(2)
良い事をしてやろうと思うと、なんだか楽しくなってくる。
本日も午後五時二十分にビルを出た私は、弾む足取りで自宅へと続くコースを進んでいた。今日は黒猫が蝶を追いかけて横断し、『真和志さん』の駐車場には例の鳩がいて、やはりおっさんのように翼を広げて胡坐をかいたまま私を見送った。
犬である『白太郎』の家の屋根が覗く場所で足を止めると、私は例のギャングっぽい落書きの前に立った。
昨日より字を囲う赤と黄色のラインが太くなっていて、字のアートは角が上がって威圧感が増していた。どうやら、昨日の夜にも、顔の分からない少年たちがここへ来たのだろうと推測された。
私はよくあるような、高校生ほどの少年がバイクに乗った様を思い浮かべた。しっくりとくる名が思い浮かばなかったので、とりあえず不特定多数の彼らを、一まとめにして『落書きボーイ』と呼ぶ事に決めた。
「ふむ。これはいかんぞ、落書きボーイ」
私は、これと言って個人的な是も非もなくそう口にしながら、鞄からペイント用の白のスプレー缶を取り出した。きちんと振った後、女性や子供を怖がらせるであろうギャングっぽい文字のアートの一部を、まずは試しにと白く塗り潰してみたところで手を止めた。
全部真っ白く塗り潰すのは、どうもスプレー缶の塗料一本分では足りそうにないだろう。それに、真っ白くするだけであるのなら、私自身がつまらない。
「よし。想像力を働かせてみよう。きっと良い案が浮かぶに違いない」
そもそも今回は、夜道の怖さをなくすのが目的であるので、まずは自分が真っ暗な道を歩いている場面を想像してみた。
夜だと人の気配もなく、一軒家に乏しい光が灯っているだけで非常につまらなさを感じた。だから私は、白いラインで可愛らしいオバケのキャラクターを描く事にした。
私は小説家を目指しているが、何故か昔から女性のような可愛らしい絵を描く事が得意だったのである。二分で仕上げたにも拘わらず、ギャングっぽい文字アートの上にデカデカと描かれた絵の出来栄えは、上々だった。
「よし、よし。これでいい」
私は満足してにんまりすると、手に持っていた道具を鞄に戻して帰路に戻った。そこを通り過ぎると、木陰で休む姿が見えた『白太郎』に軽く挨拶をした。白太郎は木の下に座ったまま、嬉しそうに尻尾を振っていた。
その家の前を通り過ぎた時、一羽の鳩が私の前を横断して地面に着地した。凛々しい鳩ながら、こちらを振り返る顔に『真和志さん』宅の鳩と同じような親近感を覚えて、私はじっくり観察してみた。
その鳩は、背中に十円ハゲのような、楕円形の白がぽつりと浮いていた。身体がごつくて大きかったので、きっと彼の兄貴なのだろうと思った私は、公園のある方向へ気だるそうに歩き進んで行く『兄貴分鳩』の背中を見送った。
帰宅した後も、私は『真和志さん』宅と、白太郎の家の間にある、あの例の空き地の塀が気になって仕方がなかった。きっと大好評であると、信じて疑っていなかったからである。
きっと女性や子供以外だけでなく、寂しくてつまらない夜道を歩く自分と同じような社会人男性が、私の描いたアレを見て、クツクツと一人笑う姿を思い浮かべて、私も「くくくっ」と笑いを噛みしめていた。
※※※
気分が良かったので、その翌日の金曜日の会社帰り、私はパフェを食べる事にして喫茶店に立ち寄った。
注文したのは、メニュー表を見てピンときた『チョコパフェ』だった。クリームといったかなりボリュームがあるトッピングに、唯一適当に突き刺されたような二本のポッキーがあり、その一つが斜めにずれていて、まるで下手くそなダウンジングに見えて私は密かに笑った。
「うむ。これを注文しておいて正解だった」
私は、トッピングの一部が崩れてしまって申し訳ありません、と謝って去っていった店員が、どうして肩を落としているのか分からないまま、大変満足してパフェ用スプーンを手に取った。
その時、同じ部署の女性社員たちが、三名ほど店内に入ってきた。カウンターの中央に陣取っている私に気付くと、「お疲れ様です」と声を掛けて同じ席についた。
「それ、チョコパフェですか? 美味しそうですね!」
「美味いよ。今ようやく一口目だけれど――おや、チョコとバニラアイスだけかと思ったら、なんとマーブルなアイスが出てきたぞ」
私が、思わずそれをスプーンで一口分すくって、彼女達に笑顔で自慢してみたら、カウンターにいた蝶ネクタイの中年店主が、冷静にこう言った。
「お客さん、それはチョコアイスの色が付いているだけで、本来はチョコチップアイスクリームなんです。そもそもマーブルではありません」
「ふむ。味は確かにそうだ、ポッキーの刺さっている部分もすごく冷えているし、一緒に食べると大変美味いな」
「そんなに美味しそうに食べられたら、私もケーキじゃなくてそっちがいいですッ」
「ほんと、ウチの会社の男性社員で、甘味の話が合う人って貴重ですよねぇ」
「マスターさん、私達も彼と同じものをくださいな」
三人の女性社員の中で、部署内の一番の先輩が注文した。
元々会社での昼食の際にも、食堂で甘いデザートを日頃から共に取ったりもするメンバーだったので、私たちはなんの違和感もなくデザートを共にした。
それから十分後、窓ガラスの外からこちらに気付いた同期の男性社員、カリマタとフテンマらが驚いたように入店して来て「混ぜてよ」と言って、私を挟んで女性社員たちのグループの隣に座った。
「つか、お前みたいな『仕事出来ます』的な容姿したデカい男が、カウンター陣取っていたら、外からでもめちゃくちゃ目立つぞ」
「おかげさまで、そちらの会社の方々にも、結構な確率でご愛用頂き感謝しております」
「あ。マスターさん、いえ別に悪口じゃないんですけど……あ~っと、その、俺らもハーフの方のチョコパフェください」
私はその後、相変わらず茶化されたのがよく分からなかったし、なぜ「羨ましい」と囁かられたのか理解出来ないまま、先にパフェを完食して店を出た。
気分はまさに清々しく、いつものように拭う額の汗も悪い感じはしなかった。
私は知らぬ素振りで、自作の面白い落書きを目撃するであろう自分を想像して、帰路を進みながら内心ケラケラと笑っていた。
数メートル先で、白太郎が柵の間から鼻を突き出して「くうーん」と鳴いている。『真和志さん』宅の駐車場に例のおっさん鳩がおらず、まあ仕方ないかと顔を上げた時、私の笑顔はぴしりと音を立てて凍りついた。
空き地の塀には、昨日の今日だというのに新たな色が追加されていた。私のオバケのキャラクターの絵の上を「参上参上!」と荒々しい字のアートが押し潰し、白くなったスペースには「ナメンナよ、世露死苦!」と慌ただしく書き殴ったような文字が描き残されていた。
昨日の夜にも、落書きボーイが来たのだろう。
そして宣戦布告のように、それらを描き残していったに違いない。
塀の壁に中途半端に噴射された色は、残りのスプレーペンキが少なかったのかは知らないが、前回のアートと比べて大変劣っていた。バランスも宜しくないし、何より威圧するような線の角も、濃さが足りず立体感も皆無だ。
「なんという事だ…………。絵として見られないせいで、余計に気味悪さだけが増量しているじゃないか」
私は溜息交じりに「やれやれ」と呟いて、鞄に入れたままだったスプレー缶を思い出して手に取った。振ってみるともう残量は僅かしかなかったが、それでもギャングっぽい字のアートに、大きな白いバッテン印をつけずにはいられなかった。
それが夜道にぼおっと浮かび上がるところを想像してみると、緑や黄色、赤や青が気味の悪い雰囲気を作り出してしまう事は間違いないだろう。私は残念な気持ちを抑えられずに、ペイントのアート作品の下に字を書き込んでしまっていた。
『以前の作品よりも劣る』
白い線で、ハッキリとそれを塀に浮かびあがらせた時に、私のスプレー缶の中身は底をついてしまった。
なんとなく書いてしまった置き手紙のような言葉を、自分で再度眺めて、なんだか不思議な気持ちに駆られて首を捻った。
そもそも、この伝言みたいな文字だって、まるで壁の落書きを一つのアートとして評しているようじゃないか――と、そんな阿呆みたいな事を想定した私は、しかし、それで終わるのもまんざら悪くないような気がした。
「ふむ、もうスプレー缶もない事だしな」
壁の落書きを、全部白く塗り潰したわけでもない。このまま放っておいたとしたら、彼らは昨夜には足りなかった色を調達して、すぐにこの未完成のアートを完成させてしまうだろう。
けれど、私はそれでも構わないと思った。同じ事の繰り返しはつまらないし、やってもちっとも面白味を感じそうにもない。だから、これで仕舞いだ。
「さらば、落書きボーイ」
そう壁に告げて踵を返した私は、柵に鼻をつっこむように「きゃんきゃん」と呼んできた白太郎を見て、ようやく普段と違っている事に気付いて「おや」と声を上げた。今日の白太郎は、左右と上部にピンクのゴムでイメチェンをしていたのだ。
私は心底面白くなってしまい、一人で腹を抱えてげらげらと笑ってしまった。声を押さえるようにして笑い楽しんでいたものの、途中、本気で咽て必死に呼吸を整えなければならなかった。
「ぶくくくッ、やあ白太郎、君は男の子のはずだが、今日は本当に良い髪形をしているな。――おっと、これは失礼。いずれ、もっと可愛らしくなるかもしれないな」
柵に前足を置いて立った白太郎を見て、私は途中から言葉を変えた。なんと、白太郎は女の子だったのである!
まさか、と思ったし、目鼻立ちも凛々しい犬だから、てっきり男の子だろうと疑っていなかった。思わず「すまない」と告げたのに、続けて「白太郎」と癖で言ってしまったものだから、私はまた大笑いしたくなってしまった。
「うーん、まさか自分が、犬の性別を顔で分からない男だったとはなぁ」
これは、かなり予想外である。学生時代に道端で会っていた、私が一方的に名付けていた『リボンのキャン助』や『ゴールデン号』、『黒ぶっちー一郎』と『茶助』も、もしや、どれかがメスの犬だった可能性はあるのだろうか。
その時、不意に視界の奥で何かが動いたので、私はそちらへと目を向けた。すると、そこには背中に十円ハゲの白をはりつけた例の鳩がいて、白太郎の芝生の木陰に腰を降ろしていた。
「なるほど。鳩の兄貴分は、コンクリートではなく芝生派なのか」
私は一人頷くと、白太郎に詫びと礼を告げて家へと向かった。
今日の帰り時を思い返して『白太郎』が女の子であった事と、『兄貴分の鳩』が芝生派であったらしい事を食卓で話すと、何故だか父に「将来の嫁さんが見つかるのか不安だ……」とこぼされた。結婚などすぐにしなくてもいいではないか、と答えて、私はハンバーグを口にした。
それがあまりにも美味しかったので、父の溜息の理由も忘れて、母に二回ほど白米を追加で盛ってもらった。