110 恐怖の空中散歩
「ちょっとトイレに行ってくるね」
私はもじもじしつつ、こっそりハティに耳打ちした。
神様と一緒で、精霊も排泄はしない。それは神様と付き合いの深いエルフには常識で、「トイレ貸してください」なんて、だから言えない。いまの私は"精霊様"だからだ。
なのでこっそり、そう、こっそり……森で用を足すしかない。
くっ……この屈辱感、久しぶりだぜ。ログハウスがただのあばら家だった頃以来かな。
「では、俺も行こう」
ハティがそう言って立ち上がろうとするから、ぎょっとした。冗談じゃない! 誰が彼氏におしっこするとこ見られたい、なんて思う?
「ハティはここにいて! すぐ戻るから!」
「待て、ララ! あうっ」
ハティはエルフの髪結師に捕まってるところだった。だからこそ、このタイミングで言ったんだけど。
同じ赤色の紐で先に髪を結ってもらっていた私は立ちがって、銀髪の美しい仮面の男から距離をとった。
「ひとりでは危険だ!」
「大丈夫だって。私、精霊なんだなら、神様に次ぐ実力者を誰が害せるっていうの?」
くすくす笑って秘密の冗談を楽しむ私に、ハティは言葉をつまらせる。ま、そうだよね。エルフたちが見てるこの場で、下手なことは言えないし。
でも本当にひとりで大丈夫なんだから。魔物も魔法使いもコテンパンの返り討ちにできる力が、私には備わってるんだから。
「ララ……」
不機嫌とも、悲しんでるともつかないハティの声を背中に受けながら、私はすたこらさっさと近くの緑に飛び込んだ。祭りの喧騒が、カーテンで仕切られたみたいに一気に遠くなった。
うっそうとした森の中、いいかんじの木陰を探す。ちょっとでも遠く……ああ、でも、耳を澄ませてるハティにはどうせ、おしっこの音が聴こえちゃうんだ。ぐすん。
ハティってば恥ずかしがる様子も、遠慮もないんだよなぁ……。こんなとき、人と神様の違いを思い知らされる。神様は人の羞恥ポイントを理解できないんだ。
「ふぅ、スッキリ、スッキリ〜」
そうして無事に、トイレ完了。
漏らさなくてよかった! だいぶ我慢してたから正直危うかったんだよねぇ。
エルフさんが美味しいジュースをたくさんくれたのがいけない。特製山ぶどうジュース、10杯も飲んじゃったし。
あれなんて品種だろう。美味しかったから『創造』でお庭に実らせたいな。
体が軽くなって上機嫌にスキップをくりだす私の目に、そのとき、きらっと光るものが映った。なんだろう。眩しくて、目を細めて光りの方を確認すると、
「子ども……のエルフ?」
耳が尖ってるって、見分けやすいよね。
光って見えたのは、長くてきれいな金髪だった。ウィルくらいの小さな女の子が、こちらに背を向けて、森の中から祭りを見学してる。その横顔は少し寂しげだった。ぼーっと固定された視線の先には……あっ、ウィルだ!
屋台に囲まれた広場の隅っこで、ウィルがエルフの子どもたちと遊んでた。連れてきてたお友達(火の神様が変身してるスゥや、小鳥たち)を紹介しながら……お面で表情が見えなくても、ウィルがすごく楽しそうだってわかる。声が明るいもん。
ちょっぴりうるっときた。潜伏生活で、(動物抜きで)お友達といえば年上のお兄さんお姉さんしかいなかったから……同年代のお友達ができてよかった。
そこで、はっと気づいた。エルフの女の子は、本当はウィルたちと一緒に遊びたいんだ。でも、照れて言い出せない。だから見学してるってわけ。
そういえばこの子は他の子どもたちと違って高級そうな着物(?)みたいな服着てるし、あれかな? お金持ちの子が遠慮してみんの輪に入っていけない、みたいな。
ふっふっふ、しょうがないな〜。
ここはひとつ、私が背中を押してあげますか!
私が立てた計画はこうだ。
まず、音を立てずに女の子の背後にまわる。そんで、「わっ」っと背中を叩いて驚かす。そしたら女の子はびっくり立ち上がって、ウィルたちのいる広場に出ちゃう。気づいたウィルがみんなの輪に引き入れて、遊ぶしかない状況に!
うん、カンペキ。私って天才かもしれない。
よし。
そーっと、そーっと……
近くで見ると、女の子の長い金髪は本当にきれいだった。驚いて、息をのんじゃう。……って、こっちが驚いてどうすんだ!
すーっと息を吸い込んで、
「わぁ!」
驚かすのは、うまくいった。ううん、うまくいきすぎた。
トン、と小さな背中を押した瞬間、女の子は思いの外大きな声で叫んだ。
「わぁっ!!!」
振り向いて、目があって(薄い青色)、私もびっくりしちゃって叫んだ。
「わぁっ!!」
「わぁ!」
「わぁ!」
「わぁーっ!!!」
そして、全力で逃げていく女の子。広場ではなく、森の奥へ──。
……失敗!
あっけに取られつつ、ショックがじわじわ胸に迫ってくる。あんなに怖がらなくても……
あの子、私の顔見て叫んでた。妖艶美少女のはずなのに……あ、黒髪がだめだった? いや、エルフにも黒髪いたし……
あ、そっか、お面つけてるから!
のっぺらぼうみたいで怖かったかな?
それとも"精霊さん"っていういきなりの大物登場にどうしていいかわからなくなった?
「ま、待って……!」
とにかく、私も追いかけた。この森は少ないけど魔物も出るって聞いてた。小さな女の子一人じゃ危ない。止めなくちゃ。
女の子はすごいスピードで森を駆けた。さすが森の民。跳ねて、飛んで、木の根や枝も難なく突破する。私のほうが転けそうだった。『体力∞』のおかげで疲れはしないけど……
それでも、大人と子どもの速度だ。すぐに追いつく。不思議な着物をまとった背中が近づいて、手を伸ばせば届く距離にきた。
と、そのときだ。
「え、」
女の子の金髪が宙に舞った。眼前の光景が信じられなくて、ううん、信じたくなくて、ひゅっと、心臓が縮み上がった。
「危ない!」
あわてて手を伸ばす。
女の子は走るのに夢中で、向かう先を見てなかった。気づいたときには、もう遅い。かかとを踏みしめてのブレーキも間に合わなかった。
女の子は真っ逆さまに落ちた。崖の下に──
そう、そこは森のはずれ。深い谷へ下る、崖だったんだ。
「"ツタアケム"!」
とっさに、スキルを使った。
『植物創造レベルMAX』
ムチのように、細く、長く、丈夫に。
私の足元から生えた濃い緑のツタが、まっすぐに崖下に伸びていく。女の子を追って。
(絡めとって! お願い!)
植物は思考力がないから、命令をうまくきけない。でも、"巻き付く"のが得意な『ツタアケム』なら。
グンッ!
ツタが引っ張られた。下を見れば、女の子は胴にツタを巻きつけて宙づりになっている。
「はぁ……よかった」
腰が抜けた。私のせいで、怪我させちゃうとこだった。ていうか、怪我だけじゃすまなかったかも。肝が冷えた。
まったく、私ってひとりでいるとろくなことになんないな。
「じっとしててね! いま引き上げるから」
女の子といえども約20キロの重さを、私ひとりで引き上げられるかって?
できちゃうんだな。『怪力レベルMAX』で力持ちの私には!
キングコングは可愛くないけど、おかげで助かった。力をくれたハティに、胸の中で拝み倒すくらい感謝した。
ツナは順調に巻き上げられて行く。だけどそのとき、足元で不穏な音を聞いた。「ミシッ」って。
ツタアケムを生やした地面に、亀裂が入ったのだ。
「やばい」
あああああああ!!!!
崖の端がくずれ、そして、私もろとも落下した。
ジェットコースターの、激しい版。真下への、重力。
暴風で赤い紐が解けた。長い黒髪が暴れる。
うん、これは死ぬ。ハティたすけて。
次話は12月9日、水曜日に投稿します!





