◇03 剣を手に
◇03 剣を手に
それは、
空へと浮かび、漂い流れる雲のようでもあり、
あるいは水も凍る季節、降り積もった雪のようでもあり、
あるいは不純物を取り除かれ、磨き上げられた銀のようでもあり、
あるいは天文学的な距離を以ってなお届く、恒星の熾烈な光熱波のようでもあり、
あるいは、
物を焼き尽くしたあとに残る、
乾ききった灰の様相でもある色。
白。
つまりは、生命の営みとは縁遠くかけ離れたものだ。
あらゆる生に伴う雑多な要素が、
完膚なきまでに抜け落ちている。
純粋無垢というよりもむしろそれは、
熾烈で過酷な現実を突きつけてくる。
死に、最も近い色だ。
その白は、
うっすらと漂い、
腕に絡まり、
胴を伝って四肢へと伸び、
首を括って頭を覆い、
身体全体へと満遍なく纏わり付き、
刹那の間に皮膚から下へと潜り込むかという様子を見せると、
すべてが分解され、
呑まれて、消えた。。
いや、消えた……?
違う。
消えてなどはいない。
それは重ね合わせられたのだ。
数多に織り成された層の和合。
幾星霜も集め蓄えられた欠片。
すべてがひとつになるため、
そのひとつがすべてとなる。
そのたびに、存在未満の何かが完成へと近付いてゆく。
つまりそこには、
歴史も、感情の揺らぎも、そこに到るまでの背景の重さも無い。
何者かの意思が介在する余地すらない純粋な自然現象のように。
図でも、音でも、言葉でも示すことのできない、それ以前の未分化の概念だ。
形がなく、見る事も、聞く事も、触れる事さえできない。
成立するかどうかも危ういほどの、あまりに小さくて、弱い何か。
未だそれは、世界にとってささやかな揺らぎのひとつに過ぎない。
表現されざるそれは、
時間に磨り潰され、歴史の中だけに押し込められ、
あるいは形骸化し、いずれはその形ですら失うであろうもの。
得体の知れないその『何か』が、自分の中へするりと入り込む。
情報と呼ぶには儚くて、知識と呼ぶには曖昧に過ぎる。
記憶と呼ぶにはあまりに無機的で、それ以上に軽薄だった。
だがそれは今や、間違いようもないひとつの存在。
確固たる存在として、世界から分かたれた。
世界という檻から解き放たれたそれを、
自分は確かに受け取ったのだ。
塗り替えられる世界の形。
あるべき場所にあるべき物が返還される。
たったそれだけで、既存の常識が破壊され、覆される。
知らないうちに自身から抜け落ちていたもの。
それがようやく帰って来た、という実感。
この感覚を何と呼ぶべきか迷い――
ああ、誰かの言葉を借りて、こう言えばいいのかもしれない。
やはり、良く馴染む。
――目を開く。
そして、自分の手の内にあるものを確かめる。
いつの間に目を閉じていたのかは分からない。
剣は思っていたよりも簡単に抜けていたようだ。
自分の事なのに伝聞形になるのも止むなしと思う。
語りが大袈裟になってしまうのも仕方が無い事だ。
抵抗が無かった。
むしろ引き抜いたという感覚すら無かった。
手に収まるまでの僅かな時間、いや、今この瞬間さえも。
軽く握るだけで、構造上の歪みが分かる。
この剣の歪さが存在の欠落から来るものだという確信がある。
形状から予想される重心と実際のそれとが一致しない。
だがその不自然なバランスも、取り回しの妨げには感じない。
おそらく、この剣に欠けていたものこそ自分なのだろう。
そしてまた、自分にはこの剣が欠けていたとも言える。
今や意識せずとも使える、手足の延長のようなものだ。
やはりこれは、馴染んでいるという他に言葉が見つからない。
記憶が戻ったわけではない。当然、まともな使い方すら分からない。
しかし、違和感しか感じないくらいに違和感を感じなかった。
必要性に迫られたことで脳が錯覚してしまっているのかもしれない。
自分には武器の心得どころか、その記憶すら無い。
記憶のどこからどこまでが失われているかも確かめようが無い。
技の鍛錬が神経系の最適化である以上、記憶が失われているのに身体が技を覚えているだとかそういった不思議現象は発生しない。創作物語的な活躍は創作物語の中でしか期待できるものではない。
もっとも、ただ手に馴染む鈍器が手に入ったと考えるなら悪くは無い。
これが刃どころか切っ先も無い剣モドキだということが分かっていても、自分が求めていた要件は十分に満たしているのだ。
要するにデカイ犬を追い払うようなものだろう。
痛みを相手に与えてもいいし、単に威嚇するだけでも構わない。
相手に警戒させたいだけなのだから、棒っ切れを振り回すだけだ。
老若男女を問わず、おおよそ誰にもできることだろう。
刃を立てるとか間合いだとか、習熟や技術が必要な問題が発生しないからだ。
撃退だって簡単ではないかもしれないが、困難と言うほどでも無いはずだ。
しかし、武器の入手を喜ぶ暇もまた無かった。
バケモノの足音が、すぐ背後に聞こえてきたからだ。
ゆっくりし過ぎたか。
慌てて剣モドキを両手で握りなおす。
足音のほうへ振り向いた。
目に映ったのは、飛び掛かってくるバケモノ。
幾重にも、乱雑に並ぶ鋭い突起。おそらく牙だろう。
大きく割れ開かれた胴体。いや全体が顎なのか。
そして、それは既に視界一杯にまで広がっていた。
ッ、近い!
ゆっくりし過ぎたか!?
振りかぶるには間に合わない。
当てる事だけを考える。
先端を相手に向けて、
突きつける!
確かな反動。
同時に、気が付いてしまう。
見積もりが甘かった。甘すぎたことに。
それは、危機感を覚えるには遅すぎた。
それどころか、受け止めるだけでも致命的だった。
突き飛ばしたり、押し返すには手応えがあり過ぎた。
それは小回りの効く動作から推測していた柔軟性とは程遠いものだ。
バケモノは見た目と反して表皮が硬く、そしてとてつもない重量があった。
いや、ちょっと待って、これ、何だ?
重量があり過ぎる。
手応えは、感触は、この重さは、まるで何かの金属塊のような。
むしろ金属塊だとかそういった常識的な物体を遥かに凌ぐ、圧倒的な質量がある。
バケモノの本当の武器は、牙でも走行速度でも無かったのか。
見た目にそぐわない異常な重量を備えた躯体、そのものだった。
質量の大きさは、そのまま運動エネルギーの大きさに比例する。
単純な移動や突進が、そのままこのバケモノの武器なのだ。
これなら確かに、身を守る毒や俊敏さなんてものは必要ない。
重量に加えてこの硬い表皮があれば、単なる肉食獣など脅威にもならない。
敵対したあらゆる存在は物理的暴力だけで蹂躙できるだろう。
思わず納得する。
剣を握る手に力が入る。
そして同時に、理解せざるを得ない。
取り返しの付かない失敗をしたことに気が付いてしまう。
咄嗟の反応とはいえ、こちらは真正面から迎え撃つ体勢だった。
剣と相手が接触した勢いを受けて、既に自分の体勢は崩されかけていた。
受け流して逸らすような機はすでに逸している。
飛び退いて避けるにはあまりに遅すぎた。
どうやっても間に合わない。
だが理解が及んだ瞬間にはもう何もかもが手遅れだ。
思考が加速するのを体感しつつも、身体能力は据え置きのまま。
成る程これが走馬灯というものの正体かなどと考えながら、
重量に圧されて沈みはじめた視界の中で、
ぴしり、という、音とも振動とも付かない軋み。
目は自然と音の発生源を追う。
剣モドキとバケモノが、接触している部分だ。
そこに亀裂が奔る感触を覚えた。
……あ、ダメだコレ。
甲高い破砕音が響く。
手にかかっていた負荷がすり抜けるように、消えて軽くなる。
反動と振幅が手腕を介して伝わり、背筋が震える。
それは接触した点から砕け、はじけるように勢い良く飛び散った。
撒き散らされた破片の幾つかは、そのまま慣性に従って飛翔。
直後には、真正面に位置する自分の全身を衝撃が襲うだろう。
思わず目を瞑る。
目を保護するための反射行動。
だが視界を塞ぐのは愚策でもある。
来るべき死の重圧に備えて全身が硬直してしまう。
違う、避けなければ。
筋肉が萎縮しているのか。
思考と動作が噛み合わない。
分かっていても、どうにもならない。
避けられない。もはや避けようも無い。
構えた程度で受け止められると楽観視できる重量ではない!
圧し掛かられた部分の間接という関節が外れる?
あるいは骨が折れ、皮膚が裂けるか?
いや、その程度では済まない。
真っ平に、圧し潰される――――!
――――と。
圧倒的な質量と、それに伴う重圧。
接触の衝撃。
そういったものが訪れることはなかった。
自分の置かれた状況に疑問符が浮かぶ。
痛みは無い。
感覚が失われているのだろうか。
激痛を感じないという事が、怪我をしていない事と同義とは限らない。
化学物質と電気信号を取り扱う特殊性こそあれ、神経系も細胞の一種だ。
負荷が許容量を越えて強ければ正常に機能せず、本来の役割を果たせなくなる。
神経中枢が大きく損傷すれば、痛覚だってまともに働かなくなるだろう。
瀕死の重傷にも関わらず、神経系が麻痺しているだけという事もありえる。
それどころか、自分はもうとっくに死んでいて、その事実に気が付いていないだけなんていう可能性も捨てきれないのでは?
まあ、死んでいたら何かに気が付くようなこともないか。
それどころか何も考えられないし、何も感じないだろう。
死後の世界。
人の精神が物質から超越した先に辿り着く場所。
そんな概念が、情報が、知識の中からにじみ出てくる。
いや、違う。
精神と呼ばれる概念が持つ働きは肉体に帰属している。
人体に非物質へと情報伝達するような器官は存在しない。
情報を蓄えるのは大脳の役割であり、感情は脳内物質の働きだ。
だから、考えることができているうちは死んでいないはずだ。
矛盾した情報が知識の中に混在している。
だから何なんだ、としか言えない。
現状を把握するために信用の置ける土台が無いのだ。
背景も方向も無い記号は、自分の行動の指標に繋がらない。
知識は、それ単体では何の役にも立たないことだけがよく分かった。
……結局、何が起きたんだ?
指を動かす。
返ってくる感触。偏った重量。
握った手にある硬質な手触りは失われていない。
幻か否かは分からなくとも、触覚は失われていない。
閉じてしまっていた瞼を開く。
強張った全身をほぐすように、ゆっくり動かす。
全身の動きを確かめる。
どうやら問題は無さそうだ。
傷ひとつ無い。皮膚にも、衣類にも。
どこかに痛みを感じるわけでもない。
特に怪我も無さそうだ。
違和感はある、ような気がする。
だが、その正体が分からない。
周辺を見渡す。
誰もいない石造りの町。
不気味な赤黒いパネル。
ああ、なるほど。
違和感の元は、考えるようなものでは無かった。
原因は、自分の身体に由来するものではなかった。
まったく変わり映えの無い剣モドキ。
折れて砕けたかと思っていたのに、傷ひとつ無い。
剣モドキが折れたように感じたが、それは気のせいだった?
足元に散らばった、黒い破片。
おそらくこれが剣の代わりに砕けたのだろう。
いや、その前に。
……これは、何だ?
バケモノは、どこへ行った?
お互いに吹き飛ぶような衝撃では無かった。
重量の関係で動くとすれば自分だが、立ち位置は変わっていない。
今さらあのバケモノが逃げてどこかへ行ったなどということも考えられない。
ただバケモノだけが跡形も無く消えることなんてあるのだろうか。
バケモノの動きは滑らかで、有機的なものだった。
無機的で原始的な機械構造によって実現された動きには見えなかった。
表皮が硬質だったとしても、中身に筋肉や体液が詰まっていないとは思えない。
しかし地面に散らばっているのは、無機的な質感の破片だけに見える。
それも歯車やバネなどの部品すら見当たらない。
頭の中でこの黒い破片をバケモノの残骸と等号で結ぶことが難しい。
しかし残留物の散らばり方は、どうにもその等号が事実であると示している。
バケモノが破裂した結果こうなったと考えるほうが自然な広がり方だった。
まったく意味が分からない。
理解しがたい現実が起きていたということだけは確かだ。
知識による解釈が及ばない。
そもそも慣性は急に消えたりはしない。
空気抵抗による減速だって限度がある。
破片を身体に受けたにしては、衝撃が少なすぎた。
物体が空中で破裂していたのなら尚更だ。
剣モドキで接触した瞬間に感じた、あの超重量はどこへ消えた?
いや、それだけじゃない。
違和感の原因はまだ他にもある。
不可解な点があった。
落ち着いて考えると、バケモノの異常性が明確になってくる。
僅かな時間とは言え体感した、あのバケモノの重量。
今なお手に残るこの痺れが気のせいだという事はありえない。
だが、この感覚が気のせいでなければ、それはそれでおかしい。
なぜあの異常な重量のバケモノが走っても石畳が割れなかったのか?
それに、一体どうやって塀や建物を壊さずに乗り越えていたのか?
疑問に答える声は無い。
それを投げかける相手もいない。
本当に何が起きているのかさっぱり分からないんだけど。
どういうことなんだ。
「……これは、どういうこと……?」
ああ、だからそれは自分のほうが聞きたいくらいなんだけど。
「お前いったい、何者ニャ!?」
いや、だからそれも自分のほうが聞きたいくらいなんだけど。
答えようとして振り返る。
金属製の鋭利な突起物があって……剣?
剣が自分へと向けられていることに気が付く。
当然、そこには剣を持っている人がいて……人?
頭に猫耳を付けた人が鋭い視線を自分に向けていた。
尋問や、場合によっては攻撃すら厭わないと威嚇するかのような形相だ。
……え、いや、ちょっと待って。
いつからそこにいたの?
なんで自分が剣を向けられてるの?
なんでこの人、頭に猫耳つけてるの?
あと、語尾のニャって何?