(前篇)
「叔父様、一夜だけでいいの。わたくしを愛して」
「リーズフィナ.....」
寒々とした月の光に照らされて、リーズフィナはシャイマスに向かい合った。
親友のシルバー・フロンタール侯爵家の晩餐に招待され、二人でワインを嗜んだ後、酔い覚ましに侯爵邸の庭園に出た。
季節は夏の初め。少し湿気を含んだ風がワインに火照った体を冷やしてくれる。辺り一面に香立つ香りは、シルバーの妻のフランシスが好きだったバラの香りだ。
バラの香りに身を任せ香を愛でていると、ふと後ろに人の気配を感じた。
「リーズフィナ」
シルバーの一人娘のリーズフィナがそこに立っていた。お付きの侍女の姿がない。年頃の令嬢が幾ら自邸の庭園とはいえ、こんな夜半に一人で散策するなど、シルバーは一体どんな教育をしているのかと溜息をついた。
「幾ら自邸とはいえ、独りでなど駄目だろう、リーズフィナ」
「叔父様ったら。父上様から叔父様がいると聞いてお邪魔したのです。何を不安に思う者ものがありますでしょうか」
「いやしかしだな。年頃の淑女なのだから、用心する事に越したことはないのだよ?」
「はいはい、わかりました」
「はいは、一度と習わなかったのかな?」
「はーい」
「........」
のらりくらりと躱すリーズフィナに、シャイマスは年頃の娘を持ったシルバーに今度上手いと国内で評判のワインを是非飲ませてやりたいと心から思った。
なんだかんだ言いながら、リーズフィナをエスコートして庭園を廻る。今宵は満月。場所場所に灯篭はあるものの、月夜が明るく二人を照らしていた。
「リーズフィナも18歳になるのか。あんなに小さなオチビさんがもう成人になるんだな」
感慨深げにつぶやくシャイマスに、リーズフィナは苦笑する。
「一体いつのお話をされているのですか?流石によちよち歩きの頃の事をおっしゃっているのではないですわよね?」
「勿論。あれは6歳の頃だったか。叔父様のお嫁様になると言って私の足に縋って離れないと泣き叫んでいたリーズフィナと、その姿を見てこの世の絶望を見たかのように地に両手をついて項垂れていたシルバーを笑いながら宥めていてフランシスの姿が、昨日の様に想い出されるよ」
くくくと笑うシャイマスに、リーズフィナは困った様に微笑む。
「覚えておりますわ。あれから暫らくシャイマス様にはお会いできませんでしたものね。父上様がかなりお怒りになって。母上様が子供の言う事だからと宥めても、父上様の機嫌がなかなか直らず」
「そうだったな。そうこうしている内に、フランシスの病気が発覚して......」
リーズフィナの母のフランシスは、リーズフィナが7歳の頃に病であちらの地に渡った。それからは、廻りが再婚を勧めるのを一切蹴散らして、シルバーは一人リーズフィナを男手ひとつで育てた。男手ひとつとはいえ、貴族なので侍女や侍男の達の手を借りてではあったが。親友のシルバーの手助けになりたいと、シャイマスも出来る範囲でシルバーへ協力した。リーズフィナが成人するまではと、シャイマスは結婚する事もなく、ずっと親子の傍らにいたのだった。
ふと、足を止めるリーズフィナに、シャイマスが後ろを振り返る。
「リーズフィナどうしたのだ?」
頭を垂れ立ち尽くすリーズフィナの姿に、シャイマスは驚いて歩み寄る。
その瞬間、リーズフィナは頭を挙げて、シャイマスに向かい合った。
「叔父様、一夜だけでいいの。わたくしを愛して」
「リーズフィナ.....」
「お願い、叔父様」
リーズフィナは、突然の事に呆然として立ち尽くすシャイマスの胸に縋り付く。リーズフィナの華奢な体を離そうとするものの、その体のあまりの細さにシャイマスは戸惑った。
「……リーズフィナ。君は私の大事な娘みたいなものなのだよ?小さな頃からずっとシルバーと共に成長を見てきた。そんな君を一夜だけの慰み者としろと?」
自分に縋り付くリーズフィナのぬくもりを感じつつ、シャイマスは声を荒げることなく、淡々とリーズフィナを諭すように声をかける。
「叔父様、お願い…」
シャイマスの胸に顔をうずめたまま、リーズフィナが懇願する。
「......フランシスに誓ったんだ。君の分までリーズフィナを幸せにすると。その誓いを破る訳にはいかない」
「お願いよ、叔父様......」
「駄目だ。私には、今は亡きフランシスとシルバーの、二人の親友の想いを裏切る事は出来ない。」
両目を強く閉じ、天を仰ぐ。幼き頃よりずっと見守ってきたリーズフィナ。いつの頃からだったろうか。リーズフィナを見つめる目に淀んだ熱がこもる様になったのは。何の思惑もなく純粋にシャイマスを見つめるリーズフィナのエメラルドの瞳に、絡め捕らわれてしまったのは。
「叔父様、わたくしは叔父様以外の男性を愛する事なんて出来ないわ。どうしてわかって下さらないの」
シャイマスの胸に伏せていた顔を上げ、唇を震わせて、潤んだ目で見つめるリーズフィナ。
(駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ)
頭の中で一つの言葉がリフレインする。大事な親友と大切な親友。幼き頃から3人で過ごしてきた日々。ある日を境に、愛する二人とそれを見守る一人に別れ。伝える事が叶わなかった想いを抱いたまま、ずっと見守ってきた。大切な親友が残した愛し子。愛する人を失った親友が、どれだけ愛して、どれだけ大切に育んできたか。傍らでずっと見守ってきた。それなのに、リーズフィナのエメラルドの瞳に魅入られた己の身体は、伸ばされた指先が、リーズフィナの目元をそっと拭う。
指先で零れ落ちた涙の雫を掬う。その一滴が堰を切った様に、次々とリーズフィナの両目からポロポロと涙が零れ落ちた。
「リーズフィナ.....」
目の前で涙にくれているリーズフィナ。身を震わせ泣き続ける姿に、シャイマスは腕の中の閉じ込めてしまいたい衝動にかられた。愛おしくて、護りたい大切な存在。だからこそ、自分が手を伸ばす事は許されない。自分の淀んだ想いで、純粋なリーズフィナを汚してはならない。
「リーズフィナ。淑女はそんな風に無防備に泣く姿を見せてはならないよ」
「叔父様....。わたくし、淑女なんかではありません。はしたないと言われても、叔父様の事が..「それ以上言ってはいけない」
シャイマスがリーズフィナに一言鋭く告げる。
「お願いだ、リーズフィナ。君にはもっと見目麗しく将来有望な若者が似合う。18も年上のくたびれた私なぞ、リーズフィナの隣に並び立つのも烏滸がましい」
「そ、そんな事はありません。叔父様は宰相府でご立派にお仕事をされているではありませんか?くたびれたなど..。どれだけ王宮の侍女や未婚の令嬢方々からの熱い視線を集めていらっしゃるかお分かりのはずです。この間だって、隣国の王女様の王配にと望まれたとお聴きしておりますもの。だから、だからわたくし、叔父様が遠くに行ってしまわれる前にせめて、せめて一夜だけでも叔父様の腕に抱かれたいと。お願いです、叔父様。わたくしを愛おしく思う気持ちが少しでもおありなら、一度だけでもわたくしを愛してくださいませ」
「リーズフィナ....。駄目だ。私も聞いているよ?アムロン第一王子から婚約者にと望まれていると。リーズフィナは侯爵家の跡取だからと、シルバーが諾と言わぬので困っているとね。アムロン様は良い青年だよ。教養も剣の腕も人柄も、誰もが認めるお方だ。時期王妃となると色々と大変だろうけど、だが、リーズフィナならきっと大丈夫だ
。フロンタール家の跡取は、親類筋からどうとでもなるのだから。シルバーもきっと分ってくれるさ」
シャイマスの言葉を聞きたくないと、フルフルと首を振るリーズフィナ。零れ落ちる涙が頬を伝う。
「リーズフィナ、私も君の事を大切に思っている。だからこそ、我が身を大事にして欲しい」
「叔父様はどうしても、わたくしを愛してはくださらないのですか?」
唇を震わせ小さく問いかけるリーズフィナに、シャイマスは一瞬身体をこわばらせたが、リーズフィナを見つめたまま黙って頷いた。