(3)
翌日の土曜日は、所々に積乱雲を漂わせた青い空が広がっていた。
父は接待のゴルフに出かけ、母は女友達――仲の良い近所のママさん方で、どうやらお互いの息子や娘の情報交換なども行い、常に新しい情報がやりとりされているらしい――とホテルの食事会へと向かった。
残った私は、昨日の夜届いた本を読んで過ごしていた。冷房の利いた家から、灼熱の陽炎が見え隠れする外へ行こうなどとは、ちっとも思わなかった。しかし、夕方に帰ってきた母が、夕飯の買い出しで私を荷物持ちにと外へと連れ出したのだった。
外出は憂鬱だったが、乗り込んだばかりの車内には、冷房の残り空気が流れていた。母がしばらく車を走らせると、すっかり涼しくなったので、私は母の作る美味しい食事を考えて上機嫌になった。
なのでスーパーの特売の帰りは、進んで荷物持ちと運転手を努めた。そして夕食の席では、夜も外食予定のある父の分まで、しっかりと美味い牛丼を食べてやったのだが――その時、母が気になる話題を投げてきた。
「そういえばね。シズエさんの近所に、バイクを走らせる子供たちがいて、すごく煩がっていたわ」
私は、母の井戸端会議の話にもよく登場し、引っ越してきた頃からずっと近所付き合いのある『シズエさん』の自宅が、私の帰宅コースに近い事を思い出しながら、落書きボーイのバイクだろうかと思ったりした。
母は私に、デザートのカットスイカを差し出しながら、椅子に腰かけて息を吐いた。
「そんなに煩いバイク音じゃないらしいのだけれど、それが数台一斉に集まるものだから、ちょっと夜道も怖くなってしまうんですって」
「ふうん。夜道が怖い、ねぇ」
私は上の空で答え、スイカを口に入れた。
どうしてだか、次第に例の壁の『落書きボーイ』の作品が気になってきた。彼らはきちんと、色づけをしていったのだろうか。それとも、その周囲に新たな文字を書き記して去っていったのか?
もう、私の白いペンキスプレー跡なども、残っていないのだろうなあ……。
思えば思うほど、思考はそちらへと引き寄せられて、読書にも戻れそうになかった。だから夕食後、私はしばらくテレビのコメディ番組を眺めた後、コンビニでアイスを買う事を口実に家を出ていた。
※
夜道を歩くのは冬以来だと気付いて、少々弱気になって肩身を狭めるようにして歩いた。それなのに、やはり風は生温く熱気が満ちていて、私は少しするとちょっとうんざりしながら、のろのろと足を進めた。
夜の道には、『おっさん鳩』も『芝生派の兄貴分鳩』も、『白太郎』の姿も見えなかった。がらんとした真っ暗な住宅街は、各家のカーテンから光をぼんやりとこぼしているだけで、なんだか寂しいうえに薄ら怖かった。
街灯は、だいぶ距離を置いてぽつりぽつりとしかなく、私は幾度となく市役所の意見箱に文句の一つ、いや要望の一つでも書き連ねて投函しようかと思ったくらいだ。
その思考が中断したのは、例の空き地にあるアノ塀を見てからである。私は、なんの意識もせずに「あ」と声を上げていた。
一部がペンキで白く塗り潰された跡の覗くそこには、金曜日に見た時とアートが違っていた。それは長い英文字と、短い英文字をアート状にしたペイントになって進化が見られた。
あまりにもイラスト紛いに崩された、まるで海外のギャング通りにあるような印象の描き連ねのため、私には文字の中の「ストリート」しか読めなかった。
しかし成程、以前の「参上」やら「参上参上!」に比べると、少しポップな印象を覚えないでもない。鮮やかな黄色やオレンジ色なので、私がそう思ってしまうだけかもしれないが、堅苦しさよりも楽しさが伝わってきて、悪くはないと思えた。
ふっと、突如として私の心に、一つの欲求が膨れ上がった。
私は携帯電話で時刻を確認すると、その数秒後には、衝動に突き動かされるまま近くのホームセンターへ向かって走り出していた。
走るのは本当に久しぶりで、膝や足が痛かったが、私は止まらなかった。公園の辺りに差しかかった時、夜のランニングをしていた中年夫婦が驚いた顔をして私を見送り、犬をつれていた若い女性の整った眉がつり上がって、散歩されていた犬も飛び上がっていたが、私は全く気にならなかった。ただ、ひたすら慣れないままのフォームで走って店に駆け込んだ。
「これ、ください」
私は店につくと、素早く商品を手に取って、息も切れ切れでレジのアルバイト君に向かってそう告げた。
大学生ほどの若い男は、まだ成人もしていない幼さが残る眉を顰め、疑うような眼差しで私を見つめながら白いスプレー缶をレジに通した。なんだか心の内側の企みを疑われている気がして、私は額の汗を拭う短い間に「これではいけない」と考え、小銭入れをじゃらじゃらとさせながら、自然な素振りでこう言った。
「助かった、助かった。白い家具って、すぐに色が変わっちまうなんて思わなかったよ」
すると、レジにいた兄ちゃん――十九歳くらいだったので、まあ呼び方は『兄ちゃん』でも宜しいだろう――は、ふっと緊張を解いた顔で愛想のいい笑顔を浮かべた。
口元から覗いた八重歯とつり上がった瞳は、やんちゃそうな若者の印象を濃くした。悪い意味ではなく、どこか好感を持てる顔である。
「皆、はじめてのアパートで白い家具を揃えちゃいますからね。一人サイズで安い物だと、ほとんど白か黒の素っ気ない家具になっちゃうでしょう?」
「全くだよ、本当にその通りだ」
「一本で足りるといいんですけどね。塗りペンキだと、どうも手間がかかっちまうし」
レジの兄ちゃんは、ちょっと打ち解けた様子で愛想良く言い、私が会計を済ませると「ありがとうございましたぁー」と形式的だが、どことなく後味の悪くない言葉で見送ってくれた。
私は早速、例の空き地の塀のある場所に戻ると、スプレー缶を振りながら、改めて落書きボーイの作品をまじまじと眺めた。
アート文字は、上部分が大きく円状寄りに描かれ、下は空いたスペースに砕けた「ストリート」がはめこまれている。しかし、どちらかというと俗的で、住宅街にはいかがなものかとも思う。
あと、やはり角々しい印象があって、ちっとも可愛くない――と、女性や子供は述べると思う。私は男なので、その辺の諸事情は完全にまったくの個人的な想像になるのだが。
「まぁいい。うむ、想像力というのは無限大だ」
私は、振って用意の整えたスプレー缶を持った腕を伸ばすと、その作品の上から並々と左右に振って、じぐざぐの白い線をつけた。
そもそも、なぜ自分がこんな事をしているのか、と、ふと思ったのだが、答えはいっこうに出て来なかった。ただ、まるで魔が差したかのように、そのアート作品の下の方に「二十五点」と、これまた審査か批評のような曖昧な数字を書き残していた。
点数制にする予定だってなかったし、これを記した時だって、特に何も考えていなかったと思う。長々と感想を書くような伝言版の壁でもないのだし、こうした方が手っ取り早いと感じただけなのかもしれない。
「ふっ、まだまだ技術が拙いな、落書きボーイ。俺はアメリカ映画もよく見るが、映画セットの壁の絵だって、ちゃんとしっかり見ているんだぜ」
絵に関しては素人だが、まあいい、と私は己の作った役のキャラを楽しむかのように言うと、最後は「やれやれ」と片手を振って、自己満足一つで歩き出した。
落書きボーイの残した絵が、こちらの推測と違っていた事については気分が良かった。だって、まさか英単語が書かれているなど、誰が予想するだろうか?
そう思い返したら、帰り道の暗さも忘れて笑いが込み上げていた。コミビニに入ってもなお、私は腹の底でクツクツとした笑みを噛みしめていたのだった。
※
家に戻ると、私はペイント用のスプレー缶を自室に置き、コンビニでゲットしたカップアイスを取り出してソファに座った。テレビはニュース番組に切り替わっていて、アイスを早々に食べ終わった頃、長い風呂を済ませて出てきた母が、私を見て小首を傾げた。
「楽しい事でもあったみたいな顔しているわね?」
「そうかな。特に変わらないけど」
そう言った私は、ふっと思い出して母を振り返った。
「カップアイスを食べたんだけど、フタを開けてみたら、そこにくっついていたチョコアイスの形がリンゴみたいで面白かった」
すると、母が目を見開いて「本当に、あなたって変わった子ねぇ」と感想を述べた。私は普通だと返そうとしたのだが、そのタイミングで、予定よりも一時間と三十分早くに父が帰ってきた。
「早かったのね、おかえりなさい」
母は、父を出迎えて彼の手から荷物を取るなり、先程の私の事を伝えた。そして、楽しい事があったみたいだという点については、ちょっと心配そうにこう続けた。
「遅めの青春が来たのかしら?」
「まだ若いからな」
父は冷静に言葉を返して、心配するものでもないだろうと母を落ち着けた。それから私を見て、もう一度頷いてからこう言った。
「父さんな、お前が悪巧みでくふくふと笑っているとは、想像しない事にする。そうだとも。お前は、まだまだ『若い』からな」
「まるで僕が『変わり者』の息子みたいな言い方になっていますよ、父さん。あ、頭の上の髪の一部が立ってる、まるでアンテナみたいだなぁ」
「ほらな、お前は注意があちらこちらにそれて、面白おかしく想像し妄想するんだから、困ったもんだ」
父は特に酔った様子も見せず、相変わらず涼しい顔をしたまま、ひらひらと手を振って風呂場へと向かっていった。
私は、父が一体何を言っているのかピンと来なかったのだが、部屋に引き上げて本を読むため、適当に相槌を打って二階へと上がった。自室には先に冷房を掛けていたため、足を踏み入れると一階よりも冷たい空気が私の身体を包みこんだ。
学生の頃に『若い』と近所の兄ちゃん達に言われ、就職先でも若いと連呼された。それから、二十六歳になった今でも上司や先輩からそう言われる。
いつになったら『若い』から脱却するのだろうか、と、なんとなく考えてしまった。私から言わせれば、少女のように笑うところがある母にもそれは適用するし、毎年のマラソンやスポーツ大会でも走り続けている父にも『若い』と使える。
いつかそれを、しっくりとした形で実感出来る日は来るのだろうか。その言葉自体が、妙な響きで余韻を残してそう思わされた。
そんな事を考えていた私は、ふと、落書きボーイの事を思い出した。
まだまだ学生の身分で――これは私の推測と想像の域だが、なんとなく間違っていないだろうと私は信じている――若い彼らは、土曜日の夜をどうやって過ごしているのだろうか。
そう思案してすぐに、私は自分の学生時代をよく覚えていない事に気付いた。
「はて。学生だった頃、俺はどうやって土日を過ごしていたのだろう?」
結局、しばらく考えても分からなくて、特に興味も湧かなかったため思案は長続きもしなくて、私は数分後には読書に戻って、それからきっちり同じ時刻にはベッドに潜り込んでいた。
暗闇の中で、眠気がくるのを静かに待ちながら、背中に白い十円ハゲの模様がついた兄貴鳩が、朝に私の窓をノックして「弟分がいつも世話になってるな」と言ったら楽しいだろうなと思った。
けれど、眠りに落ちて見た夢は、会社の食堂で昼食とデザートのアイスを食っているものだった。なんとも味気ない夢である。
陽の昇らないうちに目が覚めた私は、寝ぼけた顔を上げて、もう一度口の中でも「なんとも味気ない……」と繰り返して、二度寝を決め込んだ。
ベッドの下から怪物や幽霊や、我が家にもいるはずの鼠の大将が現れる事もなく、そうやって私の夜は、朝に向かってだんだんと薄れて行ったのだった。




