第1章
野良犬ならぬ野良娘を拾ったのは、盆の終わりの夜のことだった。
その日、光彦は単身赴任先の市に戻るために新横浜駅からJRに乗り換えた。
席に座り、一息つき、少し寝ようと目を瞑った。が、しばらくして何か右肩に触れるものを感じて、目を開けた。
右側に座っている若い女がうとうとしているようで、頭をゆっくりと傾けて、光彦の肩に微かに触れそうになると、慌てて戻し、戻してはまたゆっくりと傾けてきた。
しばらくして女は寝入ったのか彼の肩に頭を乗せた。
オヤジなら跳ね除けるのだが、若い女性が体を寄せてくるのは悪い気はしない。明るいショートの茶髪をしていて、ローズの甘美な香りが微かに漂っている。柔らかな感触を右肩に感じながら、そのまま寝させておこうと思い、光彦はもう一度目を閉じた。
電車がぐらりと揺れ、女は突然弾かれたように身体を起こした。光彦もつられて目を開けると、女は二度三度頭を振り、それから気がついたように彼の方を見た。
「すみません。私、凭れていたのですね。ごめんなさい」
「いや、大丈夫」
「ほんと、ごめんなさい」
頬を少し赤らめて言う。
光彦は微笑んで、軽く手を上げると、また目を閉じた。
電車は最寄りの駅の近くにまで来ていた。
右を見ると、女は起きていて、スマホを見ていた。光彦が目を開けたのを感じたのか、彼の方を向くと、
「よかったら、いかがですか?」
とキャンディの包みを差し出した。
「お礼です。大したお礼ではないですが」
「ありがとう」
断るのも悪いので、受け取って、頬張る。
「こちらこそ、大したことはしていないのに」
女は口角を上げて、嬉しそうに笑った。化粧は薄く、大きな目と少し鉤形をした高い鼻をした端正な顔立ちだった。
駅に着くと、光彦に続いて女も降り、軽く会釈をして、小走りで追い抜いていった。
光彦がホームから改札口への階段を降りていた時、改札を抜けて駅構内を歩いている彼女に気づいた。休日で午後9時を回っていたためか人影はまばらで、構内の白い光に照らされた彼女の姿が明瞭に見えた。右手にボストンバッグを持ち、左手に持ったスマホを見ては、顔を上げて案内板を見回し、何か思案しているような様子でゆっくりと歩いている。……そして、ふと立ち止まった。
と、その時、女のすぐ後ろを歩いていた角刈りの胡麻塩頭をした背の低い男が止まらずにそのまま彼女にぶつかった。
「キャッ」
女は小さく悲鳴を上げた。
「いたあ」
男はそう言い、一瞬間を置いてから、大声で怒鳴り始めた。
「キャアはないやろ。キャアは。突然止まりやがって。他になんか言うことあるやろ。どうなんや」
女はビクッと身を竦め、恐る恐る振り返り、男と向かい合った。彼女の方がだいぶ背が高い。一瞬当惑したようだったが、すぐに状況を把握したのだろう、男を睨みつけて言い返した。
「あんたこそ、きちんと前向いて歩いてたら、ぶつからんかったのに」
「なんや、お前、その言い草は。反省せんか」
「反省することなんか何もないわよ」
「なんやお前、やろういうんかい。いてこましたろか?」
女に怯む様子はなかった。
「上等やない。やってやろうじゃない」
光彦は近づいて、間に入った。
「どうしたのですか?」
男は初老で、背が低く、赤ら顔で、その顔には殴られて出来たような痣がいくつもあった。酒の匂いがする。酔っ払っては誰彼なく喧嘩を吹っかけては殴られているのだろうと、すぐに見当がついた。
「こいつが急に止まるもんやからぶつかったんや。それなのに、キャアとしか言わん。他になんか言うことがあるんとちゃうんかい」
「ああ、そうなんですか」
光彦は頭を下げた。
「その通りですね。申し訳ありませんでした」
男は気勢が削がれたように、目を丸くした。
「……う、うん。……最初っから、そう言うたら、許したってもええんや」
口を尖らして、男を睨みつけていた女が何か言おうとした。
「さあ、行こう」
光彦は男に向かってもう一度頭を下げ、まだ何か言いたげな女の腕を強引に引っ張って、その場を離れた。
駅を出て、タクシー乗り場の近くに来た時、光彦は彼女の腕を離した。
「もう、余計なことしなくていいのに。あんな弱っちいおっさんなんか、やっつけられたのに」
女は拳を前に突き出し、足で空を蹴る格好をした。光彦はそんな女を苦笑して見ながら、「うん、多分そうだろう」と言った。
「そしたら、なぜ止めたの?」
彼女は意外そうに大きな目を向けた。
「しかし、喧嘩になったら、駅員が来たり、警察が来たりして、大変だろ?」
「そりゃあ、そうだけど……。でも、謝るのは悔しいわ」
「君も急に立ち止まったのが悪いから、謝ってもいいじゃない。頭を下げたって、何も損するわけじゃないし」
「ふーん、大人だね」
光彦はまた苦笑した。四十半ばなのに、大人って、当たり前だろ。
「じゃあ」
そう言って、手を上げ、タクシー乗り場の方に歩いて行こうとすると、女も小走りでついて来た。
「私も乗るの」
タクシー待ちの列の光彦の後ろに並び、そして、ぽつんと呟いた。
「ありがとうございました。……ほんと警察が来て、交番に連れて行かれて事情聴取とかされて色々聞かれたら、大変だったかもしれない」
光彦には女の言っている意味がよく分からなかった。
この子は一体何を言ってるのだろうか?
しかし、自分には関係のないことだ。今からアパートに戻り風呂に入って、ビールを飲み、それから寝る。明日は部屋の掃除をして、買い物に行き、夜はゆっくりして明後日からの出勤に備えて英気を蓄えるか。
「今から、家に帰るのですか?」
「ああ、家と言っても誰もいなくて、一人だけどね」
家に帰ってからのことを考えていたためか、そんな言葉が考えなく口をついた。
「結婚はされていないのですか?」
「いや、してるよ。家内と娘が名古屋にいるよ。単身赴任で、こっちでは一人で暮らしている」
「寂しくないですか?」
「いや、別に。もう10年くらいになるから慣れたかな。逆に誰もいない方が気が楽でいい。うるさく言われないしね」
「ふーん、そういうものなんですね」
順番が来て、光彦はタクシーに乗った。驚いたことに女も続いて乗り込んで来た。
「お、おい、何をしてるの?」
光彦は狼狽えながら、尋ねる。
「ごめん。タクシー代が勿体ないから相乗りさせて。お願い」
そう言って、顔の前で手を合わせる。
「〇〇町だけど、いいのかい?」
「えー、そうなんですか!超ラッキー!すごい偶然です。私も〇〇町へ行くんです」
運転手が行き先を言えと促すかのように、振り返る。
「〇〇町へ」
仕方なく、光彦は言った。