第一幕 その名―瑠偉
「おはよう、瑠偉」
「ああ」
俺の恋人、北条真生が俺の名前―西山瑠偉の名を呼ぶ。
腰まで伸ばした黒髪に二重の瞳。
その物腰は柔らかく、まさに大和撫子という形容がよく似合う少女だ。
だが―普通の少女ではない。俺はとうの昔に気づいていた。
なにせ、十年来の幼馴染みだ。
真生のことはそれなりに知っていると自負していた……つもりだった。
「ねぇ?今日の放課後時間ある?」
「あ〜、大丈夫だ」
俺は一瞬思考を巡らし答えた。
真生は俺の腕に自分の腕絡めるようにして抱きついてくる。
「じゃあさ、どっか行こうよ」
「どっかって?」
「それはまだ考えてないけどさ……」
そう言って真生は嬉しそうに今日の予定を考え出した。
本当に真生の考えている事が最近分からなくなってきていた。
こいつは|俺と柚香の関係を知っているはずなのに《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
今だって、今朝はシャワーを浴びる時間がなかったから柚香の香りが俺には染みついているはずなのだ。
なのに、真生は文句どころか笑っている。
悪いのは俺だが、真生も最近どこか奇妙なのも確かだった。
そうこうしている間に学校は目前に迫っていた。
『雪代学園』。
生徒数500人ほどの私立高校。
特筆すべき点のない普通の高校だ。
俺は教室前で真生と別れ教室に入る。
「………」
俺に話しかけてくる奴など誰もいない。
孤高を気取るつもりはないがいつもこうなる。
自分で言うのもなんだが、俺程おもしろくない人間などめったにいないので、それも別段気にするようなことではないが……。
教室の朝の喧噪。
若い故に彼らは情熱に溢れている。
日々が煌めき輝いている。
―羨ましい。
俺はそれを羨望の眼差しで眺める。
些細な事で感動し笑い泣く。
この年代の人にしてみれば当たり前の事だ。
だというのに俺にはそれがない。
手を伸ばせば届きそうな距離にそれはあるのに、実際はその間には越えることの出来ない壁が悠然とそびえ立っていた。
やがて俺は諦める―否、逃げ出す。
「馬鹿らしい。そんなもんが何になる」
それしか許されていないが故に……。
なのに心は求め続けるのだ。
欠けた物を。
決して埋まらぬその心に空いた空洞を満たすために。
どうしようもない餓え。
何をしていても満たされない。
やがて俺は世界から放逐されることだろう。
この餓えを理解できない者からしてみれば、俺は異物。
人は理解できないものに対して恐怖を覚える。
それが摂理というのならば受け入れよう。
弱肉強食。
その時は俺が弱かったというだけの話。
でも―
「本当…羨ましい」
その言葉は誰にも届かなかった。
昼休み。
俺は真生と昼食を摂っていた。
真生お手作り弁当。
ここ半年ほど、毎日のように真生を俺のために弁当を用意してくれていた。
その内容を見ると、真生がどれほどこの料理に力を入れているのかが一目で分かる。
唐揚げ、卵焼き、きんぴら、ミートボール。
それらはお弁当の定番メニューだが―
「また全部手作りか?」
「当たり前じゃん!」
真生はそう言って胸を張って笑う。
その弁当には冷凍食品など一切入ってはいない。
それどころか、この半年でこの弁当箱に冷凍食品が入っていた事など一度たりともなかった。
俺は唐揚げを箸で摘んで口に放り込む。
「……おいしい?」
「ああ、旨い」
美味しくないはずがない。
「良かった〜!」
子供のように無邪気に喜ぶ真生。いつものことだ。俺のたわいない一言でこんなにも感情を表現する真生を微笑ましく見守りながら、俺は軽い罪悪感に襲われた。
―真生はこんなに尽くしてくれているのに…俺は……。
同時に自分にもまだそんな感情が残っていたことに気づき、嬉しくなった。
「あれからもう三年か……」
知らず知らずのうちに俺の口からそんな呟きが漏れていた。
真生の表情が強張る。
「そう……だね」
三年前、俺は自動車事故に遭遇した…らしい。
というのも、俺はそれ以前の過去の記憶を失っているのだ。
幸い、日常生活に関する基本的な記憶を残っていたが、どうしても人の顔や名前は思い出すことができないのだ。
医者によると俺の感情の欠落も事故による影響らしい。
「ところで今日どこに行くか決まったか?」
気分を変えるように俺は話題を変える。
朝に話していたデートについてだ。
「うんっ!」
真生は俺の意図に気づき、花の咲くような笑みで頷いた。
「映画館!」
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