第8章
その日から光彦とりんの同棲生活が始まった。
といっても、身体の関係はない。りんもあの日以来抱いてくれとは二度と言わなかった。
家事はすべてりんがしてくれたので、彼の生活はずいぶんと楽で快適なものになった。
炊事、掃除、洗濯だけでなく、朝の見送りに夜の出迎え、風呂で背中を流したり、服の用意をしたりなど、りんは細々と世話を焼いた。
光彦はまるで新婚のようだと思った。いや、新婚でも奥さんからこれだけ献身的な世話をされることは滅多にないに違いない。
りんは光彦が会社に行っている間の短時間だけ働いているようだった。
朝は彼が着替えるのを手伝い、玄関で満面の笑みを作って手を振って見送る。
夜、帰宅すると、玄関まで来て、「お帰りなさい。お仕事ご苦労様です」と労って、服を脱ぐのを手伝う。
ズボンや靴下を履かされたり、脱がされたりしたのは、彼にとって人生で初めての経験だった。
暑い時期なので、光彦は半袖のワイシャツで出掛ける。バス停まで歩いてゆき、バスに乗って会社に着くと、作業着に着替える。そのためネクタイはしない。それをりんは残念がった。ネクタイを締めるのを手伝いたかったそうだ。
土日の休日の日には、光彦は目覚めてもしばらくふとんの中でぐだぐだしているのが好きだったので、彼が起きるのは9時を過ぎてのことだったが、りんは心得ていて、その時刻になると、ジュースとフルーツの軽い食事の準備をしてくれていた。
りんは食費や宿泊費を出すと言ったが、光彦はもちろん拒否した。
家事労働を賃金換算すると月20万から30万になると聞いたことがある。それだけのことをしてくれているのでお金はもらえない、と言うと、
「奥さんの仕事って、そんなになるのね」
りんは感心したように言い、
「私、それだけの価値のあることをしていますか?」と訊いた。
「もちろんだよ。もっと価値のあることをしているよ」
そう言うと、褒められた幼な子のように誇らしげな顔になり、微笑みながら頷いた。
休みの日の昼さがりにはいつも近所のスーパーマーケットに買い物に行った。その時、りんはいつも腕を組もうとしてきた。会社の誰に見られるか分からない。並んで歩いているだけなら、親戚の子だとかの言い訳が出来るが、腕を組んで歩いている姿を見られたら、そんな言い訳など通用しない。
光彦は慌てて、腕を振り解こうとすると、りんは悪戯っ子のような笑みを浮かべて、何度も腕を絡ませようとしてきた。
アパートの近くに小さな公園がある。買い物帰りにはそこに立ち寄り、休憩することが習慣になっていた。
ある日の午後、ベンチに並んで座って、スーパーで買ったペットボトルのお茶を飲みながら、子供達が遊んでいるのをぼうっと見ていた。
「私、いつも慌ただしく、転々と住む場所を変えてきたけど、こういう風に一箇所に留まって、ゆっくりと時を過ごすのもいいですね」
りんは空を見上げ、大きく伸びをした。
「ああ、気持ちいい」
それから、突然顔を近づけて、キスをしようとしてきた。慌てて顔を背ける光彦を、鼻に皺を寄せて目を細めて笑った。
白昼、周囲に人がいる時に、キスをしたことなど、これまでの人生で一度もなかった。
りんはどうも自分が動揺して、慌てふためく様子を見るのを楽しんでいるように思える。
しかし、嫌がる素振りをしながらも心の中にはニヤついている自分がいることに彼は気づいていた。まるで若いカップルのようにいちゃつかれるのはとても嬉しいことで、そんな悪戯をして喜んでいる彼女の茶目っ気のあるところが可愛いらしくもあり、愛しくもあった。
また、ある日のスーパーからの帰路、並んで歩いていたりんが突然駆け出した。
訝しく思いながら、前を見ると、車椅子の人のタイヤが歩道の窪みに嵌って、動けなくなっていた。りんは車椅子を押して、窪みから出した。そして、お礼を言う車椅子の人に、軽く会釈して、何事もなかったかのように光彦の方に戻って来た。
自分は気付きもしなかった。また、気付いても、すぐに行動に移せただろうか?余計なお節介ではないかと躊躇して、たぶん出来なかっただろう。
りんの心の思うままに即座に行動出来るところに光彦は感心し、またそういうことが出来ることを羨ましくさえ思った。




