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 蒸し暑さは、気のせいなどではなかった。私は、額に張り付いた大量の汗を、もう何度拭ったのか分からない。


 季節はまだ六月である。五月の夕暮れは、少し肌寒いくらいだった。

 そこからどうやって急激な熱さまでいったのか、その経過をすっとばした気候を私は考えていた。しかし、いくら記憶を辿っても『次第に熱くなりかけた日々』とやらには心当たりがなかった。


 会社から自宅までの片道が、十二分という最短距離である。冷房の利いたビルから我が家への平坦な道のりは、連なる一軒家の塀が斜光を遮って影を落としている中でも、そこを弱々しく吹き抜ける風は熱風のようで汗が止まらない。

 これで黄昏か、と私は何度目かの独り事をした。


 作家を目指していた私は、大学卒業までせっせと公募を続けていたが、まあそう人生は上手くいくはずもなかった。それでも私は、諦めきれずに地元にある文章の仕事がある会社へと入社した。


 沖縄県は熱帯地域で、ひどく気候に恵まれており、だからといって青い空も海も見慣れていた私は、それをどうだと思う事もなく、十年前両親が新しく建てた一軒家から会社に通っている。既に二十六歳になっていたが、今も一つの文学賞にも名を残せてはいない。


 やれやれ、と私は再び額の汗を拭った。カリユシウェアを来た中年男性が通り過ぎ、そのなんともいえない清々しいスタイルが、すぐさま羨ましくなった。なんでこっちは背広の内部を汗だくにして歩かなければいけないのかと、既にぐちゃぐちゃになった袖地をチラリと見下ろしてしまう。


 私の退社は、午後五時二十分と決まっていた。忙しい部署もあるが、ほとんど雑用に近い私は、残業も知らないでいる。文章を書きたいのだが、なかなかその仕事にありつく事が出来ない。

 まあ焦っても仕方ないからと、私は母親譲りのマイペースな思考でもって、呑気な鼻歌などをうたったりもしていた。ただ、そんな私も、この日の暑さにだけは少々参っていたのだ。


 昨日は帰宅時にアイスクリームを食べ、一昨日はぜんざいをつっついた。更にその前日はカキ氷を口に放ばり、更にその前の日曜日は、夕刻に父の車を拝借してサーティーワンのトリプルアイスをキャンペーン価格で購入した。


 熱い時の『冷えたデザート』ばかりが夏の楽しみでもあるが、もっぱら母が作る冷やしソーメンや冷やし中華パスタがある日も、実に素敵だと感じている。今日は、珍しく買い出しを頼まれて、近くの食品店でめんつゆを購入して帰路についたところだった。


 区画整理されたこの住宅街は、夏になるとめっきり通行人の数が減る。私は、彼らは皆揃って涼しいところへ避難しているのではないか、と疑っていた。


 何せ蒸し暑い明るい黄昏の道では、車にも人にも擦れ違わなかった。いつもがらんとした家ばかりが続いていて、ガジュマルの木が生えた一軒家にいる飼い犬だけが、嬉しそうな顔をして私を見るのだ。


 その白い小型犬のマルチーズは、番犬としては全く役に立っていないような人懐っこさなのだが、私はそれを『白太郎』と呼んで可愛がっていた。――といっても、門扉の柵越しにチラリと視線を送って、にやりと挨拶をしてやるだけであるが。


 たまに、猫でも通ってくれないかなと思う事はある。見慣れ過ぎた同じ道をほぼ毎日歩くので、だから時たま、鳩やスズメに出会うと私は嬉しくなり、歩みを遅くしてじっと彼らの様子を観察した。

 花壇の花に吸い寄せられた蝶にも心引かれ、蒸し暑さに耐えきれず飛び出してきた虫が目の前を横切った時は、「うおっ」と妙な声を上げて飛び退き、そんな自分を思い返してはガハガハと笑って楽しんでいた。


 六月に入ってからというもの、私の帰宅時には、空は更に黄昏も訪れぬ明るさで帰路を照らし出すようになっていた。まだ日中のような明るさの中、私は人の気配もないまま、とぼとぼと自宅へと向かうのだ。


 白太郎は、いつも健気に私を待っていてくれているらしいが、あまりの暑さに耐えきれなかったように、芝生の奥にある木陰で伸びている事も増えていた。今日もそうであるらしく、チラリと目を向けても姿は見えなかった。


「こんなに暑いもんなぁ。全く、カリユシウェア組みが羨ましい」


 私は思わず愚痴っていた。しかし、最近は新たな楽しみが一つ増えてもいたから、続いてその地点が来るのを期待して待つ事にした。


 それは暑さにうんざりしたような鳩が、人様宅の駐車場の影に居座り、翼をだらしなく広げて仰向けに倒れているのを見た事が始まりだった。あの時は、彼が死んでしまっているのではないかと驚いたものだ。

 実際そんな事はなくて、そばを通る際に鳩は、重たい首を上げて面倒臭そうに顔だけで私の姿を追った。だらしない、それでいておっさんのような鳩の姿を見られるのは、私くらいだろうと少し誇らしくなった帰宅時間だった。


 時折、その鳩は『真和志(まわし)』さんの屋根付き駐車場にいた。この日も、すっかり私に慣れたようにぼんやりとした目を向け「よお、おっさんは今帰りかい?」と慣れ慣れしく話かけているような気さえして、私は「ふっふっふ」と笑って通り過ぎた。


 引き続き帰路を歩きながら、続いて目に留まるのは、最近になって存在感を増してきた、とあるアートだった。熱で訪れを匂わせる初夏に浮かされた少年たちが、ぽつんと佇んだ空き地の塀に「参上」やら「世露死苦」やらの字を、少々ギャングっぽくアートして大きくペイントしているのである。


 私自身は、真っ暗になったこの帰路を通る機会は滅多にないのだが、――遅くなると帰宅途中の父が私を迎えるか、買い出しの荷物持ち係を押し付けるべく母が私を迎えに来るため――街灯がぽつんとばかりしかないので、さぞかし夜にここを歩く通行人、主に女性や子供は怖いだろうなと私はいつも考えていた。


 先週からその真新しい黄色、赤、青、紫、緑が、「土地購入者募集」の看板がかかった塀で各々の色を主張しているのだ。閑静な住宅街では目立つし、強い違和感のせいで存在も浮き彫りになって、完全に通り過ぎるまでは――私個人は――目が離せないレベルである。


 今日も、その前をゆっくりと通過していた私は、ふと名案を思いついた。


「そうだ。これではいかん、何せ女性や子供が怖がってしまう夜の夏道になってしまうだろう」


 言い訳みたいな正当性を推す自論を口にして、にんまりと笑った。途端に感じていた蒸し暑さによる気だるさも吹き飛んで、私は嬉々とした足取りで自宅へと向かった。



 帰宅早々、私の顔を見た父が不審そうに眉を顰め、母が開口一番「ちょっと気持ち悪い感じになっているわよ……?」とストレートに尋ねて確認してきたが、私は別に気にならなかった。



 風呂後の冷やしソーメンを、今日は山葵(わさび)を付けて食べてみた。相変わらず非常に美味かった。私が嬉しそうに食べるものだから、母は帰宅時の疑問も忘れたかのように、満足して次々にソーメンを追加していった。


 長身の父は、同じくらいの背丈があるのに寸胴であるため、その身体を全く活かせずにいる残念な私をしばらく見つめ、「これ以上太るとモテんぞ」と一つだけ忠告してきた。私は自分の見てくれや、いまだに女性には興味が持てずにいたから「なるほど」と適当に相槌を打っていた。

 そもそも、私は自分がそんなに太っているとも思えなかった。スポーツマンで細身の父にしては、少々気になるレベルなのかもしれないが、どちらかといえば幼さの線が残っているだけだと自負している。


 ズボンにちょこっと乗ったお肉も、きっとだらしなく垂れた筋肉の一つなのだと思う。なに、鍛えてやれば、きゅっと上に戻って内側へ引っ込むだろう。


 そう考えながら、ソーメンを次々に胃へ詰め込んでいった私は、さてどうしようか、と面白い計画を頭に思い浮かべた。確か父が一度使ったきりのスプレー缶が押し入れに眠っているはずである。色は白。振った後に噴射すれば終わりである。


 すると父が、そんな私の頭の中の企みでも感知したかのように、途端にげんなりとした表情を作った。


「お前、また妙なことを企んじゃいないだろうな? もうすっかり社会人なんだぞ」

「父さん、まるで自分の一人息子が『変わり者』だっていう言い方、やめてくれません?」


 私はソーメンを口に入れたまま、もごもごとして言った。母が横でクスクスと可愛らしく笑い、父は露骨に溜息をもらした。


「お前は、どう見たって変わり者だよ。昔っから妙な事で一人楽しむような、けれど一見すると無害で大人しい子供だった」

「無害な子供心の気性を残したまま大人になれたなんて、やっぱり父さんと母さんの教育が良かったんでしょうね」

「お前、俺の話を真面目に聞いているのか?」

「あ。このソーメン、双子だ」


 私は、箸で持ち上げた白い細メンが、料理の過程でぴったりとくっついている様を目に留めて、そう口にした。母が「鍋の底の熱でくっついてしまったのね」と言い、「なるほど」と頷く。

 もしかすると、三つ子のソーメンもどこかに隠れているかもしれない。


「父さん。ソーメンが三つ連なっていたら、是非こちらに回してください」


 真面目な顔をして言う私に、父は頷き返すわけでもなくソーメンをすすった。

 その汁がちゅるりと軽快にテーブルの上に飛ぶのが見えて、私は「あ」と声を上げたのだった。

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