止まらない
くしゅん、とまたしても出たくしゃみが、朝帰って来た時にくらべて幾分音が小さく、ようやく快方にむかっているような気がして、梨乃はふと油断した折からたちまちムズムズしだしたと思うと威勢よく鼻が鳴り、あわてて押さえた手を洗っているうちどうもただの風邪にしてはくしゃみがひっきりなしで辛いし、ずっと水っぽいのもおかしいと訝りながら、拭いた手でそのまま目をこすろうとしてそれを見つめた。
目もかゆいような気がするものの花粉症知らずの身なので、それじゃあ鼻炎だろうかとふと心づいてみると、これまで二年とこの部屋に住んできてこんな豪勢なくしゃみに襲われたことはないし、床だけでなく寝具もカーテンだって定期的に洗うよう心掛けているのだから、この部屋が事の起こりのはずもないとすると、昨日のうちにどこかで菌をもらったと思わなければならない。
真っ先に思いつくのは藤沢さんのところだけれど、これまで二度、彼の部屋にお邪魔してもこんな事はなかったのに、三度目になって急にそんな事ってあるだろうか、と梨乃は指で数え上げながら、ふいにぽっとなるままに両手で頬をつつむと、肌がやけに熱いので、やっぱり風邪かしら、と半ばふざけて、半ばそう信じつつ立ち上がると、救急箱から体温計をとって脇へ差し入れた。
すぐに鳴った機器を確かめると、平熱も平熱なので、梨乃はやはり鼻炎だと思う間もなくティッシュをぬきとって鼻をかみ、それを籠へ捨てながらようやく思いつくままにタオルを持って来て壁へもたれ、再びくしゅんとひとかみ。今度はうっすら涙さえうかべながら、けれども少しはましになったような気がして、そのまま静かに座り込むとともにこれまでの出来事を回想した。
*
二人の時はいつだって先輩である彼が店をきめてくれるので、こちらは何の心配をすることもなくそれへ着いて行って共に食事をするうちに、成り行きといったら言い訳だけれど、無論嫌いじゃなかったしずっと好いと思っていたわけで、それにその背中がすらりとしているのに頼りがいもあるものだから優しく腕を取られて導かれるままに電車をおりて靴をぬぎ、でもちゃんと清めてから初めはそっとそれからぎゅっといつしか憂いもなくいつも一人興じていた遊びがもう侘しくて嘘のよう。
十代の小娘じゃなし二十三にもなればそう張り詰めるわけもないけれど、相手が違えば事は新鮮。端から相性申し分なしというのもそれほど人より知ってるわけじゃなくとも周りと比べるまでもなく分かるものは分かるといえばたちまちその道の姉さんそばから嘴をいれてそれは自惚れと混ぜっ返されようがどうせ人とはこの話題をはなすこともないとすればどうでもよい事。
三度目の昨日は、と梨乃はまたしても指先に数えて、ぼんやり天井をみつめると、枕へ手を伸ばし、足を踏み伸ばしたままごろりと横になった。
昨夜は正式にお付き合いの申し出を受けて、というより事後確認されたのを、ちゃんと言って欲しいとねだると、彼はじっとこちらを見つめて、たちまち女をあやすのに慣れた雄の微笑をうかべながら優しく応えてくれた。
梨乃は無論二つ返事でうなずきたいのを、ちょっぴり迷う振りをしようとしてすぐさま天邪鬼な女ととられても困ると俄に思いなすままに、座敷のテーブルに置かれた彼の手にそっと触れるや否や指先が震えておもわず唇が引き攣りすぐと照れ笑いに変えたのだけれども、ひょっとしてあの時の畳か座布団が今のこのくしゃみの原因ではなかろうか。
そう心づいてみるとそうに違いないとも思うし、そんなことは決してないとは思うものの原因が彼の部屋であるならそれはそれで複雑であるし、でもそれを確かめるすべも勇気もわたしにはないし、とうなだれるうち梨乃は静かに起き直ると、幾分鼻の調子が戻ったような気がして、景気づけに日課である掃除機がけをし、植木鉢の湿り気を確かめてから水をやったのち真昼の窓辺に腰をおろすと、昼から予定があるという彼の睡眠を邪魔しないよう独り目覚めてしばし余韻に浸る間もなくそっと夜具を抜けだし、帰る旨をしたためたメモをナイトテーブルに置いて一人とことこ部屋をあとにした今朝の静けさを思い出しながら、あの時より今のほうがずっと寂しいと心づき、すぐさま首を横に振って鼻をかんだ。
読んでいただきありがとうございました。