3話 心理士着任(前編)
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携帯電話に設定しておいたクラシカルな黒電話の音が響く、妻と子どもが起きる前に携帯を操作しアラームを停止させる。時刻は06時01分...。今日は更生病院の初出勤の日だ。
泥濘とした眠りから自分を引き剥がし風呂場に向かい脱衣場でスウェットをゆっくりと脱ぐ。初春の朝の冷え込んだ空気を吸い込みながら風呂場の扉を開けると中に入り40℃に合わせた給油栓をシャワーの水圧が強くなるまで捻る。手で水温が上昇するのを確かめた後、頭部に勢いの良い温水を当てた。目を瞑りながら定位置にあるシャンプーボトルを手探りで探すと左手に2回、右手でプシュしたシャンプー液を頭髪に付け激しく泡立たせる。程よいころ合いでシャワーを右手で持ち頭部の泡が綺麗におちる感覚になるまで左手は頭髪を濯いだ。頭部が綺麗になったと感じると、今度は洗顔を右手に取り、左手に1㎝程の洗顔料を出すとシャワーから少し温水を加え、泡立てると両頬から洗い出す。おでこや両顎、耳の裏表も入念に洗った後、シャワーで額から順に洗い流していく。泡が流れた感覚を覚えると、温水で全身をまんべんなく温め、風呂場に飛び散った泡をシャワーで狙い、洗い流した。身体は朝は洗わないため、意を決してシャワーを止め、4月の早朝の寒さから逃れるため風呂場の扉を開けて洗面所に滑り込み、バスタオルを取り出すと素早く身体の水滴を残らず拭き取った。仕上げに頭髪を20~30秒程かけて念入りに拭くと鏡を見ながら手櫛を使って簡単に髪の毛を整えた。ふと、右顎に残る少量の泡に気が付く。どうやら、洗い流せてなかったようだ。洗面所の蛇口をひねり温水を出すと温度を確認してから右手ですくい右顎に残った泡を洗い流す。微かな心のしこりが残る。感覚の鈍麻が一瞬頭をよぎるが、まさかな、と思い右顎もバスタオルで拭くと、体温が下がらないように慌てて寝室に向かいクローゼットから下着を取り出し身に付けた。
ベットを見ると妻の姿はなく同時にキッチンの方からタンタンタンという切裁の音が聞こえる。ワイシャツを着て、スラックスを穿き身支度を整えるとダイニングキッチンの扉を開閉しダイニングテーブルに座る。
「おはよう」
と子どもの安眠に影響の出ない程度の声の大きさで妻に声をかける。
「おはよう。朝はまだ寒いねー。洗濯物はちゃんと洗濯機に入れてくれた?」
入浴の際に脱衣場に衣服を脱ぎ捨ててしまう、私の悪癖を咎めるような口ぶりだ。
「うん。ちゃんと入れたよ。」
答えると同時にダイニングテーブルを離れるとリビングに移動してソファーに座りながらテレビを点ける。ザッピングしながらスポーツニュースではないニュース番組を探すとリモコンをテーブルに置いてニュースの内容を確認する。どうやら中東の国際紛争のニュースを報道しているようだ。
「後は魚を焼くだけだから、先に食べる?」
リビングを覗き込みながら私の姿の品定めをしているようにも感じる。
「焼けてからで大丈夫だよー。」
テーブルに置いてある名刺入れに定期券用に用意したICカードを位置を確認しながら入れる。自分の財布から1万円札1枚と千円札を1枚、抜き取ると短辺を合わせて2回折り、名刺入れに入るサイズにすると2枚のお札を名刺入れに仕舞った。名刺入れをワイシャツの胸ポケットに入れると同時に妻の声が聞こえて
る。
「ご飯出来たよー。」
少し大きめの声で聞こえてくる。
「うん、今行くー。」
忘れ物は、ないか頭のなかで反芻しながらダイニングテーブルに座る。
「いただきます。」
出来立ての朝食の中から味噌汁を選び、朝のシャワーで冷えた身体を温めようとお椀を左手に取り、一口啜ろうとすると、
「今日が初出勤だね。」
続けて妻がこちらを向いて言う。
「どう?緊張する?」
少し右側に首を掲げながら考える。緊張しているのだろうか、少なくとも試験の時と違い昨日は早めに就寝できた。あの時は妻と子どもが実家に帰っていたのも眠れなかった理由なのかもしれない。
「んー。どうだろう。緊張しているのかもねー。でも未来と来人が居てくれるおかげで、昨日はぐっすりと眠れたよ。」
「感謝してねー。」
実際、未来にも来人にも感謝はしてる。
「うん。ありがとう。」
最後に野沢菜を口に放り込むと、歯を磨きに洗面所に向かう。洗面台から自分の歯ブラシを取り出し、歯磨き粉のチューブを右手で開けながら歯ブラシに近づけるとチューブに少し圧力を加え適量の歯磨き粉を歯ブラシに塗布した。左奥歯から順番に2分程かけて歯を磨き、念のために口臭のチェックをする。寝室の方から妻の声が聞こえる。
「おはよう。来人ー。良いこでちゅねー。パパのお仕事一緒にお見送りしまちょーね。」
どうやら、一緒に見送りをしてくれるようだ。再び鏡を覗き込み、髪形をチェックした。頭頂部を少し撫でながら髪形を整える。ふいに右の蟀谷辺りに鈍い痛みを一瞬感じた。片頭痛だろうか...。少し喉を鳴らしてみる。喉は大丈夫そうだ。どうやら風邪ではなさそうだ。
ビジネスバックを寝室に取りに行くと、妻が子どもを抱きかかえながら背後を追ってくる。
「ハンカチとティッシュは持った?」
そう言われ、ビジネスバックに入っているのを確認すると、
「うん。大丈夫。ハンカチもティッシュも忘れてない。あー。後、帰りに何か買ってくるものとかあれば電話かメールして。俺の財布はリビングに置いてあるから。」
ビジネスバックを持ち、玄関に向かいながら妻に伝える。
「わかった。」
「電車に乗っている時は電話に出れないから、メールか降りたらかけなおすよ。」
「うん。」
革靴を靴ベラを使わずにつま先を奥まで入れて踵が折れないように徐々にに力を入れて靴を履いた。再びカッターシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出し、定期用のICカードとお金、自宅のカードキーが入っているのを確認する。これぐらいでは、社会不安障害には当てはまらないだろう。
「忘れ物はない?」
と、聞かれ私は笑顔を妻に向ける。
「大丈夫そう。じゃぁ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。来人君、パパに行ってらしゃーいしてー。」
妻は子どもの手首辺りを掴み、バイバイの仕草をさせている。身体の向きを90℃変えると開錠しドアを開ける。右回りで後方を振り返り、半身のまま妻子に手を振ると3段程のエントランスの階段を下り、併設されている駐輪場へ向う。突然、緞帳の落ちたような静けさが耳に纏わりつく、左頬の感覚が徐々に鈍くなっていく。寝室の窓から子どもを抱きかかえ、私へ手を振る妻に微笑みながら、聴覚が戻らない動揺を妻に悟られまいと、敢えてゆっくりと自転車に向かう。蝕んだ様に感じる両手で開錠すると自転車を180℃反転させ、サドルに腰掛け、ペダルを漕ぎだしながら右後方にいる妻を確認すると、軽く手を振り駅へ向かうため、左へ曲がり坂を下って行った。
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