2話 心理士着任前(後編)
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私は俯いたまま恩師に尋ねた。
「どうして一番状態の悪い患者のケアをすることが、良いのでしょうか」
恩師は私の方に身体を向けて足を組みながら椅子の背にもたれ、腕組みをしながら答える。
「急性期病院というのは急性期症状がでた状態の患者をケアすることになる。急性期症状とはどんなものがあるかわかるか?」
少し眼球を上転させながら答える。
「例えば、統合失調症であれば陽性症状として幻覚・妄想。陰性症状が主訴な場合は無為・自閉とかですか?」
頷くと、眼を閉じながらゆっくりと口元が動く
「そうだ。急性期症状は、患者やその関係者の生命の危険を及ぼす恐れが高い。同時に薬物やアルコール性精神病であれば犯罪と密接に関係している場合もある。また、急性期病院は児童相談所の意見書があれば18歳未満の児童へのケアもその対象となる。設備としても、閉鎖病棟や保護室があり精神保健指定医が居れば措置入院にも対応でき、児童心理学から犯罪心理学まで広範囲の治療・支援に携わることができるんじゃないかね。」
確かにそうだなと思いつつ、左側にある窓の外をぼんやりと見ながら腑に落ちない点を聞いた。
「しかし、それでは分野の深堀が手薄になるのではないでしょうか?。どちらも中途半端だと、何も身につかないかなと感じますが。」
椅子に反動を付け姿勢を戻すと、腕組みを崩し私に視線を向けた。
「何を急いでいるんだ。所詮、お前はまだまだ何も分かっていないよ。何かを探求する知識も経験も不足している。まだ、何も成せるわけではない。やりたいことがハッキリと見付かる方が珍しい。確かに、お前はデイケアでの経験があるし、他の新卒と比べれば4年間の経験面でのアドバンテージがある。しかし、デイケアは回復期の患者さんが殆どで急性期は違う経験...、言わば精神科医療の最前線の経験を積めることになる。そう言った経験をしてから、自分のフィールドを決めていけばいいんじゃないかな。就職先に困れば、また俺が世話をしてやる。それに進む道を迷っているということは、今は決断できる材料が少ないということではないかい?」
いつの間にか恩師と視線を合わせていた。私は少し斜に構えると。
「わかりました。また、何か困ったときは相談にのってください。」
と答え、恩師のもとを後にした。
今日は地下鉄で来ていたので地下鉄の駅へ向かい歩く。新緑と青空、雲のコントラストを心地よく感じ陽の光を受けながら、立ち止まって大きく深呼吸を3回する。少し上方を向きながら陽の眩しさも感じた。心地良い。
「んー、気持ちいい。」
と声にした後、肩を開き上方へ大きく伸びをした。ふと考える。これは独語だろうか...。つい自分の行動を精神症状に置き換えてしまう。これはいつから付いてしまった癖だろう。苦笑いしながら歩きだす。こちらは、空笑になるのかな。少し足取りが軽くなるなかで、のんびりと駅へと向かった。
地下鉄からJRに乗り換え自宅の最寄り駅で降りると東改札口から出て駐輪場に向かう。自分の自転車を見つけるとダイヤル式の鍵を結婚記念日に合わせ開錠し自転車に跨った。帰路の方向にハンドルを向け体重を乗せながらペダルを漕ぎだした。
私は恩師と話した後、更生病院に就職することを決めた。内心はまだ迷いもあったのだが、進むべき道をハッキリと決断できないのであれば恩師が言う通り経験を積むのも悪くないなと感じたのだ。また、急性期の患者という精神科領域で一番過酷な環境で経験を積むことによって、自分のスキルも高めることができる。待遇面も問題ないし、実習で職員との関係性も少しはできている。差し当たって問題はなさそうだ。但し、事務長は有資格者の男性職員が欲しいと言っていた。国家試験の取得だけは絶対にしなければ...。そう自分のなかで整理する。いつの間にか自宅付近に来ていた。帰路の曖昧な記憶とともに駐輪場に自転車を止める。駐車場には我が家の車が止まっている。どうやら妻は帰宅しているようだ。鍵を取り出すと鼻で大きく息を吸い込み開錠すると玄関の扉を開けた。
「ただいまー。」
少し大きめの声で言いながら靴を脱ぐ。
「お帰りなさい。」
いつもながら少し鼻に掛かった妻の声のトーンが聞こえる。
「就職先決めたよ。」
ダイニングキッチンに入りながらキッチンで調理をしている妻にさりげなく伝える。
「えー、勝手に決めっちゃたの-?」
振り返りながら少し怪訝そうな顔で言う。子どもがいることもあり、給与や福利厚生の待遇面もみながら妻と一緒に就職先を選定していたし、妻はそれをある種の楽しみとしていた。
「あー、でも未来が第一候補にしてたとこだよ。」
妻の未来は更生病院への就職を望んでいた。更生病院は県下の医療機関のなかでも待遇面がよく、特に賞与が多かった。妻は支給される賞与を使わずに貯金に全て回し、マイホームの頭金にする計画を練っていた。
「そうなんだー。良かったー。」
声が心なしか明るくなる。コンロに向かっているため、表情は読み取れない。
「まぁー、国家資格取得は必須だけどね。」
ダイニングテーブルの椅子を引きながら伝えると、窓に一番近い椅子に腰を下ろした。
「試験は受かりそう?」
左側の窓を眺めているとダイニングテーブルに身を乗り出しながら聞いてきた。
「んー。多分ねー。」
気のない返事に聞こえただろうか。こういう時は、お前たちの為に必ず受かってみせるよ、とか言った方が良かっただろうか。私は万が一、試験に落ちた時のリスクを考えながら、そう答えた。
「お母さんも心配してたからね。電話してあげたら?。」
両親とは仲が悪いわけではなかった。むしろ人間として尊敬しているし、ここまで育てたくれたことに感謝をしている。しかし、なかなか連絡ができないでいた。今まで、色々と迷惑を掛けてきたのが主な理由だ。要するにばつが悪かった。妻が両親と仲良くしてくれるのは、ありがたかった。必要以上に両親と関わらないことで自分の都合の悪い過去を必要以上に思い出さずに済むし、耳にする機会が減る。これも一種の解離性遁走だなと思いつつ自分の記憶の明確さを確認する...。そう言えば、帰り道の記憶が曖昧だったな、などと考えつつ子どもの姿を目で探す。そんな自分を一種の現実逃避かな、などと客観的に評価しながら
「そのうち連絡するよ。」
と答えながらダイニングテーブルを後にし、子どもが眠っているリビングに向かうと、子どもの頭を撫でながら顔を近づける。懐かしい子ども特有の匂いがする。少し顔を離し、枕もとのガーゼハンカチで子どもの額の寝汗を拭くと、ソファーに腰を下ろしテレビを点け、子どもが起きないように音量を小さくして画面を見るわけでもなく、ぼんやりと全体を眺めていた。
心の箱の疼きが始まる。自分自身が何者なのか、何になろうとしているのか、どうなってしまうのか。就職を決めることによって、私の役割は決まる。更生病院の心理士として。それは本当だろうか。ひょっとして演じていくだけかも知れない。現実と幻想の境界は何だろう。職業の選択により、社会の歯車としての役割を与えられる。これは本当の自分だろうか。答えのない思念にとり憑かれ、負の思考連鎖に呑まれていく。
私は1970年代のスタンフォード監獄実験を連想した。就職を機に社会的な役割が変化することにより客観的人間は変わってしまう。自分のパーソナリティーや過去に関わらず現在の社会的役割により、人からの見え方が違ってしまう。私という個人と社会的役割という非個人性が混在するなかで社会的役割を演じ、垣間見える本当の自分自身に恐怖し驚愕し否定する。本能、社会規範、道徳、役割...。四色問題のように確かな境界線で塗り分けることがことができない心は、その勢力分布が心の状態によって変化し状態化し、固着し、また変化する。残された淀みは澱となり、現実に表出され昇華する。昇華できない澱は溜まり続け歪を生じる。歪は何れ闇となり心を蝕んでいく。心とは何だろう。心の定理とは何だろう。脳と心の違いは何だろう。そもそも、心という概念を創り出した時点で人間は答えのない遭難の始まりなのかもしれない。
明日は、とうとう初出勤の日だ。
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