですが、その頃から私の法律事務所に婚約破棄の手続きの依頼がちらほらやってくるようになりました」
中には相手の家と折り合いが付かず交渉を代理で行うこともあり、そのやり取りの中で聞いたのが「真実の愛」で、掘り下げて尋ねるといつもルイの立った舞台に辿り着いた。
ロベルトは自分の個人資産はともかく、事務所の金の補填は気がかりだった。バレて自分がクビになるのは仕方ないとして、父にルイやその母への支援のことも知られてしまうのではないか。そうなると父だけでなく母もいい気はしない。そんな時に婚約破棄の手続きが増えたおかげで少し実入りが良くなった。ロベルトは固定給の他、受け持った案件ごとに着手金の5%を歩合として貰っていて、それは都度支払いとなっている。それが入れば早く補填ができるのだ。
「それでルイに…婚約破棄をするストーリーの舞台をもっとやれないかと頼んだのです…」
「はあ…」
その説明を引き継いでルイが口を挟む。
「それなら、って今人気の婚約破棄する小説を片っ端から舞台にしたらって劇場の監督に言ったら、人気もあるしやってみようってなって。広告も載せたらその気になった時に兄ちゃんの事務所に依頼も行くんじゃないかと思って、載せたらってぼくが言ったんだ」
実際にそこから婚約破棄するカップルは増えに増えて事務所の金の補填はそろそろ終わるらしい。
なるほど、これがしょうもない婚約破棄劇場の裏だったのか。心底呆れた顔でラインハルトがため息を吐く。
「レオフィリア侯爵令嬢は夜会で私にこっそりと引き際は弁えた方がいいとご助言をくださった…全てを見通す慧眼、恐れ入ります。なのでこうして懺悔と、まずはお心を痛めさせた謝罪をしに伺ったのです。先触れもせずに申し訳ありません。本当はレオフィリア侯爵令嬢のご予定だけ伺って帰るつもりだったのですが…」
「姉上?」
胡散臭そうな目でラインハルトはリリアーナを見れば、何故か神妙な顔をしていた。
「あなたがそう言ってくれてよかったですわ。まあ、過ぎてしまったことはしょうがないとして、この件はひっそりフェードアウトされるのがいいんじゃないかしら」
いや、絶対真相なんて知らなかっただろう。どうして「私は全て知っていた」みたいな態度でいるんだ。ラインハルトは一層胡散臭そうにリリアーナを見る。
「婚約破棄になってしまった人たちにお詫びを…」
「いやいや!今更蒸し返す必要はございませんわよ、ここは何事も無かったようにスッと引くのです。真実の愛で結ばれた方たちはそれはそれで幸せでしょうから、ね?」
リリアーナがしょうもない助言をしているのにラインハルトは力が抜ける。まあ、レオフィリア家に厄介事が降りかかるのでなかったのだから良かったかと思っていたのだが。
更にやって来た客はラインハルトを激震させるものだった。
「次はどこのどいつだ?」
「はい、ルドー男爵とその令嬢がラインハルト様に急ぎお話があると…」
「…は?」
ルドー男爵令嬢、名はアリス。今日の昼間にラインハルトを婚約破棄劇場に巻き込んだ張本人である。
***
「お前のせいで婚約破棄になった、きっちり慰謝料を払ってもらわなきゃ道理が通らないだろ?」
見下すように言ったのはルドー男爵、非常に脂っこい肉付きがいいオッサンである。ラインハルトは頭にある貴族の情報からルドー男爵を検索した。下位貴族なので顔を合わせる機会はないが、領地が数年前に災害にあって国へ治める税金を免除されてることは知っている。領地の復興を放ったらかして王都で一体何をしているのだか。
「そのような事実は存在しない、お帰り願おう」
「伯爵令息の決闘を受けたんだろ?それが全てを物語っているじゃないか。それとも、アリスと婚約してもらえるのかな?」
ルドー伯爵はニヤニヤとラインハルトに要求する。こんな話は本来親同士でやるものだが、ラインハルトが一人でやってきたのをいいことに言いたい放題だ。レオフィリア侯爵は領地送りとなりこの家には子供しかいないのを知ってやっている。
「ルドー男爵、その話は旦那様と…」
「使用人が口出しするんじゃねえ!」
見かねた家令が発した言葉はルドー男爵の怒鳴り声で打ち消された。
「いやぁ、すまんね。ついカッときて素が出てしまった。荒っぽいことはするつもりはないんだがねぇ」
「ルドー男爵、ここが侯爵家で騎士が常駐してるのはわかっていますか?」
「おや?こちらが真っ当な要求をするのを暴力で黙らせようとするのか?こっちはな、新聞社に伝手があるんだよ。名が地に堕ちたレオフィリア家がこれ以上醜聞を提供してくれるのかな?それはいい、ネタを売れば俺も金になる」
ラインハルトは表情も変えずにルドー男爵を観察する。爵位はあるけど中身はつまらないチンピラのようだ。そして隣に座るアリスに視線を向けると、アリスはにっこりと微笑みを返してきた。
「私は婚約でもいいんですけどぉ~?」
「学園で君とろくに会話もしたことはなかったと思うが」
「酷い…なんでそんなこと言うんですかぁ?」
芝居めいたぶりっ子ポーズで瞳を潤ませながらアリスはラインハルトを見つめた。大勢の前で騒ぎ立てて集金をするためにやっているのだから交際の中身が伴ってなくても構わないということか。
そんなラインハルトとチンピラ親子のやり取りを、こっそりとドアの隙間から覗いているのはリリアーナと、リリアーナに「面白そうだから覗きに行こうよ!」と誘われ楽しそうに付いてきたルイと、止めながらとうとうドアの外まで来てしまったロベルトだ。
「あれは…アリス」
「ルイくん知り合い?」
「あの…ぼくの恋人だった人…」
「なんだって!?」
後ろの方で控えめにしていたロベルトが前に出て扉の隙間から部屋の中をガン見する。一見して美少女だとわかる少女、ルイはあれにすっかり騙されたのか。
「綺麗な子だね~騙されちゃうのわかるよ」
「へへ…やっぱり可愛いなぁ」
「ルイ~…」
嬉しそうに答えるルイに、凝りてないのかとロベルトはがっくりと項垂れる。
「承知しました。それでは婚約しましょう」
「「「「「え?」」」」」
ラインハルトの言葉にその場にいた全員がハモる。
「婚約ですよ、何かご不満でも?ああ、そうだ。今ちょうど法律事務所の人間も来ていてね、婚約の正式な書面は後になるが先に当家とルドー男爵家の契約書を作ってしまおう。どうです?ルドー男爵」
ラインハルトの言葉にルドー男爵は考える。なんだかんだ理由をつけて今この場で金を出させようと思っていたけど、まさかそんなつもりもなく言った婚約の言葉に飛びつくとは。もしかしたらこの坊ちゃんは金を引き出す権限もないのかもしれない。それどころか「悪魔憑きの娘を隠蔽して王家に差し出した」という汚名により嫡男の婚約が整わなくて焦っているのではないか。
ルドー男爵は瞬時にそれを「弱み」だと判断し笑みを深めた。
しかも契約書まで作るという。いくら後から親がしゃしゃり出たところでそれを盾にどうとでも言える。
(まったくバカなガキは金になるな!)
ルドー男爵は娘のアリスを使って金回りの良さそうな少年に色恋を仕掛け、その後決まった婚約者がいると裁判などをちらつかせ金を取っていた。親バレを恐れる育ちの良い令息などは面白いくらい簡単に金を払った。そのカモに金が足りないと言って協力をさせることもある。今回ラインハルトに決闘を申し込んだエリオットもそうだ。そうしてエリオットに分け前の一部でも与えれば立派な詐欺の共犯となり簡単に抜けられなくなる。そんなことを考えているルドー男爵は高らかに笑いたいのを堪えた。
「では、契約書を作成してくるので少々お待ちを。何かあればメイドに申し付けてくれ」
ラインハルトがそう言って席を立つと「失礼します」と二人のメイドが入ってきた。それを見てラインハルトの動きが一瞬止まる。一人は以前からレオフィリア家で働くメイド、もう一人はメイド服を着たルイだった。なぜ?リリアーナが中をしきりに気にするルイに「いいこと考えた!」とメイド服を着せて部屋に入れたからに他ならない。
ラインハルトの「なぜ?」と家令の「だれ?」の目線を受けながらルイはレオフィリア家のメイドの隣でひっそりと控える。ラインハルトも家令もさすがなもので表情は一切変えずに部屋を出た。
ルドー男爵はアリスと二人だけになると、メイドなど壁と同じと言わんばかりに偉そうにソファにふんぞり返った。
「…お父様、婚約なんて馬鹿な真似やめましょう。相手は侯爵家よ、何か考えがあるんだわ」
アリスがそう言ったかと思うとルドー男爵はアリスの髪の毛を掴み思いきり引っ張った。
「うるさいんだよぉ!」
小さいが苛立ちが隠せない声でそう言いながらアリスの髪を掴んだまま小さく振り回し、ソファの端に放り投げた。それを見て思わず飛び出しそうになったルイをメイドが止める。
(アリス…?)
ルイの心臓はバクバクしていた。当たり前みたいに暴力的にアリスに接するルドー男爵がルイの目には異常に映って、脅されて怖い目にあった時よりも恐ろしかった。ルイは平民だし片親で育ってはいるが、気のいい劇場の仲間たちに囲まれ小さいときから可愛がられていたので、こんな場面を見たのは初めてだ。
アリスは身を起こし座り直し、それからは一言も口を開かなかった。
「おい、酒はないのか」
「ただいまお持ちします」
ルドー男爵の声掛けに返事をしたのは本物のメイドだ。酒の準備をしている中、ルイは棒立ちでただアリスを見つめていた。
***
「全然婚約の話来ないから丁度いいかもね」
「早まらないでください!契約書なんて作ってしまったら侯爵家とはいえどうにかするのは大変です!」
姉のリリアーナが暢気にそんなことを言っているのに、なぜか関係のないロベルトが真っ青な顔をして止めている。
「いいじゃないか、婚約。身内になってしまえばアレをどうしようとも身内の話。ゴミをどう処理しようが他家には知ったことではないでしょう」
ラインハルトは笑顔だが、目はまるで笑っていない。リリアーナはこれが腹黒おハルくんかと思わず「ほほぉ!」と唸る。場にそぐわないリリアーナの声にロベルトは困惑するが特にそこには触れずにラインハルトを諫めた。
「そんなこと言っちゃいけません!嫡男のキミまで悪魔憑き呼ばわりされたらどうするんですか!」
いい人である。
「言わせておけばいいのです。ところでオーベル伯爵令息、代書を頼んでも?」
「はい?」
親切な忠告を軽く流してラインハルトはロベルトに依頼をする。ラインハルトとアリスの婚約の契約書だ。貴族の婚約には王家に提出する婚約届が必要となるが、それには手続きにあれこれと必要書類があったりして時間と手間がかかるため、その前に契約書を交わす家も多い。最近の婚約破棄騒動で一旦は契約書だけやり取りし、婚約届を出すのは様子を見てからとしている家も多いのだという。婚約届を出す前と後では破棄となった時の処理の手間と金額が違うのだ。
そしてラインハルトの依頼した契約書面には二人が婚約するという内容と「尚、どちらかが本契約の取り消しを願った場合は5000万ベアンの支払いをすることにより可能とする」という条項を入れた。「両者の合意により」という文言がないため金さえ払えば一方的に破棄できるレオフィリア家のための条項だ。さんざん相手をいたぶった後に金で追い払おうというのである。更に確実にサインをさせるため「どちらかの家が負債を負った際には返済のための協力をする」という条項まで追加した。
「協力って何するの」
「返済計画くらいは立ててあげてもいいですよ」
「悪どいなぁおハルくん」
「貴族は舐められたら終わりです」
なるほど、貴族とは任侠映画みたいな感じなのだなとリリアーナは学習した。接したことはない世界だが動画サイトで一時期昔の任侠映画にハマっていたので解らないということはないだろう。
リリアーナは「ほーん」という感じで契約書を見ているが、作成したロベルトの血色は青を超えて土色だ。
「ほ、本当にいいんですか?5000万ベアンなんてそんな大金…」
「まあ、小さい金額とは言わないけど相手がサインするだろうし、黙って去るだろういい金額だと思うんだけど」
「はあ…」
ロベルトも貴族ではあるが、やはり王家から重用されている侯爵家というのはレベルが違うのだと契約書に書かれた金額を見て思う。茶番の婚約にこんな金額を使えるのだから。
「さて、契約締結をして参ります。付きましては姉上にお願いがあります」
正直この話には自分は無関係だと思っていたリリアーナだ。一体自分に何のお願いがあると言うんだろうか。
「え、なに?できる範囲ならいいけど」
「簡単なことです。契約を終えましたらお呼びしますので全力で部屋に入って来てください」
「全力で?」
「全力で」
「そう、わかった」
なんだそんなことかとリリアーナは軽く請け負った。婚約者とそのご家族には遠慮なんかせず全力で接して欲しいのだろうと、リリアーナはありもしないラインハルトの望みを勝手に察した。
「それではお付き合いいただけますか?オーベル伯爵令息」
「…ここは法律事務所の人間でお願いします」
「なるほど、ではオーベル先生よろしくお願いします」
二人で頷いて部屋を出る。手には双方が持つ契約書と、法律事務所に預ける控えの三部がある。よほどの考え無しでなければこんな契約書にサインなどしないと思うが、考え無しだからこそレオフィリア家に突撃したとも言える。
そしてやはり考え無しであるルドー男爵は契約書を見るやいなや「レオフィリア家から婚約破棄をしたら5000万ベアンが手に入る」と目の色を変えてサインをした。これならいくらこっちが失礼をしようが相手に嫌われるほどに金が転がり込んでくる日が近くなるというものだ。
「これで婚約するという契約は締結された。では、ぼくの家族を紹介しようと思う。両親はあいにく領地にいるので姉のリリアーナだけだが」
「ほう、あの王太子殿下との婚約を破棄された悪魔憑きと噂の」
ルドー男爵はレオフィリア家には傍若無人に振舞っていいと判断したので、リリアーナへの蔑みを取り繕うことをしなかった。ラインハルトはその言葉にちらりをルドー男爵を見やるがすぐに目を伏せお茶に口を付けた。
あの日パーティーでの「公爵失脚事件」をその目で見ていない貴族にとってリリアーナは『誘拐され疵物になり王家に嫁ぐことができなくなった女』でしかない。長年王家に重用されていた家の娘がそんなことになり、妬ましく思っていた者は内心留飲を下げているのだろう。ルドー男爵も惨めな娘がやってくるのを見世物が始まるような気持ちでニヤニヤと待っていた。
「姉上!お入りください!」
ラインハルトが扉に向かって声高らかに呼ぶと、なぜか「ドォォォン」という音がした。音に聞こえたそれは声である。いわゆるボイスパーカッションだ。
「メインっゲートから!リリアーーーナ・レオーっフォリアのぉっ入場です!」
ギィィィィィ…ドォォォォォン…という音、というか声と共に重々しく扉が開く。ここの扉がそんな開き方をするわけがなく、リリアーナが演出としてやっているだけだ。
さて、一体何が起こっているのかが分からないのは部屋にいる人たちだ。全力で入ってこいと頼んだラインハルトだってこれが何だか分かっていない。だけどリリアーナは食堂などに現れる時、こんなわけの分からない入り方をしてくるのだ。本人曰く「入場したい」との事だが、理由を聞いてもやはり分からない。
リリアーナである田中は単純に、レオフィリア家の扉が入場するに相応しい立派な扉なので大げさに入場しているだけで特に意味はない。昨日の夕食時には元居た世界のご長寿音楽番組のオープニングテーマをBGMに本格音楽アーティストを気取ってスカして入ってきた。
「悪魔憑き、誰が呼んだか。元は王太子の婚約者として栄華を誇ったリリアーナ。悪魔憑き、誰が呼んだか。全てを失ったリリアーナが今日、このリングに帰ってきた」
見えないオーディエンスに拳を上げながらリリアーナはゆったりと部屋を練り歩く。今日の趣向は格闘技イベントの入場らしい。少し飛び跳ね拳を振るうその姿はボクシングなのだろう。ナレーションは格闘イベントの実況を完璧に模している。前の世界で動画を見ながら一人で練習をしていた成果だ。
「今日ここに集まった1万6千人の格闘技ファンたちがっ全員が待ち望んでいたぁ!リリアーナ・レオフィリア!奇跡の復活劇を!リリアーナが今!リングのロープを潜った!」
見えないロープを潜り、見えないリングへ上がったリリアーナはぴょんぴょん撥ねてウォーミングアップをし、ボクシングの構えをキメてピタリと止まった。
「全力で」というおハルくんの期待には応えられただろうか。自分としてはかなり良い出来だとリリアーナは手ごたえを感じている。
見えてるオーディエンスである客人たちは皆茫然とリリアーナを見ている。一体何を見せられたのだろうか。何と言えば入場なのだろうが、それにしたって意味が分からない。メイドに扮したルイだけはそれでもなんだか面白いと思っている。リリアーナの奇行を目にするのが初めてではない家の者たちは表情を崩さずに眺めていた。
「姉のリリアーナでございますわ。突然の婚約ですが私、喜んでおりますの。よろしくお願いしますわね」
唐突に淑女のカーテシーで挨拶をするリリアーナに、ルドー男爵は、あ、とか、う、とか言葉にならない声を上げうっすら汗をかいている。
「ボクの婚約者には姉上の遊び相手になってもらう」
「!む、無理よ!」
ラインハルトの言葉を聞くや否や被せるように拒否したのはアリスである。今正に奇行を見せつけてきた人間と遊び相手など不可能だ。アリスの判断は早かった。
「えっいいのおハルくん!」
「もちろんです」
「無理だってば!」
ぶりっこの擬態が完全に崩れ落ちたアリスは強い拒否を示す。無理なものは無理だ。
「なぜです…?」
悲し気に視線を向けたリリアーナからアリスは視線を背ける。無視をされてしまったので今度は目線をルドー男爵に向けたが同じように背けられてしまった。
「あら、もしかして悪魔憑きという噂を信じていらっしゃいますの?それなら安心なさってください、王家からきちんと悪魔など邪悪なものは憑りついていないというお墨付きをもらっておりますわ。書面もございますのよ?そうね、仲間ができたし、今度はもっとすごい入場ができますわ」
ルドー親子を安心させるためにリリアーナはいつもより優し気な口調で言うが、それが一層不気味だった。柔和な語り口だが、言葉の内容はわけが分からないのである。
「一体、何を言っているんだ」
「一緒に入場をするという話です」
ルドー男爵は思った、会話が成り立たないと。悪魔憑きという噂は聞いていたけどそんなのはただの表向きの話で、実際は女として疵物になったのだと思っていた。だけど実際に目にしてみるとそんな次元の話ではない。
「貴様…バカにしてるのか」
「何をですの?家族になるのですから包み隠さぬ私と接していただきたいと思ったまでですわ。そうですわ、まだ婚約者の方のお名前をお聞きしてませんでしたわね、伺っても?」
リリアーナはそう言って視線をアリスに向ける。可愛くないおじさんは可愛くないことを言っているのでもう無視だ。
「………っ」
「ルドー男爵令嬢、ボクの婚約者なら挨拶くらいはきちんとできてもらわないと」
返事をしないアリスにラインハルトは表情を乗せない顔で冷たく言う。これは命令だ。
「おハルくんだめだよそんな怖い顔で…おハルくんの奥さんになるんだよ?ね?えーっと、アリスちゃん?」
名乗ってもらえなかったのでリリアーナは契約書に書かれている名前を見た。ズルである。
「…私、結婚できません」
アリスが言ったこの言葉にラインハルトは馬鹿にしたようにため息をつき、リリアーナが何故かと問おうとした時だった。
「ふざけるなよ!」
ルドー男爵はアリスの髪の鷲掴み、立ち上がった勢いと共に引っ張った。ラインハルトは密かに眉を寄せ、リリアーナも目を見張る。
「お前が結婚しないなんて言ったら5000万ベアンをこっちが払うんだぞ!えぇ!?わかってんのか!」
髪を引っ張られ揺さぶられても声一つ上げずに堪えているアリスを見て、リリアーナはこれが日常的に行われているのを確信した。
「このような席でおやめくださいルドー男爵」
そう言って諫めたのはロベルトだった。フンと言って放り投げるように手を放しルドー男爵はソファに荒っぽく腰を掛けた。
「まあ、ルドー男爵はそんなにまで我がレオフィリア家と縁を繋いでいたいのですわね、感激ですわ」
リリアーナは場にそぐわない明るい雰囲気と声色で言った。浮かべた笑顔はさすがに王太子妃にと望まれただけあって美しい。
「あれだけあったラインハルトへの縁談も、王家に払う違約金の話を聞けば皆蜘蛛の子を散らすように去って行ったというのに」
「は?違約金?」
ここに来て初めて出た単語にルドー男爵が反応する。一体何の話だと思ったがラインハルトも黙って聞いていた。
「疵物である私を王家に嫁がせようとしたのだから罰が領地送りで終わるわけがないでしょう。別に隠された話ではございませんけど、聞いておりませんの?ふふふ、5000万ベアン…当家が払えるわけがございませんのよ」
少し俯き疲れたような、それでも美しい微笑を浮かべたリリアーナが口にした話は思いがけなかった。羽振りがいい家で、屋敷に子供しかいなくて、疵物になった弱みがあると思ってターゲットにしただけだ。
「違約金の支払いに協力していただけるなんてありがたいですわ」
「何を言っている、俺には関係ない!」
「まあ、当家の嫡男の婚約者、ゆくゆくは妻になる方のご実家ですわよ、関係が無いとルドー男爵はおっしゃいましても、王家はそう取りませんわ」
もちろんそんな話はどこにもなく、口から出まかせの適当なことを言っているだけだ。なんなら王家からは見舞金までもらっている。侯爵家相手に粗々なずさんな策で乗り込んで来たオッサンだからもしかしたら通じるかな?と思って言ったら信じているみたいだ。ラインハルトも黙っているのでリリアーナは続けることにした。
「ふふ、入場でもしないと…やってられませんの」
悲し気な笑顔で遠くを見つめるようなリリアーナは今にも消え入りそうな儚げな美しさがあった。そのことが妙な説得力を持たせてしまう。たとえ言葉の意味は全く意味不明でも。いやむしろ、王家への支払いで困窮したからこそおかしなことを口走るようになったのではないか。
「この屋敷はすでに王家の所有になっていますけど、ルドー男爵の屋敷も差し出せば支払う金額はだいぶ減るわ、ふふ、よかった…」
「勝手なことを言うな!」
「勝手なこと?」
きょとんとした顔をして、リリアーナは手に取った契約書をルドー男爵に見せた。
「負債を負った際には協力すると書かれた契約書にサインされましたわよね?」
確かに書いてある。だけどそれはルドー男爵にとっては今ある自分の借金を払わせるだけの条項だ。それがどうして自分の方が無関係の借金返済に巻き込まれることになるのだ。
「ふざけるな!こんなものは無効だ!」
「無効?あの…残念ですが、5000万ベアンの支払いなく無効にはできないのですよ?」
「フン!払ってやるよ!こんな貧乏人の家なんかに来るんじゃなかった!」
ルドー男爵はそう言いながら契約書をビリビリに破いてばら撒いた。こんなことをしても相手も法律の専門家も控えを持っているのだから意味はない。リリアーナは深くため息を吐きながら破れていないレオフォリア家側の契約書を裏返し、メイドにペンを持ってくるように頼んだ。
「やっぱり、協力なんてしてもらえないわよね…」
そう言いながら契約書の裏面に「表面に書かれた契約を解除する」と簡単に記載した。
「ルドー男爵、こちらにサインくださいませ」
「フン!」
リリアーナからペンを引ったくり自分の名前を記載するとリリアーナに向けて契約書を投げつけた…が、だけど紙なのでヒラヒラと方向を変えあらぬ方へ飛んでいき、ルイがそっと拾いリリアーナに渡す。そうしている間にルドー男爵は乱暴な言葉を吐きながら出ていき、アリスもそれについて行った。
屋敷の敷地からも出て行ったのも窓から確認すると、ようやくその場にいる全員がほっと息を吐いた。
「姉上、お見事でした」
「金の話になると目の色変わってたからね、自分がひっ被ると思ったら反射的に逃げるんじゃないかと思ってさ。しかし裏付けも取らないでよく契約書にサインするよ」
「…す」
す?
やっと緊張の解けた姉弟が聞こえた方を向くと、声を発したのはロベルトであった。ここに来てから青より血色の良かったことがない顔が今は興奮で真っ赤になっていた。
「素晴らしいですレオフィリア侯爵令嬢!言葉巧みに契約無効に同意をさせて退室させるとは!」
ロベルトは真面目である。真面目なのでこんな口八丁で相手を追い払うなんてことはできやしない。人は自分の持ちえないものは特に輝いて見えるのだ。
「これでルドー男爵はレオフィリア家に接触を図れば5000万ベアンを請求されると思って二度と近寄っても来ませんよ!」
「やれやれ、面倒だったが片付いてよかったよ」
「何を言っているの、終わってないわよ?5000万ベアン取り立てに行かなくちゃ」
打ち上げムードのロベルトとラインハルトにリリアーナが言った。
「レオフィリア侯爵令嬢…」
「言うの長くない?おリリさんでいいよ」
「え…いや、ではリリアーナ嬢」
会話の途中だけど気になったので言ってしまった。
「僭越ながら申し上げます。借金の類は負わせることはできても、真に難しいのは回収することです。相手はタチの悪いゴロツキのような男です、最初から踏み倒すつもりでしょう。対応は容易ではありません」
「姉上、ボクも同感です。別にこっちが貰う気が無かった金はどうだっていいじゃないですか。姉上が言った我が家の状況が嘘だとわかっても、サインをした以上自分が金を払わなければならないと思えば寄り付きませんよ。ボクとしてはここで手打ちでいいと思いますが」
「やだなぁおハルくんが言ったんじゃない、貴族は舐められたら終わりだって」
弟と専門家の説得にまるで折れる気のないリリアーナである。正直、この話はリリアーナは面白がっていただけでムキになる理由はないはずだ。それがどうしてこんなに頑なに手を引かないのかと二人は顔を見合わせる。
リリアーナは怒っていた。親の庇護下でしか生きていけない子供を暴力によって従わせる、一見してクズなあの男に下す鉄槌はこんなものではないのだ。
***
リリアーナは正式にロベルトと契約し、まずはルドー男爵のタウンハウスの状況を確認した。土地家屋について日本と似たような管理方法を取っており、法律家であれば委任状などなくとも土地や建物の所有者や債権状況の確認ができる。
「ルドー男爵は屋敷を担保にずいぶん借金を重ねたようです。とにかく立地がいいですから資産価値が高いので相当な借入額になっています」
「債権者は複数?」
「元はそうでしたが、今は1商会ですね。とはいえ返済したわけではなく借り先を一つにしただけですが」
「一本化したんだ、その商会はまともなところかしら?」
その問いにロベルトは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「未成年に借金を負わせて平気な金貸しがまともなはずありません」
「…もしかして」
「ルイに金を貸したところです」
「なるほど…ロベルト氏はその商会について調べたりした?」
「ええ、もちろん。訴訟も考えましたからね。知ってることは何でも共有しますよ」
ロベルトはすっかりリリアーナのファンだ。真面目なので業務での守秘義務は守るだろうが、それ以外でリリアーナのためになることであれば何だって渡す勢いである。
ロベルトはあらかじめ持ってきていた商会についての調査書をリリアーナに渡した。
「単純に不思議なんですけど、複数から借り入れているのが一か所になったとして、別に金貸しの相手が変わっただけで借金は減らず、この証明書を見るに今のところが金利が一番高いってのにどうしてこんなことするんですか?」
「借金に縁のないおハルくんには想像つかないかもしれないけど、例えばよ。最初は借り先は1か所だったかもしれないけど、そこに返すお金が間に合わなくて他の金貸しから借りて返したりして、そんなのを続けているとまた借りる先が増えるのよ」
「バカなんですか?」
借金を借金で返したところで借金は減らないではないか。その前にどうして返せる当てのない借金をするのだ。金の苦労をしたことがなく頭のいいラインハルトには到底理解ができない。世の中には例えばルイの身に起こったような思いがけないことがあったりするし、一概にそうする人間がバカとは言い切れないのだが、それはラインハルトの率直な感想なので否定することでもないかとリリアーナは続ける。
「そんで月に返済日が3回来ちゃったりして資金繰りも上手くいかないとにっちもさっちもいかなくなるわけ。そんで借金を一まとめにして返済先を一か所にするのよ、やってくれるところがあればね。それだと利息が増えても、例えば三ケ所に5万ベアンずつ返せば月に15万だけど、一か所に10万だけ返せばいいってなると月の返済額が減るのじゃない?」
「返済額が減って元金の返済が遅れるだけですが。利息取られて結果的にもっと払い続けることになりませんか?」
「おハルくんはきっと借金で困ることがなくて安心だわ。まあ、背に腹は代えられないというか、また借金するよりは返済期間が延びちゃっても月の返済額を減らして手持ちのお金で生活を回す方がいいからね」
ラインハルトがいればレオフィリア家が破綻する未来はないだろう。このまま彼の脛をかじっていけばリリアーナの生活も安泰だ。
「リリアーナ嬢は債務者の感覚をよくご存じでいらっしゃる。借金は深刻な社会問題でもあるので学ばれたのですね。しかし、この商会は国からの補助を受けてやっているまともな金貸しではありません。そんな商会がこの金額を一まとめにした…債務者への支援などではなく、ルドー男爵は良いカモなんでしょうね」
「そうね、今はね。そのカモにレオフィリア家から5000万ベアンの請求が来たとして、その商会はどう出るかしら」
「ルドー男爵が更に商会から借りられるような金額ではありません。変に介入されて自分の所の取り立てが上手くいかなくなると見て、オフィリア家に手を引くようにアクションを取るかもしれません」
「そっか、だったらこちらから交渉に行きましょう。なんならこの債権半額くらいで売ってもいいしさ」
借金額が増えれば今はどうにか回っている借金の返済が滞って止めを刺すのが早くなる。そうしたらあの見事なタウンハウスがとっとと手に入って商会にもいいだろう。
善は急げとばかりにリリアーナはロベルトを伴ってまともじゃない金貸しの「ジオ商会」へ向かった。馬車を下りて徒歩となる道のりでルイとばったり出会い、案内してもらうことになった。
「大丈夫ですかリリアーナ様。なんか怖そうな人がいっぱいいる所でしたよ?」
「討ち入りに行くわけじゃないから大丈夫でしょ。お話をするだけよ」
「あの…リリアーナ様、アリスのことですけど…」
「うん?」
「どうにか助けてあげることは…できませんか?」
「どうにかって、どうやって?」
「うーん、わからないです」
他力本願な子だ。リリアーナはルイにそう思うが、別にそれが悪いこととは思わない。自分に能力が足りないのを弁えてすぐに誰かに助けを求めるというのは、一人で何とかしようとして手遅れになるより正しいのではないだろうか。
それでもまあ、大層なことはできなくても自分にできる範囲のことは頑張って欲しい。
「まあ、そう思うなら自分でもできることをしてごらんよ。お金取られたルイくんがいいならだけど…」
「あれは兄ちゃんが払ってくれましたから」
「ルイー!」
あっけらかんと言うルイにロベルトがガックリ項垂れる。
そんな話をしているうちに路地裏にあるジオ商会に到着した。窓から中の様子を見るとルイが言った通りガラの悪そうな男が3人いた。だけど身なりを良くして威勢を張った人間はいないので責任者は不在のようだ。
「あいつ!アリスの婚約者って言ってた男!」
「何が貴族だ…やっぱり詐欺で恐喝していたのか」
ルイの言葉にロベルトはギリっと奥歯を噛む。観察力のないルイはちょっといいジャケットを着ただけのチンピラを貴族と信じてしまったようだ。それもまた残念な話である。
「なるほど、確かにまともな金貸しじゃないね」
「リリアーナ嬢、本当にご自身で入るんですか?やはり私が交渉を…」
「大丈夫よ、せいぜい凄んでくるくらいでしょ?脅してきたって泣き真似しながら逃げ帰ったら深追いしてこないわよ」
そうなったらドラマで見た「覚えてろよ!」と逃げる下っ端のものまねをしたらいいのだ。何の不安もなくリリアーナは事務所の扉を開けた。
「すみませ~ん、レオフィリアですが~」
威厳も何も感じられない口調でリリアーナがそう言うと、部屋でデスクに座っていた男がちらりと一瞥し、シッシと手を振る。帰れということである。
「あの~、ルドー男爵に5000万ベアンの債権があるんですけど、買ってくれなきゃ一括で取り立てちゃいますけど~」
ルドー男爵の名を聞くと、態度の悪い男が立ち上がりオラ付きながらこちらへやってきた。
「おいネーチャン舐めてんのか」
「こちら契約書です。で、こっちが契約解除のサイン。5000万ベアンを当家に支払う義務がルドー男爵にはあります」
「へっ取り立て?やれるもんならやってみろ」
金貸しにとっても集金とは過酷な業務である。綺麗に払ってくれる客なんて僅か、大抵が払えないと泣きを入れてくる。ぶん殴ってでも金を出させ、金目のものなら娘だって子供の玩具ですら持って行って金にする。そんな真似がこんなお嬢さんにできるわけないだろうと高をくくってそう言った。
「なるほど…わかりました。お邪魔しました」
こうも相手にされないのでは話を進めることはできない。リリアーナはあっさりと引き上げた。
「でもまあ、取り立てはやってみろと言ってたからそれについては文句ないみたいね」
「ハナから出来ないと踏んでいるんでしょう」
「まあ、こういうのは言質取ったのが重要だからね。じゃあ案その2で行くよ、ロベルト氏いいかな?」
「お任せください!」
案その2、それは債権を売るのではなく自ら取り立てに行くのだが、ジオ商会が横からちゃちゃを入れて来たら邪魔である。なのでまずはそっちの足止めをすることにした。やり方は簡単、通報したのだ。
平民相手の素行の悪い金貸しへのクレームは基本商業ギルドへ行って、そこから是正勧告をする。それも守らない悪質さなら王城へ話が上がるのだが、そこで問題としてもらえるかどうかは代官次第というのが現状だ。だけどそんなものはすっ飛ばして、詐欺や恐喝をして未成年にも金を貸し付けて高額な金利を取っていると、レオフィリア侯爵の名前で王城の然るべき部門に訴えた。
「まどろっこしいから権力でごり押ししよう」と言ったリリアーナはロベルトにジオ商会についての調査書と、治安維持のため国王の名において調査をするべしとの完璧な上に通りやすい書面の作成と提出を依頼した。国に提出する様式なんてものは書き方一つですんなり通るとロベルトは豪語し、そして実際そうなった。訴状の様式への押印は代理当主のラインハルトに押してもらった。もちろんレオフィリア家の正式な印である。
そうして王城からの調査が入ったジオ商会は実質の営業停止状態となったのだ。金を取りたてに行きたくとも取り調べを受けてそうもいかない。そして違法性が明らかになれば今度は裁判となり、今度はそちらに召集され業務どころではなくなるのだ。
「そうなったらついでに裁判でも勝っておこうかしらね」
「お任せください!」
胸を張るロベルトを伴って、行くのはルドー男爵家だ。
借金まみれのルドー男爵家に召使いというものはいない。もはや貴族の形を成していないのにこのご立派な屋敷にしがみ付き、借りた金で貴族に見せかけている。護衛なんてものももちろんいないが、それはジオ商会から一人二人、金を貸すついでと言って腕に覚えのある人間が代わってやっていた。しかしそれはルドー男爵が夜逃げしないよう監視していたに過ぎない。しかし今ジオ商会はそんなことしてられない状況なのでこの屋敷にいるのはルドー男爵親子だけだ。
居留守をされるかと思ったら案の定だったので、持参した破城槌と騎士で門を突破した。
「お、お前!こんなことが許されると思っているのか!」
「集金のためなら許されますわ」
逃げようとしたルドー男爵はレオフィリア家の騎士に捕まり、玄関ホールで待つリリアーナの前に連行された。
今、リリアーナの前で膝をつく形でルドー男爵は押さえつけられている。
「お前…っわかってるんだぞ!この前の王家に金を払うって話は嘘だな!誰もそんな話は聞いたことないって言っているぞ!」
どうやら帰ってから調べたらしい。婚約破棄の意志を持ってサインをした後なので全くの手遅れではあるが一応裏を取ったのは褒めてもいい。なのでリリアーナは晴れやかな声を高らかに上げる。
「正解です!」
「!?」
「では第二問!」
「!?!?」
リリアーナの訳の分からない言動に戸惑いを隠せないルドー男爵である。ちなみに騎士の皆さんはもう見慣れているし、ロベルトはもはやリリアーナが何をしようと肯定の意しか持たぬ強火ファンと化したので誰も表情を崩さない。
「ルドー男爵はレオフィリア家に5000万ベアンを支払わなければならない、マルかバツか?」
「ふざけるな!俺を詐欺にかける気か!あんなもん無効だと言ってるだろう!!」
「ルドー男爵はレオフィリア家に5000万ベアンを支払わなければならない、マルかバツか?」
「おい!聞け!!!」
「チッチッチッチッチ…ブー、残念、ルドー男爵チーム回答できず。得点、ならずー!」
「なんのことだよおいガキ!おい!!」
「契約書にサインをしたルドー男爵はレオフィリア家に5000万ベアンを払わなければなりません。拒否をした場合、裁判をすることで公的に支払い命令が出ることになる、ということです」
クイズ番組の解説風にリリアーナが説明をする。急ごしらえの契約書だって合意とサインがあるのは第三者が確認しているのだ逃れられはしない。
「第三問!」
「………」
全く聞く気の無いリリアーナの態度にルドー男爵は言葉を失っていく。騎士に押さえつけられて跪いているルドー男爵を前に、一人楽し気にペラペラしゃべるリリアーナと無表情の騎士とロベルト。
なんだこの異常な状況は?
リリアーナのことを頭のおかしい疵物の小娘だと舐めていた。相も変わらず訳の分からぬ闖入者に頭にきていたのだが、だんだん血の気が引いていく。…もしかしたら、とんでもない者を相手にしているのではないか?
そんなルドー男爵に目もくれず、リリアーナは見えないギャラリーと見えない他の回答者を見渡して第三問目のクイズを出す。
「ルドー男爵の財産は、預貯金とタウンハウスだけである。マルかバツか?」
「…………」
「マルかバツか?」
「…その通りだ」
「マルかバツか!?」
「………マルだ」
「…残念、不正解~!またもルドー男爵チーム逃してしまいました!」
なぜルドー男爵は一人なのにチームなのか。そんな疑問を持つ騎士は数名いるが誰も言葉を発しない。
「正解は、マル。ルドー男爵は預貯金とタウンハウス以外に、領地を持っています」
領地、それを聞いてルドー男爵はハッとし、そして俯きニヤリと笑った。確かに小さいながら領地を持っている。しかし4年前に大規模な洪水被害がありいまだ復興がままならなく税収もほぼないのだ。そんな状況の領地をなんともできないまま父親が死に男爵を継ぐことになってしまった。しかも納税免除の措置が今年で切れて税金を払えと督促が来ている。ジオ商会も金を借す時に領地のことも確認したが状況を知り手を付けなかった。
「…いやぁ、お恥ずかしながら領地の復興はまだ完璧とは言えないのでね、財産だとは思わなかったんだよ」
「あら、謙虚でございますわね」
「領地だぞ、まさか5000万ベアンで持っていく気じゃないだろうな?いくら復興してないとは言えそんなはした金で渡せるもんじゃねえ」
「もちろん5000万ベアンの証文と引き換えとは言いませんわ。男爵の爵位の証文とお宅のお嬢さん込みでこの証文と更に5000万ベアンのお支払いでいかがかしら」
「は?」
「私は入場をする仲間を諦めておりませんの」
入場したさに人間を買おうなんて奴はどうかしているし理解の範疇を超えている。
「爵位もだと?ふざけるな!足元見る気か!」
「最後までお聞きください、ルドー男爵」
手に持つ書面をめくりながらそう言ったのはロベルトだ。
「災害による3年の免除処置が終わり、今年から納税をしなくてはいけませんね?その納税義務は領地を手放しても請求された時点での領主にあります。ですが旧領主が平民になった場合はその限りではありません」
「なんだと?」
「新領主との協議により、どちらが納税義務者かを決めることが可能です。そしてもちろん、爵位と共にその納税もレオフィリア家が持つと言っているのです」
爵位は本来は売買できるようなものではないが、相手が高位貴族なら話は違う。傷ついた領地に手を入れるために譲り受けるのならば領地と共に譲位が認められるはずである。ほいほいと新たに叙爵はできないが、今回のような理由で高位貴族が下位の爵位を新たに所有するのは特に問題とならない。
ルドー男爵は考える。貴族の中では男爵は格下と言えるが、貴族は貴族、手放すのは惜しい。クソみたいな領地を残して無責任に死んだ父親を恨んだが、減免措置がされている間はそのうち復興して税収が入ると甘く考えて問題を先送りした。そうこうしているうちに税金を払えと督促が来て、領地にある領主館にある金目のものは差し押さえをされたのだ。それでもまだしつこく残りを払えと言ってくる。
問題から目を逸らし王都で遊ぶうちに借金ができた。しかし返す金額は低くていいと言うので同じような生活を続けていたら馬鹿みたいに借金が膨らみ、タウンハウスも抵当に入れられた。
そうしているうちにジオ商会のやつらは借金返済の手伝いをするからアリスを貸せと言ってきた。まさか娼館に売るのかと思い、娘を売る覚悟は無かったので承諾しかねていたのだが、聞けばそうではないと言う。金を持っていそうな男をアリスで引っかけて、因縁をつけて金を取るという。実入りが良ければ借金の返済分とは別に分け前も渡すと言って来た。そうして協力すると面白いくらい簡単に金が手に入り、それならばと自分でアリスを使って金を稼ぐようになったのだ。
「…5000万ベアンじゃ足りませんなぁ、大事な娘も手放すというのに…ねえ?」
リリアーナを見上げたルドー男爵の顔は卑屈な笑顔で満ちていた。
落ちたな、とリリアーナは確信する。普通に考えて領地、おそらく前の世界で言うところの地方自治体の「町」程度に該当するであろうルドー領が1円=1ベアン換算で合計1億で売れという話が舐めた話である。桁が違って然るべきだろう。だけど娯楽で借金を重ねる人間は目先の金しか見ないのだ。
あとはゴネて金額を上げられるまで上げようという腹だろう。復興がまるで進んでいないと明らかになれば、この話が立ち消えると恐れルドー男爵は今すぐに話を決めたいはずだ。価格交渉で金額のジャッジにも関わってきた田中の勘がそう言った。
「ふふふ、そうね。爵位と領地と、何より大事なお嬢さんが欲しいと言ってケチケチしてたらダメよね。ちまちま金額を上げて時間を掛けることはしないわ」
「ほう?」
「1億ベアン」
「……!」
「残念ながらこれ以上は出せないの。これでダメなら…諦めるわ」
1億、自分の遊ぶ金としか思っていないルドー男爵にはインパクトのある数字だろう。
ちなみにこの1億ベアンは、リリアーナが婚約解消になったときに国王からもらった見舞金の金額である。邪悪な精神ではないというお墨付きをもらったので婚約を続行したって良かったと思うが、まあレオフィリア侯爵のやらかしもあるし、今まで王太子妃教育で時間を奪っていたのもあるし、だけど教育するのに金だって掛かってるのもあるし、でもまあ何といっても誘拐されて婚約解消されたリリアーナが哀れだよね、という色んな要因を加味した結果1億に着地した。
その1億を目の前にぶら下げてリリアーナはルドー男爵の返事を待つ。
「い、いいだろう」
「まあ嬉しい。では必要書類を揃えてしまいましょう、さあお立ちになって」
立てと言ったがリリアーナは手を差し伸べることはしない。騎士に引っ立てられて立ち上がったルドー男爵は応接間まで案内させられる。
必要書類はロベルトが全て揃えてあり、リリアーナとルドー男爵はひたすらにサインと押印をする。ちなみにリリアーナは未成年のため父親のレオフィリア侯爵がリリアーナに全て任せるとする旨の承諾書も準備してある。押印をしたのはラインハルトだ。
翌朝、各書面を持ってロベルトが各所に手続きに行った。リリアーナは銀行に用意してもらった1億の現ナマを持って再びルドー男爵のタウンハウスに現れた。
「受領のサインをお願いしますわ」
「あ…ああ」
リリアーナに促されてサインをする。簡単にサインをした結果負債を負ったことがあるというのによくサインするもんだとリリアーナは笑顔の裏で思う。が、この書類自体に策はなく、ただの1億円をリリアーナから受け取った旨の確認書だ。
「さて、ルドー男爵。お嬢さんに馬車を手配しますから、レオフィリア家の馬車が来ましたら乗せてくださいませね。それまでにお別れの挨拶をしてくださいな」
「ああ…」
「それと、一つご忠告ですわ。あなたが領地を手放したと知ったら、現金があるだろうとあなたに貸し付けている金貸しが取り立てにやってくるでしょう」
「ああ、そんなことか。それなら問題ない、俺はすぐにでも王都を経つ。実は知人に商売を誘われていてな」
もちろん、そんなのは嘘である。こんな借金まみれの男を商売に誘う人間などいないが、小さな所で意味のない虚勢を張る。ルドー男爵領の現状を知って1億、正確に言えば1億5000万ベアンの価値に見合わないといちゃもんを付けられる前にとんずらしようという腹だ。
「まあ、そうでしたの。余計なお世話を申し上げましたわ。そうですわね、この先々代のルドー男爵が建てたというタウンハウスでしたらジオ商会の借金は簡単にチャラになりますわよ。それどころか少し手直ししたら大儲けするんじゃないかしら?」
昨夜リリアーナの来訪時に門をぶち破ったので「少し」で済むわけはないのだが。
ルドー男爵は「ああ…」と気の入らない返事をして屋敷を見渡した。
大儲けだと?ふざけるな。
金を借りねばならないからヘラヘラしてはいたけど、ルドー男爵はジオ商会のことだって気に入らなかった。利息が膨らみとんでもない金額になっただけで、実際はこの屋敷に見合わない金しか借りていないはずだ。そんなはした金を貸しただけで儲けようなんて許せる話じゃない。
リリアーナが屋敷を去り、馬車の音が遠のくと自分の部屋に控えていたアリスが応接間までやってきた。
「お父様、昨日から一体何を…」
「ああ、これからお前に迎えが来る。今後はそこで世話になれ。いいか、何があっても2度と俺の所に戻ってくるんじゃないぞ、すでに親子の縁は切れているんだからな」
「え…どういうこと…?」
目を見開いて驚くアリスにルドー男爵はロベルトが今朝がたしてきたという手続きの控えを見せた。アリスがルドー男爵家から除籍された旨がきっちり記載されている。
「…うそ…」
「これからのことはレオフィリア家がどうにかしてくれるだろうよ、迎えが来るって言うから荷物をまとめておけ」
この父親は何を言っているんだろうか。男爵家とはいえ貴族の令嬢として育てられた娘が突然除籍され平民となって、一体どうやって生きていくというのだ。レオフィリア家は先日父と因縁をつけに行った家ではないか。そこへ行ってまともに生きていけるはずがない。
「お父様…っ」
「うるせえ!お前はもう娘じゃないんだよ!」
大声を上げて無視をしていたら、諦めたようにアリスは部屋へ引っ込んだ。荷造りをするためである。ルドー男爵は大金を手に入れたことをアリスに知られたら餞別でも寄越せと言われると思い、一言も昨日のことに触れるつもりはなかった。レオフィリア家が面倒を見るならレオフィリア家が金を出せばいい。1ベアンだって出す気はない。
迎えの馬車がやってきてアリスが家を出るという時、ルドー男爵は見送りもしなかった。銀行へ受け取った金を預け入れに行っていたのだ。
のろのろと力なく馬車に乗ったアリスは、あの日のラインハルトを思い出していた。茶番みたいに婚約を結んで自分を見てきた冷たい目。首輪をつけてルドー家を嬲るつもりだったのだろう。きっと今馬車に乗っているのはその続きにあることだ。
「もう、やだなぁ…」
馬車の中には一人しかいないので、思わずそんなことを言ってしまっても咎める人はいない。涙を溢したって怒鳴られない。
「ルイの…お嫁さんになりたかったなぁ…」
そんな日は訪れない。
こっそり交際しているのを借金取りに見つかって利用されてしまった。ルイは関係ないから、自分が働いて返すからと言ってもそんな言葉は通用しなかった。その時初めて借金の額と、すでに家は抵当に入っていると知った。アリスが知った時にはルドー家はすでに終わっていたのだ。
逃げ出すことも戦うこともできなかった。そんな力はなくて、言いなりだった。
でも。
(いつか、ルイに謝りに行こう)
許されるはずがない。だけど、許されなくても謝りたい。何よりルイに一目でも会えたら。
あの時負わされた借金は一生掛けてでも返そう。
アリスがそんなことを考えていると馬車は止まった。御者に扉を開けられて重い足取りで馬車を下りる。見上げたそこには巨大な建物…しかしそれはレオフィリア家のタウンハウスではなく。
「アリスー!」
「…ルイ?」
そこは、いつもルイが出演している王都中央劇場の裏だった。
「よかった無事で。ぼくね、知ってるんだ。アリスがお父さんにどんな目に遭わされてたのか」
「どうして!?」
「あの日レオフィリア家でメイドの恰好をしていたのはぼくさ!」
「どうして!?!?」
「ボクと兄ちゃんがやった悪事がバレてレオフィリア家に謝りに行ったのさ」
「????????」
ルイはこれで全部説明をしたつもりでいたが、アリスには一割も伝わっていない。兄とやった悪事ってなんだ、侯爵家に一体何をしたっていうんだ。それがどうしてメイド服になるんだ。
「それで」
説明は済んだとルイは次に進む。そうだった、こういう人だったなとアリスは思いながら、詳しいことはいつか機会があればお兄さんにでも聞こうと思った。
「アリスを助けられないかなってリリアーナ様に言ったら、自分でできることはやれって言われて。それで、今日アリスを連れてくるから、あとは任せるって」
「え…」
「いきなりお屋敷から放り出されて不安だったろう?大丈夫、しばらくうちで暮らしたらいいよ!母ちゃんもそう言ってるから!仕事も劇場の裏方ならいつでも人手不足だからすぐ紹介できるしさ」
「まって!まってルイ!私はどんな理由があれ、あなたからお金を騙し取ったのよ!あんな大きな借金を負わせて!」
「大丈夫!それなら兄ちゃんが払ったから」
「その考え方は改めた方がいいわ!」
「よかった」
「えぇ?」
一体何がいいのかとアリスは思わず怪訝な顔でルイを見る。
「アリスはボクを騙してやろうって近づいたんじゃなかったんだろ?ボクね、それならもういいんだ」
何がいいのか。大きな借金を背負って身内に返済を頼んでるじゃないか。そんなことしたら家族の仲が壊れたっておかしくない。結果的に借金が無くなったのだとしても、それまでにいらぬ苦労をしたはずだ。どうしてこの人はいつの日も喉元を過ぎれば熱さを忘れるのか。
「よくないわよ…なにも…よく…」
アリスはそれ以上何も言えなかった。泣いてしまったから。
劇場の裏口の階段で座り込み、ルイもアリスが泣き止むまでずっとそこにいた。本当は劇場の仕事があるのだけど平気で放ったらかした。こういう所を周りの人が「固い仕事はできない」と思い役者を勧めたのである。
だけどルイに今一番大事なのはアリスの心に寄り添うことだった。
***
翌日ルドー男爵はそれは見事な高級馬車の前にいた。乗合馬車ではあるのだが、乗り心地もよく軽食まで提供されるという裕福層のための馬車サービスだ。高位貴族であれば自宅に乗り心地のいい馬車があるものだが、平民や下位貴族になるとそんなものを常備するコストを掛けられない。そんなコスト計算が必要な人たちが利用するサービスである。
アリスを迎えに来たあとに、またどういうわけかレオフィリア家の馬車がやってきて、家令がこの高級乗合馬車のチケットを寄越したのだ。
「こちらはレオフィリア家に仕える者たちへの福利厚生のためにまとめて購入してくださっている馬車のチケットです。王都を出られると伺ってリリアーナお嬢様が役立てて欲しいと仰って、届けに来た次第です」
全く気が利くじゃないかとルドー男爵は急いで旅立つ準備をする。トランクの中には多少の着替えと金目のものを詰める。あとは落ち着いた先で購入したらいい。そして真夜中のうちに家から出ると、ルドー男爵は火を放った。見事なタウンハウスに火が広がっていくのを笑いながら闇夜に紛れた。
これでこの家の資産価値は大きく下がる。どの程度で火が消えるか解らないが、火事のあった家など買い手などつくわけがない。立派な屋敷を安値で手に入れたと思っただろうが、ジオ商会は不良債権を抱えるだけだ。ルドー男爵は走りながら笑いが止まらない。
そして夜が明けるまで身を隠し、朝一で出発の馬車に乗り込んだ。レオフィリア家も使っているだけあって係の者のサービスも一流だ。
そうしてまんまとルドー男爵は王都を離れた。この馬車で行ける街の中でなるべく王都から遠く、だけど栄えている街まで行く。たくさんの人間がいる場所ならよそ者が来てもすぐに紛れる。ルドー男爵は馬車の旅の間中、ずっと上機嫌だった。
***
「これで全ての手続きは完了しました」
「ありがとうねロベルト氏、目の下にクマができてるけど大丈夫?」
「もちろんです!しかしリリアーナ嬢、ルドー男爵を追い払うとはいえ1億ベアンも使ってよろしかったんですか?」
業務の完了報告をしにレオフィリア家にやってきたロベルトは興奮状態で今の今まで寝てもいなかったが、出されたお茶にやっと一息つく。ケーキスタンドもしっかり用意されていた。疲労困憊のロベルトだが、しかしその努力の甲斐あり事務所の金の補填は終わったという。
「あれは私にとっても降ってわいたあぶく銭だからね、ぱーっと使ってしまった方がいいんだよ」
「なるほど、ある意味いわく付きの見舞金ですから、そうかもしれませんね」
そうそう、と答えながらリリアーナはケーキスタンドの二段目にあるサンドイッチに手を付けた。
それに、餌も撒いたしね。
口には出さずにひっそりと思う。ルドー男爵に貸し付けているジオ商会は、ルドー男爵が領地を売って姿を消したのはすぐに気づくだろう。しかも抵当に入れた屋敷に火をつけて。ルドー男爵はリリアーナが言った言葉をよくもまあ一言一句逃さずに「やってくれたらいいな」と思ったことをやってくれたと思う。爵位を売るのもしかり、火をつけるのもしかり。
ジオ商会はいまだ取り調べの最中であるし、ルドー男爵を追いかけるかは解らない。しかしせっかく目立つ乗り合い馬車を用立ててあげたので役立ててほしいものだ。よほどのバカじゃなければ後を追うのは容易であろう。
ジオ商会が追跡を諦めたとしても、今度はジオ商会と一緒にやっていた恐喝の容疑で指名手配されるだろう。もし上手くそれらからも逃げおおせても、借金を重ねて返したことのない人間がやることは一つしかない。今ある金を使い尽くしてまた借金をするのだ。下手に大金を持ったおかげで金遣いも荒くなるだろうし、金回りのいい人間から毟ろうという奴はどこにでもいる。不動産や爵位という身を守るものがない状態で借金を重ねれば、返せなくなった時に取られるものは何なのか。
バカってすごい、とリリアーナは思う。
***
「姉上、父上からお褒めの手紙が届いてますよ」
「え?私あの人に何のものまね見せたっけ?」
「心当たりがそれしかないんですか。違いますよ。違法な高利貸しの検挙に協力したこととと、平民の裁判の後ろ盾になったことが新しい形の社会貢献になったとして、父上宛てに国王からの正式な礼状が届いたらしいです」
「あらー」
確かに決裁印が手元にあるからと父の名前で好き勝手使ったので、手を出したあれこれは侯爵の手柄となったのだ。
「この調子でレオフィリア家の汚名をそそげと」
「そんなことは自分でやればいいのにね。ところでおハルくん、領地経営してみない?侯爵を継ぐまでの間は男爵名乗っちゃいなよ」
そう言ってリリアーナがラインハルトに差し出したのは男爵の爵位の認定書だ。所有者は今はレオフィリア侯爵となっているが、リリアーナが購入したものだ。父が取り上げようというなら1億支払った証明書もあるので勝てると思っている。
「ご冗談を。ボクはこの家を継ぐ修行と学園での学習で手一杯ですよ。姉上が爵位と領地を信じられない安値で買い叩いたんじゃないですか、姉上がやってください」
「無理に決まってるじゃん!災害にあった領土だよ?紅茶を飲むことしかできない令嬢に何ができるというの?」
絶対無理!と拒否の姿勢を続けるリリアーナをラインハルトは呆れたように見やる。
「姉上は王城で一体何をされていたんですか。王太子妃教育の中にその手の支援について習う機会があったんじゃないですか?公的な支援に一番詳しいのは姉上のはずですよ。それこそ手続きなんて今回顧問の契約をしたオーベル先生に頼めばすぐでしょう。姉上が適任なはずです」
ラインハルトにそう言われて、リリアーナは田中になる前の記憶を検索する。ある、あるわ知識。めちゃくちゃ詳しいわ。
「すごーい!リリアーナってば優秀!でもでも、今回1億ぱーっと使っちゃってお姉ちゃんはお金が無いのよ」
「来年からドロイア家から慰謝料の支払いが始まるから個人資産についてはご心配なく。それに領地の経営をなぜ姉上の個人資産からやろうとするんですか。ちゃんと予算を割り当てますよ」
公爵家が取り潰しになったことで今ドロイア家はてんやわんやだ。国王から慰謝料10億をリリアーナに支払うよう命令がされたが、支払いが開始されるのは来年から、さらには分割でということになったのだ。
10億とはびっくりしたが、何もなければ王太子妃だった令嬢の命は10億の価値があるのかもしれない。ドロイア家は爵位を剥奪された時に領地もかなり没収されたらしいけど、伯爵領として領地の中で一番栄えている街は残された。その街は前の世界の自治体でいう所の政令指定都市に該当する規模から、きっとドロイア家にとって10億なんてものは一年間節約したら払える金額なのだろうとありがたく受け取れる日を待っている。
どうやらその慰謝料には手を付けずに領地経営をできるらしい。それならば早急に復興の道筋をつけて、やる気と熱意に溢れる人物を見つけ出し、業務を任せるに限る。できれば若い方がいい。その人員を見つけるためにもしっかり学園には通わねば。
学園に通う目的を新たに、リリアーナは明日のランチに思いを馳せた。
***
新たにゲットしてしまった領地のおかげでしばらく忙しくしており郵便物を開ける暇がなく、劇場の会報が届いていたのを見ることができなかったリリアーナは、やっとそれを読もうと無課金ランチの後、香り高い紅茶を飲みながら冊子を開いた。
「おや?」
来週から始まる芝居の演者の一人にアリスと書かれていた。もしかしたら本人なのだろうか。あれだけの美少女だから演技が下手でも舞台に立つだけで映えるであろう。これは来週早速確認に行かねばなるまいと舞台の初日に予定を入れる。
そしてページを捲ってリリアーナは突っ伏した。今日もテーブルを空けて遠巻きにされているが、その様子はこの食堂の皆が注視している。
リリアーナが見ているのは広告ページ。ロベルトは例の広告は引っ下げて、だけどルイの応援のために広告は続けようと内容を変えて掲載することにしたのだ。
『婚約破棄は物語だけ!だめ、絶対、婚約破棄!』
婚約破棄されたと思わしき泣いている令嬢と、その令嬢を置き去りに去り行く男女がデフォルメされた絵で描かれており、その絵の上に大きな×マークが乗っている。
この世界にやってくる前、駅のホームなどでよく見た歩きスマホをやめるように促したり、白線の内側を歩くように訴えたりするポスターのノリである。婚約破棄はそれと同列でいいのだろうか。それにしたってあまりに直球。ロベルトの贖罪の気持ちはよくわかるが、それも含めてリリアーナにはとても面白い。
突っ伏してプルプル震えていると思ったらすっくと立ちあがりリリアーナは不敵に微笑んだ。
(ロベルト氏のセンスはやはり最高だ)
堂々たる態度で食堂から去るため歩き出したリリアーナに、軌道上の人間は皆道を空ける。
悪魔憑きと言われ七十五日は経過したが、二つ名が忘れられる様子はない。
学園の婚約破棄シンドロームは季節の移ろいと共に終わりを告げた。
その時、アリスという女生徒もこの学園から去っていったが、学生たちはそんな生徒がいたことも忘れ去っていくのである。
それはラインハルトルートの訳アリ婚約者であったライバル令嬢が退場してしまったということなのだが、攻略しなかったリリアーナである田中が知る由はない。
END