(6)
一週間ばかりの嵐が去ると、沖縄は再びカラカラに晴れた灼熱の天気が戻った。
七月の半ばに、私は白いスプレー缶で「六十九点」と採点をつけたあと、その下に、やはり何も考えないまま、自然と自身の中に生まれた言葉を『字』として書き残していた。
『八月中旬には沖縄を発つ』
どうしてそんな事を書こうと思ったのか、私自身分からなかった。だって、わざわざ教えるような事でもないだろう。私がスプレー缶を使用しなくなれば、この関係は終わるし、落書きボーイの関心もすぐさまここから離れて行くだろう。
だって私たちのやっている事は、結局は誰かの世界を動かしたり、人生を動かしたり、何かしらの結果を残したり出来る物ではなかったからだ。
結局は、無意味なお遊びのような延長戦だったのだろう、という予想が当たったのか、別れがあると伝えた次の日、塀は再び白で塗り潰されていたが、そこは真っ白のままで何も描かれてはいなかった。――翌日も、その翌日も変化はなかった。
私は会社のビルを出ると冷たい物を食べ、いつも通りの帰路につきながら、だらしない鳩と可愛らしくなっていく白太郎に挨拶をしたりするだけの日々に戻った。
それなのに、どうしてか鞄の中には、いつもペイント用のあのスプレー缶が入れられたままでいた。中途半端に白いペンキをぶっかけられたような塀は、時々蝉や蟻の行進を私に見せては面白がらせてくれたが、それだけだった。
平日に仕事といつもの帰宅コースを辿り、日曜日には相変わらず『ノリフミとノリコ』のラジオを聞いた。投稿の文章が斬新で、内容も飛び抜けて素晴らしい事が続き、私は惜しみもなくゲラゲラと笑ったりした。
夏休みに入ってからというもの、番組では多々あるお祭りでの出来事や、遊びに行った際の場所で起こった事が「そんな馬鹿な事があるのかい」と思うほど楽しかったのだ。午後五時十五分から六時までだったラジオ番組は、夏休みスペシャルという事で三十分の拡大放送が始まっていた。
※※※
東京へ発つ予定の一週間前、私は同じ部署の同僚たちに見送られて、最後の出勤を終えた。ビルを出たのは、いつもより早い午後五時ちょうどだった。
外は呼吸をするだけで、どっと汗が噴き出すように暑かったが、先週から『真和志さん』宅の庭に居座りだした、ゴールデンの子犬という楽しみが増えていたので、私の足取りはやはり軽かった。何せ、私が『ゴールデン』と付けた呼び名を口にすると、その可愛らしい番犬は、嬉しそうに寄って来るのである。
次こそは出来るだけ早く性別をしっかり確認しようと考えていたので、あえてどちらの性にも適用できる名を付けたのが、私のすごいところであると思う。
「おや、こんなところに『おっさん鳩』がいるとは、珍しい」
いつもの帰宅コースを進むと、曲がり角の影に、あのだらしない鳩が両羽を広げてだれていた。私がそう声を掛けると、彼は重たそうに立ち上がって地面をつつき始める。
それから十数歩進んだ先には『真和志さん』宅があり、そこには十円ハゲのような例の兄貴分鳩がうずくまっていて、視線を寄越すとこちらを見つめ返してきた。そこを通り過ぎた庭には『白太郎』と『ゴールデン』がいるはず――
その時、兄貴分の例の鳩が「よいしょ」と立ち上がり、私めがけて飛んできた。
予想もしていなかった私は、「うわっ」と素っ頓狂な声を上げて彼をかわした。自分の行動を、瞬時に頭の中で再生し直してしまい、強烈な笑いが込み上げたものの、ふと、あの鳩が着地した空き地の塀を見て、私は全ての動きを止めていた。
中央部分だけ、雑に真っ白だったその塀には、大きなイルカと小さな二匹のイルカのアートが描かれていた。青々しい色使いで描かれたそれは、一つの絵画とするとどこか稚拙ではあるけれど、見ているだけで涼しくほんわかとするものであった。
塀の下の道路の端には、ペイントの跳ねた跡が残り、塀の左右にも手についた色をこすり落とそうとしたらしい跡が見て取れた。
私は、なんとも言えない穏やかな気持ちが、胸の内側に広がって行くのを感じた。夜道にそのアートがぼんやり浮かび上がる光景を想像して、女性も子供も、きっと満足した顔でその前を通過していくに違いない風景を思った。
「なんだ。やれば、出来るじゃないか」
私は鞄からスプレー缶を取り出すと、アートには白い線を一切触れさせずに、その下に「百点満点」とだけ記した。
もう、スプレー缶を使う事はないだろう。
私は、しばらくそのアートを眺めていた。塀の上に止まった兄貴分の鳩は「あばよ」という風に流し眼でこちらを見やると、颯爽と飛び去って行ってしまった。
私は一つ頷くと、すっきりした心持ちで踵を返して、『白太郎』と『ゴールデン』に挨拶をするため歩き出した。
駆け寄って来た白太郎を見て、更に心安らごうとしていた私は、目に飛び込んできた予想外の桃色な光景に息を呑んだ。
彼女のヒラヒラ&レースなエプロンを見てコンマ二秒ほど硬直し、そして腹の底から込み上げる笑いをどうにか「ぶふふぅッ」という吐息だけで留めた。
白太郎、ナイスな裸エプロンだね、などとは到底私には言えなかった。塀に二本立ちした『ゴールデン』は、やはり男の子だった。
この日は、いつもより早い時間の帰宅になった。母は料理の真っ最中で、父はまだ会社にいる時間帯だった。
「おかえり」
そう聞こえてきたキッチンからの声に、私は「ただいま」と返してから二階へと上がり、スプレー缶を押し入れの中にしまった。
東京行きの準備は済ませていたが、すっきりとした部屋を眺め回してみても、やはりぐっとくる想いや実感はまだなかった。本当に東京に行くのだろうか、と首を傾げてしまうほどだった。
※※※
金曜日に、同じ部署の同僚や同期たちと飲み会をし、土曜日に初めて父とゴルフに出掛けた。緩めの私のスイングを見た父の部下が、何故かぎこちない笑顔で、そっと視線をそらした。
「独特のスイングですなぁ……」
どうにか、褒めようと努めるみたいな台詞だった。私が褒め言葉だと判断して「そうですか?」と答えると、父は「集中力が足りないだけだ」と愚痴を言うみたいに突っ込んだ。
ボールの水ポチャ、バウンドしつつ丘を下った先にいた鳩を驚かせ、意気込んで振った瞬間、手に持っていたはずのゴルフ道具を後方に飛ばす。
私のゴルフは、まさに才能の賜る物といっても過言ではない仕上がりだった。だから、私自身がすごく面白くて、ゲームの成績以上に充実感を味わっていると、父や彼の同僚や部下たちは、次のような呆けた褒め言葉をぼやいた。
「よくもまあ、こんなにも色々と……」
「きっと、父さんの教育の賜物でしょうね。あ、あんなところにカラスが飛んでる」
「おい、適当な事を抜かすんじゃない」
父が「くそッ」と珍しく舌打ちまでして、指摘して説教しくたてたまらないという顔を手で押さえていた。
※※※
日曜日は家族と親戚でホテルのランチバイキングへ向かい、親族での食事会を行った。別れを惜しむという目的があったようだが、帰る時はあっさりしたもので、各々個人の予定を言いながら後腐れなく別れた。
帰宅すると、母はすぐに『ママさんとの集まり』に出かけ、父はリビングで一寝入りした。私は午後五時前には風呂を済ませると、いつも通り五時十五分からの『ノリフミとノリコ』のラジオ番組を視聴した。
世間は夏休みとあって、今日の番組も、一段と可笑しな話が出揃っていた。
私は、一階で熟睡している父が起きるかもしれない――という事は勿論考えないまま、一人ゲラゲラと笑い転げた。もはや途中で本を開くなんて事は出来なくて、ラジオを正面に置いて、顔を近づけて一心に耳を傾けて楽しんでいた。
『ネズミ花火を大量に放っちゃいけませんよ~。【コトリコノミさん】の友人さんも、大変びっくりしたとは思いますが、とくに浜辺は動きにくいので注意が必要なんですよねぇ』
『僕も昔やった事がありますけど、あれは本当に危険ですよ。う~ん、まさか砂場に足を取られて、必死に飛び回っていたのが三十代の大人たちだと、まさか遠目からでは見ていた人も気付かなかったでしょうねぇ』
『あはははは! ちょっとだけ見てみたい気もしますね。さっ、続いては初めての方のご投稿ですね。【百点満点さん】からのご投稿です』
私は、つい「ん?」と口にして笑いを止めていた。
先月も『二十五点さん』がいたので、さすがに学習してしまっていたから期待感といったドキドキはなかった。以前にあった、テスト点数とこちらが壁のペイントのアート作品に付けた数字が被るという、もう起こらない偶然が続く面白い事もあるものだなぁ、としか考えていなかった。
すると、ラジオで『ノリコ』が投稿を紹介し始めた。
『さて、お手紙の内容を読ませて頂きますね~。【初めての投稿になります。ウチの近くに、よくペイントの変わる不思議な空き地の塀があって、いつも絵の下に、白いスプレーみたいなもので点数がつけられています。通勤の際に、毎回面白く拝見していましたが、少しの間ぷっつりと途切れてしまっていて。それから、再び新しく絵が描かれたんですけど、このイルカの絵がなんとも素敵でして。百点満点と書かれた白い文字の下に、ちょっと不器用な大きな字で、ありがとうございました、と書かれていました――】』
私はしばらくの間、耳を済ませてじっとしていた。
そうか、最後に沖縄支社の出勤を終えてから、あの道を通っていなかったから気付かなかった。自分の中では、あれで物語は完結するとばかり思っていたから、確かめようとも考えていなかったのだ。
ふっと顔を上げて、窓から見える明るい黄昏の空をぼんやりと眺めた。原付バイクにまたがって例の空き地から去って行く、顔も知らない少年たちの後ろ姿が脳裏に浮かぶような気がして、ふっと笑ってしまっていた。
「じゃあな、『落書きボーイ』」
私は、一度も顔も見た事のない彼らに向かって、「さよなら」と別れの言葉を告げた。唇からこぼれ落ちた声が、虚しく宙に漂うようだった。
その時「ただいまぁ」と呑気な母の声が一階から聞こえてきて、私はラジオの電源を切ると部屋を出た。今日は母と一緒に、ハンバークを作る約束だったからだ。
チーズが入っているといい、と私はにんまり笑った。