魔女と来訪者 6(前編)
――それは、幼いころの決め事。
朔月夜。暗闇のような空には、星が煌々と輝いていた。
魔女は開かずの間で皆の寝静まる夜中に独り、薬の開発をしている。
ふと、薬を作る手をとめて窓辺へと視線をやり、暗闇の中に浮かぶ星を眺めた。
ぽつりと呟く。
「わたしは、人間と距離を置かねばならない」
囁くような声音は、どうか眠っているだろう訪問者に聞こえぬよう。
彼女はいつだって警戒していた。
相談や薬の依頼によって、人間の心に立ち入ることを求められるならば、それに従おう。しかし――決して自分の心に足を踏み入れられることのないように。
だから、彼らが”客人”であることを忘れてはならない。
目を閉じれば、忘れてはならない残像が脳裏を駆け巡る。
――その人は、狂っていた。人間を愛した、愚かな、神の血をひく男。
所詮、魔女は魔女、人間は人間なのだ。寿命が遥かに違う。
普通、純血の魔女は一〇〇年をはるかに凌ぐ月日を生きる。それは永久にも等しい。そして、人間の血が混ざった魔女は、両親の血の寿命を足して二で割ったものとなることが多い。
他方、神の力を継ぎ、寿命は人間のもの、という魔女もいるが、その場合は力を使うたびに寿命が縮んでいく。そういった者の存在はごく稀である。
ロザ自身は魔女と人間の血を受け継いでいるため、寿命はおおよそ一五〇年ほどだろう。
きっと、何百年か後には、魔女も純血はいなくなり、人間の寿命と変わらなくなるだろう。けれどそれも、遥か未来の話。
ロザは、もう一度呟いた。
「…心の、距離を」
人間は知らないだろう、魔女たちが人間と距離を置く理由を。
人間を愛した魔女たちが、愛した者の死後、愛執ゆえに何十年も――何百年も狂う姿を。
*** *** ***
「困ったな…」
マーガレットの眠る寝台の隣で独りごちるロザは、眉間に拳をあてて瞑目した。
「姫に、なにかあったのか?」
揺れる心をおし隠すような声でイヴァンは問うと、ロザは首をふった。
「いや、そうではない。その…薬草が、足りなくなったのだ」
ロザは手元の薬草を見つめる。
目覚めないマーガレットに処方しているのは、滋養強壮の薬だ。怪我はもう心配ないのだが、眠ったままでは食事もできないため、栄養のある飲み薬を彼女に飲ませている。
だが、その薬のもととなる薬草がなくなったのだ。
前髪をかき上げ、溜息をつく。
「…すまない。わたしの計算が甘かった」
本当は今日、薬草の採集にいく予定だった。けれど。
ロザは窓から外を眺める。
大雨だった。しかも、必要な薬草は水辺にしか生えていない。もしかしたら、こちらの命が危ないかもしれない。
それでも、自分の失敗であることには変わりはない。――ロザは拳に力をこめた。これは、薬師としての責任と矜持の問題だ。
「フロー、イヴァン、申し訳ないんだが、今から採ってくる。マーガレットを看ていてくれるかな?」
その言葉に、二人は目を見開いた。こんな雨の日に、なにを言っているのだろうか。
踵を返すロザの手を、フローが憮然とした表情で掴んだ。
「…その薬草、水辺の植物だと以前、書物で読んだが。こんな雨の日に行ったら、あなたの命の方が危ない」
フローの鋭い指摘に、ロザは視線をさまよわせる。
「だが…」
「誰かを犠牲にして助かることを、マーガレット姫は望まない。彼女はそういう人だよ」
ロザの言葉を遮ったイヴァンが諭した。
理解はしているものの、納得はできない彼女の気持ちを汲み取り、フローはロザの手を強く握った。
「だったら、私とイヴァンが行こう」
「へ?」
目を丸くするロザに、フローはなおも言う。
「イヴァンは騎士だったから体力がある。私もあなたより体力はある筈だ。だから、姫君の面倒をみるのはあなたが適任だと思う」
イヴァンは苦笑した。――その通りだ。フローはロザの性格を正確に計算して、この言い回しを選んだと察し、後押しする。。
「ロザ、俺も彼の意見に賛成だ。お願いしていいかい?」
「………ああ」
しぶしぶロザが頷くと、フローは名残惜しそうに彼女の手を離した。
*** *** ***
玄関扉をあけ、「行ってきます」と別れを告げる青年二人に、ロザは戸惑いながら俯いた。…言おうか、言うまいか、迷った。けれど、言うことにした。
「いってらっしゃい…ちゃんと、無事に戻ってきてくれ」
人間と距離を置いている魔女。その彼女が、人間に「いってらっしゃい」と言ったのは初めてだ。
イヴァンは「はい」と笑みを浮かべる。
フローは花が揺れるように笑う。
そうして、青年二人は薬草摘みへと、雨の森に向けて歩を進めた。
*** *** ***
ロザは早速、マーガレットの枕元で薬の研究を始めた。
なにかしていないと、薬草を摘みに行った彼らのことをあれやこれやと考えてしまう。
「…困ったな」
本当に、困ったことになった。
それまでロザは、深く他人に関わることなどなかった。それなのに、フローとイヴァン、マーガレットと共に過ごすようになり――彼らを頼ってしまっている。
前髪をくしゃりと握る。…こんなはずでは、なかった。
今回の来訪者も、仕事だけ依頼し、あとは魔女に委ねて終わるものだと、思っていたのだ。
けれど、彼らは違った。マーガレットの世話をするロザの傍にあり、手伝い、支えてくれている。
ロザは顔をゆがめた。
(深く、考えるべきでは、ない)
自分に言いきかせてはみるものの、うまくいかなかった。こんなこと、最近ではめったになかった。
頭をふり、薬草をつぶす手を動かす。拍子に、独特の鼻をつくにおいがした。
そのにおいに、遠い過去を思い出す。
――彼女に薬草の知識を授けてくれた人。たった一人の家族だった。
だが、彼は日に日に狂っていった。
人間に恋をした愚かな魔女。
愛執に蝕まれ、思い出は黒に侵された。
やがて彼が死んだ時、ロザは心のどこかで安堵していた。悲しくて寂しいのに、安堵してしまったのだ。
そうして彼女は、人間と関わらないことを決めたのだ。
ロザは奥歯を噛みしめた。
自分で決めたのに――どうしてこんなにも彼らのことが心配なのだろう。
不安に押しつぶされそうな心を隠そうと、マーガレットの美しい金髪をなでた。
「…マーガレット。君は、どうしてわたしのところに彼らを遣わした?」
ロザは、マーガレットの怪我がただの馬との接触事故だとは思えなかった。
それでも、彼女が事故の原因を探る事はない。割り切らなければ後戻りできなくなる。
事故については、当事者たちが話し合えばいい。自分は怪我の介抱するをするだけだ。
今度はマーガレットの白い頬を軽くひっぱった。
「…――早く、目覚めてくれ、マーガレット」
これ以上深入りしないうちに。そう、心中でつけたすと、薬の研究を再開させた。




