魔女と来訪者 7(後編)
――ずっと、恋をしていた。
出逢ったのは、ずっと昔。まだ幼さの残る少年は、銀鼠の髪をなびかせてこっちを向いた。そして瑠璃色の瞳を細めて笑った。
その一瞬で、少女は恋に落ちたのだ。
「姫」と呼ぶ声も、彼が苦笑するところも、全部好きになった。
だから、彼との縁談は願ってもないことだった。
けれど、彼はそれを拒んだ。
頭が真っ白に、なった。
彼をとめたかった。どうしても、とめたかった。その気持ちがとめられず、気がついたら彼の走らせる馬の前に立っていた。
心のどこかで、自分が死んだら…と考えていたのかもしれない。
(ねぇイヴァン? わたくしが死んだら、あなたは悲しんでくれる? わたくしが死んだら…あなたはわたくしに今度こそ縛られてくれる?)
自分の汚さに自嘲した。目を覚ますのも拒むほど、自分のことを嫌悪した。
彼を縛るしかできないのなら、死んでしまうのもいいかもしれない。そう思う一方で、縛られてほしいと願う。
結局、自分が死んだら、彼だけでなく、彼の一族も困るのだ。――だから、いい加減、起きなければいけない。
そうして、マーガレットは目を開いた。
「…ここは、どこ?」
見慣れない天井に、マーガレットは首をめぐらせた。
「っっ!? まさか、記憶を失っているのか!?」
ロザは一歩後ずさって額に手をあてた。
イヴァンからすべてを聴いたロザたちは、マーガレットの様子を見に来たのだ。
「…なぜそうなる」
ツッコんだフローを、ロザは勢いよく振り返る。
「だ、だって言うではないかっ。記憶を失った人の第一声は『ここはどこ? 私は誰?』と!」
拳を握りながら熱弁する魔女の額を、フローは指で弾いた。
「いたっっ」
「姫君はこの家に来た記憶がないんだから、当たり前だろ」
「あ、そうか」
なにをやってるのかしら…とマーガレットは傍観していたが、彼らの背後にいる青年を見つけて微笑んだ。
「イヴァン、おはよう、でいいかしら?」
つられるように、イヴァンも微笑む。
「朝、というわけじゃないけど、それでいいと思うよ」
イヴァンはマーガレットの寝台まで近づき、彼女の手を握った。
「痛いところは?」
マーガレットは首をふる。
ほっとして口元を緩めた青年の顔に、マーガレットは俯いた。心配かけたのだと、知る。
「心配かけて、ごめんなさい」
涙を浮かべる姫君の頭を、騎士はなでた。マーガレットにとって、それはとても馴染みのあるものだが、妹扱いであることも知らしめられる。ほろ苦く笑う。
(やっぱり、どうしたってこの位置から抜け出せないのね)
余計に涙が溢れた。
「イヴァン、なにを泣かせているんだ」
呆れた女性の声に、イヴァンは振り返る。
「ロザ。ありがとう、目が覚めたみたいだ」
「それは見ればわかる」
それもそうだね、と騎士は笑った。
その表情に、マーガレットは目を瞠る。もう、自分の手の届かない場所に行ってしまったのだと思った。そして、それは自分が仕向けてしまったのだ。もう、どうしようもない。
それでも、まだ彼を好きな自分は諦めが悪すぎるのだろうか。
そこへ、フローがイヴァンとロザの間に割って入った。
マーガレットは目を瞬かせた後、困ったように笑った。フローとイヴァンとロザの関係が、一瞬にしてわかってしまった。
フローはマーガレットを見下ろす。
「なにかしら?」
少女が促すと、青年は温度のない声で言った。
「イヴァンは私がもらう」
「………は?」
ぽかん、としたのはマーガレットを含めた三名。つまりはフローを除いた全名だった。
「そそそそれはなにを言っているんだ。こ、この国で同性婚は…。はっ! 君は貴族っぽいが、国の法を変えてでもってことか!?」
ロザが混乱で話をあらぬ方向へ持っていく。イヴァンはこめかみを揉んだ。
「ロザ、落ち着いて。そうじゃないと思うよ。…違う、よね?」
少しずつ戸惑う口調に、マーガレットは肩を震わせた。
客観的に見れば、三人の相関図など一目瞭然なのだ。
そして、少しだけ寂しく思った。その相関図に自分は含まれていない気がした。イヴァンの自分が知っているよりも砕けた空気が、立入る隙がないことを物語っている。
呆れた顔で馴染みの二人を見つめるフローは首を横にふった。
「イヴァンを騎士として私が雇うと言っているんだ」
そこまで言うと、フローはイヴァンを真正面から吟味するように見据えた。
「異論はあるか?」
イヴァンが息を呑んだ。フローは彼が仕えていたマーガレットの実家を知っているはずだ。彼女の実家は伯爵家。その家の決定に逆らうには、それ以上の地位と権力が必要となる。
マーガレットは、艶然と笑みを浮かべた。
「あなたが誰なのか、尋ねてもよろしくて? わたくしの家格よりも上ならば、従わざるを得ませんわ」
挑発するような声音だった。
もし…とマーガレットは思う。
もしイヴァンがマーガレットからも、家のしがらみからも抜け出す術があるのなら、それを認めてもいいかもしれない。自分が彼をここに導いてしまったのだ。彼を傷つけてきた対価だというのなら、一度だけ、彼の自由に賭けてみてもいい。
フローは傲慢に笑った。まるで、国一の権力者のような笑み。思わず跪いてしまいそうになる。
「私の名前を言ってなかったな。フローレンス・ヴィンセントだ」
刹那、イヴァンとマーガレットは言葉を失った。
ヴィンセント。その姓は王家のもの。
記憶の中のフローレンスという名を思い起こせば、それは現王の弟――王弟殿下のものだと気づく。
――彼は。
跪こうとした騎士に、フローは手で制した。
「必要ない。今はちょっと遊学中で身分が中途半端だからな。まぁ公爵の身分は約束されているから、側近がほしい」
そこまで聞いて、それまで無反応だったロザがやっと驚愕した。
「こ、こここ公爵!?」
反応の遅さにフローは天使の笑みを浮かべた。
「反応が遅く感じるのですが」
マーガレットは思わずツッコむ。ロザは急に四つん這いになり、眉間をつまんだ。
(~~なんてことだ)
一人嘆いている姿に、イヴァンは顔を窺い見る。
「ロ、ロザ? 体調でも悪いのかい?」
ロザは首を横にふる。そうではないのだ。
人差し指をフローに向けた。
「こ、これが公爵だなんて…領民が憐れすぎる」
それまで、よく働くのは主にイヴァンだったのだ。書物を読んだりする姿は見かけたものの、働く姿は収穫の時くらいだ。
指を向けられた王弟殿下は、おもむろに腕を組んだ。
「問題ない。私の奥方になる人が手伝ってくれるだろうからな」
否定しないことをツッコむべきだろうかと、イヴァンは口端を引き攣らせる。将来の彼の奥方に合掌した。
「そもそも…フローレンス様のことをご存知ないのですか?」
素朴な疑問をマーガレットは訊く。彼は時の人なのだ。以前、とても話題になった。貴族の間で知らないものなど誰一人いないだろう。そんな人物なのだ。
しかし、ロザは「当たり前だ」と言わんばかりに頷いた。
「わたしは魔女だ。人間に極力関わってこなかった」
今回は前代未聞なのだ。
「魔女…。本当にいたのね…」
マーガレットはロザを凝視した。
ふと気がつけば、笑ってしまっていた。もう、仕方がないとしか思えなかった。不思議な魔女に心奪われた愛しい男。唯一縛り付けることのできる権力は、自分より遥かにに身分の高い男の前ではないに等しい。
大きな溜息を一つつく。もう、終わりにしよう。
「フローレンス様、わかりました。イヴァンはお譲りしますわ」
笑った姫君の顔は、どこか清清しいものだった。