表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

(5)

 七月になっても、私と落書きボーイの関係は続いていた。

 私がついでに「バイクが煩くて怖いらしいぞ」と書くと、その翌日にやってきたシズエさんが、原付バイクを押す少年を見たという話を母にしているのを聞いた。


 なるほど、やはり彼女を困らせていた夜の『バイクの少年たち』は、どうやら『落書きボーイ』本人か、無関係ではない人物であるらしい。そう思案して一人で勝手に頷いている私と同じように、シズエさんもしきりに頷いてこう話していた。


「きっと、誰かが言ってくれたんでしょうね。住宅街に入って来るとね、エンジンを切ってしばらく流したあと、止まったそれを押して行くみたいなのよ」

「あら、シズエさん。尾行でもしたの?」

「違うわよ。表通りの『トグチさん』が、バイクの音が一斉に途切れるのを聞いた時、ベランダで煙草を吸っていた旦那さんが、その光景を見ていたんですって。ほら、青年会の『クダカさん』いるでしょう? 彼もね、夜に家を出た時に、原付バイクの集団がぞろぞろ歩いているのを見て、驚いていたら『こんばんは』って声をかけられたらしいわよ?」

「へえ、なんだか変わった子たちねえ」


 母は特に興味もなく相槌を打っていたが、後ろのソファでその話を聞いていた私は、『片手に煙草が似合う、ミスタートグチ』が少し羨ましかった。何せ、私は未だに『落書きボーイ』の姿を見た事はなかったし、そして彼らも、私を見る事は今後も恐らくはないのだろう。


 とはいえ、私は「まあいいか」と、ラジオを聞いている感覚でそう締めくくっていた。六月からずっと続いている彼らの壁の落書きアートは、だんだん良くなっていて、時々面白い茶々を入れて来たりして楽しくやっていたからだ。


 彼らが描くリアルな二頭身アニメキャラや、可愛過ぎる国民的キャラクターにも私は随分笑わされた。画力と構成については、きちんと審査して「五十八点」としたのだが、あれは一番の傑作だったのではないか、と実は思っていたりもする。


 なんだか、当初の目的から少々ずれてしまったような感覚に捕らわれたりもしたが、なあに、そんな思いこそ錯覚であると自分を納得させた。何せ、いつもの帰宅コースを歩くのが今は大変楽しい。


 私は七月を数日過ぎてからというもの、子供たちが迎える夏休みについて考えるようになっていた。卒業してから全くといっていいほど無関心だったのに、最近はビルのガラス窓から、下の道を歩く学生服の少年たちを見掛けるたび、しばし眺めてしまう事が多くなっていた。

 夏休み前だから、掃除だけで授業も少ないだろうなあ、とか、浮き足立って指折り夏休みまでの日数を数えたりしちゃっているんだろうなあ、とか思いつつ、落書きボーイはどうするのだろうと思ったりする。


 今日もそうやって窓ガラスから下を眺めていると、そんな私の姿を見た同期のカリマタが「おや」と言って声をかけてきた。


「珍しいなぁ。お前、普段『窓ガラスから外の熱気が~』とか言ってなかったっけ?」

「ふむ、確かに言っていたな」


 私は、私の声真似をするカリマタに「上手いな、よく特徴を掴んでいる」と感銘を受けてそう答えた。しかし、彼は本気だと気付かない様子で、逆に心配するようにこう訊いてきた。


「おいおい、大丈夫か? 今の台詞の言い方というか、めっちゃジジ臭かったぜ」


 そう語る彼の頭の上で、クーラーで煽られた一本の白髪が、前触れもなくそろりとして立ち上がった。最近漫画で読んだキャラクターが脳裏を過ぎって、これこそ本当にリアルなアンテナだと思わされて――

 それを見た私は、「ぶはっ」と噴き出しそうになる笑いを堪えて、淡々静々と業務へと戻ったのだった。



 この日も帰りがけに落書きボーイの茶化し――今日は国民的ヒーローの素晴らしいコピー画だった――を「六十八点」と採点して帰宅したのだが、夕食時にいつもとちょっと違う事が起こった。



 父が少しの残業を終えて帰宅してから、三人でいつも通り食事を始めようとした時、私の会社の上司から電話が掛かって来たのである。


 上司は、私の携帯電話が圏外になっている事を、少し忌々しそうに指摘した。学生時代からの通信機器を、今の時代に合わせた物に替えたらどうだ、と飲み会の会場に行くまでに迷子になって遅刻するたびに言ってくる事と、同じ内容を説いたあとでこう告げた。


『お前、ライターの仕事か、編集にガッツリ関われる仕事がしたい、と言っていたな。東京本社のビルに異動する気はないか?』


 それは唐突な提案だった。


 私は小説家を目指して、学業の他の時間を全てあてていた時期もあり、結局は選考に掠りもせず社会人となったが、文章を書きたいと望んで現在の部署で勤めていた。可能であれば、少しでもそちら方面に触れて勉強をしたいとずっと考えている。


『生憎、うちの会社では編集部の席は空いていない。しかし、東京本社で空く予定があるんだ、どうやら退社する社員の席を補いたいらしい。三ヵ月は、その先輩社員がついて、お前に業務を教える事になってる――どうしたい?』

「そこは、文章も今まで以上に書けるんですか?」

『ああ、書ける。ついでにいうと、ガッツリ動いている出版部だから、作品も多く読んでもらう事になる。以前からずっと、文章も書けるし飲み込みも早いうえ、本の虫だとこちら側から強く推薦していたんだ。先方も、それをずっと覚えてくれていたらしい』


 私は、数秒も悩まずに「行きたいです」と答えていた。すると彼は、受話器の向こうで頷くような音を立てた。


『分かった、しっかり伝えておく。まだ若いんだ、もっとガツガツ好きな事を勉強すりゃあいい。噂でしか聞いていないが、頑張って【小説家】とやらを目指してみろ』


 礼を言って、私は電話を切った。東京にある本社ビルに、八月の半ばから入る自分を想像してみたが、まだいまいち非現実的で実感はほとんどなかった。


 それを両親に伝えると、父や母は出世ものだと背中を押した。母は、東京で一人の生活が出来るよう家事を教えると言い、父は「少しずつ荷物をまとめておくといい」と経験からアドバイスをくれた。



 中学や高校の修学旅行以来、私は沖縄を離れた事がなかった。けれど、マイペースな元来の性格が役立ったのか、私はたいして不安や緊張を覚えてはいなかった。


 かといって、東京で働く事については大きな希望や期待も感じてはいなかった。相変わらず出した公募の発表が近づく方がドキドキしたし、七月にあったいくつかの中間発表を見ては「まあ駄目だったのは仕方がない、次だ」と悠長に思った。



 しかし、荷物を整理し始めてからというもの、私の中で『落書きボーイ』の存在が強くちらつき始めた。

 少し前は大笑いしていた『茶化したキャラクター』のイラストが続いていたが、最近は何故だが、以前より面白味を感じなくなっていた。だらけた鳩や十円ハゲのようないかつい兄貴分鳩、とうとうカラーリングや服というオプションまでついてきた白太郎ほどには興味を引かれない。


 慣れてしまったのか、一連の作業が一定化してしまって、自分の中でつまらないものとなって味気なくなってしまったのか?


 そう考えるたびに、いやそうじゃないのだ、とも思った。私は、顔も名前も知らない彼らとの、壁越しのやりとりを失いたくないとも感じていたからだ。ただ、それは私を、沖縄に引き留めるほどの強さはなくて――



 つまりこれが、私と彼らの中の関係の終わりが近づいている予感なのだ、と次第に考えるようになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ