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蝶が舞う  作者: 御通由人
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第31章

「ずいぶんお待たせしましたか?」

光彦は思わず立ち上がった。振り向くと、りんがいた。

 

 彼女は小さな笑みを浮かべて軽く会釈した。以前より少し痩せて、白いシャツにベージュのロングスカートという地味な服装のせいか、長い黒髪のせいか、大人の女性の穏やかな雰囲気に変わっていた。

「来てくれたんだ」

「だいぶ前からいらしてたのですか?」

「あ、うん。ちょっと前から」

「鈴木さん、時間を言ってくれなかったので、何時に来たらいいのか分かりませんでした。休みの日はベッドでごろごろするのが好きで、いつも起きるのは9時半くらいだったし、それから食事を済まして、用意したら、10時半くらいかなと思って。10時過ぎに来て待ったらいいかなと思って、今来ました」


  そうだった。りんと一緒に暮らしていた頃は休みの日は大体9時半くらいまで、ベッド中でぐずぐずしていたことを思い出した。

「よく覚えているね」

「もちろんです。忘れるはずありません」

「今日はよく来てくれました。感謝しています」

 りんははにかんだように微笑んだ。光彦は隣に座るように促し、彼女はベンチに腰を降ろした。


「お久しぶりです」

「うん、久しぶり。もう七年にもなるよ。いつ関東に戻って来たの?」

「去年です。実は私、今、栄養士の資格を取るための専門学校に通っているのです。あれから、風俗で東海道、山陽を九州、沖縄まで行き、それから戻って四国を回り、神戸まで日本一周しました。さすがに高知はスルーしたけど」

 そう言って、照れ笑いを浮かべた。

「その後は神戸に住んで、昼間と土日は飲食店で働きながら、定時制高校を卒業して、去年の春に今の専門学校に入りました。あと、タトゥーもすべて消してしまいました」

「そうなんだ。別れる前に言っていたことを着実に実行に移してるんだな。立派だな」

「いえいえ、まだまだです。ただの学生なので」


 光彦は一番気になっていたことを思い切って口に出した。

「で、恋人はいないの?」

「そんなのいません」

「今の専門学校は女の生徒だけなの?」

「女子が多いけど、男子生徒もいます」

「男から付き合ってくれとか言われない?」

「そんなのないですよ。若い女の子がいっぱいいるのに、私みたいなおばちゃんには誰も目もくれません」

 彼は安堵した。心が踊った。

「いや、君は相変わらず綺麗だよ。むしろ以前はなんか表情に険しいところがあったけど、今はそれがなく、落ち着いた女性の雰囲気に変わって、以前より綺麗になったと思う」 

「そんなことないですよ。ずいぶん歳とって、頬っぺたなんか、こんなに弛んでいます」

笑いながら、頬の肉を指でつまんで、引っ張って見せた。

 光彦は思わず笑った。こんなに心が弾む気分になるのは久しぶりのことだ。りんと一緒に暮らしていた時以来だと思った。


「鈴木さんこそ、あの頃と全然変わっていないですね。口がお上手になったのは、彼女さんの影響ですか?」

「彼女って。そんな人はいないよ」

「昨日、奥様と別れたと言っていたでしょ。再婚したとか、新しい彼女とかいないのですか?」

「そんなのいないよ」

「ずっと一人だったのですか?」

「もちろん。今もあのアパートに住んで、あの頃と同じ生活のままだよ。年功序列で係長にはしてもらったけど、離婚の時に家や貯金は全部家内に渡したので、すっからかんだよ」

「そうなのですね。再婚する気はないのですか?」

「うん、一人の人以外は。その人のことを毎日思いながら、その人が来るのをずっと待っている」

「あ、そんな人がいるのですね。……その人とは別れたのですか?」

「うん。別れた。ひどいことを言ってしまって」

「そうですか」

「戻って来るのをずっとずっと、もう七年も待っている」

 りんは目を見開いた。

「それって、もしかして、私のことですか?」

「そう、君が会いに来てくれるのをずっとずっと待っていた」

「もし、昨夜会わなければ、それに私が来なければ、どうしたのですか?」

「家内と別れたのはケジメをつけたかったので、君とは関係ない。最後に会った時、僕が店に行った時のことを覚えているかい?」

「もちろんです。忘れるはずありません」

「あの時ひどいことを言ってしまった。あと、君がアパートから出る前の夜も……。それで、その償いの意味でも十年でも二十年でも待っていようと思っていた。

 それに、もし奥さんと手を繋いで歩けなければ、私が歩いてあげますと、最後にくれた手紙に書いていたじゃない。それを信じて、きっといつか会いに来てくれると思ってずっと待っていた。たとえ今日会えなくても、今後もずっと待っていたと思う」

「私こそ鈴木さんに物を投げたり追い返したりしてひどいことをしました。あの後、部屋で泣いていました。もう鈴木さんと会うことは二度とないだろうと思って。……しかし、年が明け、春になった時、時が色々な感情を全て洗い流してくれる、いつか私がおばあちゃんになった時、一緒に暮した時のことを楽しい思い出として鈴木さんと共有できる日が来るかなと思い、あんなことを書いたのです」

「そうなんだ」

光彦は彼女が最後に手紙をくれた翌日に、ちょうどこの公園のこのベンチに座って、自分も全く同じことを考えていたことを思い出した。自分がりんにこれほど惹かれるのは、彼女と物の見方、感じ方考え方が似ているせいなのかと思った。


「実を言うと私、去年入学する前に、鈴木さんのアパートにこっそり行ってみたのです。もしかしたらもう住んでいないかと思ったのですが、鈴木という表札があって、ああ今も住んでいるのだなって、嬉しかったし、安心しました。でも、会う気はなかったです。

 私、鈴木さんの家を出た時に、携帯を変えて、鈴木さんの電話番号もメアドもLINEもすべて消去しました。

 それは私はいつも不幸で悲惨で過酷な状況にいなければいけないと思い知ったからです。これ以上、鈴木さんに甘えて頼って、生暖かくて心地よい生活をしていたら、バチが当たり、私だけでなく鈴木さんも苦しめることになると悟ったからです。

 でも、鈴木さんのこと、鈴木さんと過ごし日々のことを忘れたことはなかったです。

 それで東京の専門学校にしたのも鈴木さんの近くに居たかったためだし、今の街に住んだのも、前に一度、あの街にあるフレンチレストランにランチを食べに行ったじゃないですか。それで、もしかしたら、また会えるかもという気持ちもあったのです」

 

 有名な格安フレンチ店の支店がその街にあったので、以前一緒にランチを食べに行ったことを彼は思い出した。東京に行く時は、いつも私鉄であの街に行き、そこからJRに乗り換える。一緒に東京の美術館に行った時もそのルートだった。

 天文学的な確率の奇跡的な再会だと思ったけど、なるほどほんの僅かだが会う可能性はあったわけかと納得した。

「ああ、行ったね。よく覚えているね。でも、それならどうして昨夜は逃げたんだ?」

「やはりまだ会う心の準備が出来ていなかったのです。鈴木さんが奥さんと仲良くやって幸せな生活をしていたら、私みたいな闖入者が突然現れても迷惑をかけるだけなので。……それなのに、昨日は思いがけなく会ってしまって。びっくりしました。それで思わず逃げたのだと思います」

「それなら、離婚したと言った時に待ってくれたら良かったのに」

「離婚したと聞いた時は凄くびっくりしました。でも、やはり勇気がなかったのです。……本当はなぜ逃げたのか自分でもよくわからないです。ごめんなさい」

りんは深々と頭を下げた。

「学校を卒業して、栄養士の資格を取って、きちんと勤め始めたら、いずれはこの町か隣町に住むつもりだったのです。鈴木さんに会いに行くつもりはなかったのですが、偶然会うのなら、それは神様が会ってもいいんだよと許してくれたことだと思って。

 しかし、昨夜家に帰ってから考えたのです。いつかまた会えると思ったけど、こんな奇跡のような偶然を逃したら、バチが当たって、もう二度と会えないかもしれない。そう思い直して、今日来ました。逃げてごめんなさい」

 りんはもう一度頭を下げた。

 彼女がそんな風に思っていてくれたとは、思いも寄らなかった。

「ううん。今日来てくれただけでもとてもうれしいよ」

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