極・ヒルクライマー!(一夜限定スズナリの会)
Special thanks:錫 蒔隆さん
朝の大阪は見事な快晴だった。中央大通の先、澄み渡った空の下で、あの場所が俺を歓迎している。天気が良いことがなによりの証拠。霜月の心地よい風も俺の味方だ。
中央大通で体を温めたあと、新石切の高架をくぐり、国道170号線を南下する。道は一気に狭くなり、路線バスが通るとヒヤヒヤする。だが、これでビビッていてはあの場所を制覇できない。これもウォーミングアップの一つだ。
新石切から一キロほど下った交差点を左折する。今まで平坦だった道は緩やかな上り坂に変わり、生駒山地へと伸びている。俺の目指す頂は、森の奥に隠れている。ときおり見える308と書かれた逆三角が、正しい道であることを示している。
この先には軽自動車しか通れない狭路に、日本の国道で最も急な、31%の勾配が待ち受けている。あまりの過酷さから『酷道』と呼ばれるこの道は、負の吸引力を宿し、全国のヒルクライマーたちを集めている。
俺はもちろん知っていた。だが、走破できる体力がなかったのだ。だから別の峠でトレーニングを重ね、この日に備えてきた。
今日、俺は酷道308号線暗峠の無着地走破に挑戦する。そして、ヒルクライマーの勲章を手に入れるのだ!
俺は王妃の瞳をたたえたバイクを相棒に、最後の青信号を走り抜けた。
近鉄のガード下を抜けると、奇妙な看板が立っていた。複雑に迷走する一方通行、その先端に308と記された逆三角と奈良への矢印が描かれている。ここから先は暗峠、一度も足を着いてはならない。
すでに見える道もすでに急勾配の狭路だ。温めた体だといえども妙な力が入ってしまう。
ふと右手を見ると、神社が見えた。木々に覆われた大きな神社は、河内国一宮の枚岡神社だ。
ここは一度、お参りしようか。神頼みは好かないが、変な緊張が解けるのなら十分だ。スポーツ選手だってお参りしている。走破のためには験担ぎも必要だ。俺は枚岡神社のそばに自転車を立てかけ、暗峠走破を祈願した。気持ちのわだかまりが一気に消えたような気がした。
しかし神社に長居はできない。交通量が増えてしまったら、俺の挑戦はむなしく終わってしまう。枚岡神社を後にした俺は一気に加速する。ビンディングペダルに足をかけ、酷道308号暗峠に踏み入れた。
いきなり襲う急勾配。ギアを合わせたといえど、かなりきつい。速度は緩やかに落ちていく。だからといって、必死に速度を維持しようとしてはならない。これから長い急勾配が続く。持久戦と同じ戦略で体力を温存し、かつ一定以上のスピードで走り続ける必要がある。
だが、スピードを維持するにも障害がある。峠に踏み入れた瞬間から、アスファルトは〇印の舗装に変わる。おそらく自動車用の滑り止めだろうが、ロードバイクにとってはスピードを落とす障壁だ。この峠では、常にブレーキをかけられながら走ることになる。
道の横に『八土-○○』の看板が見えた。この看板の意味を俺は知らない。ただ峠中にこの看板があり、上るごとに2ずつ数字が増えていくことは知っている。頂上には『八土-162』の看板があるらしい。さっき見たのはまだ50台。でも、こんなものに構っている余裕はない。
あれこれ考えるのは止めにしよう。俺はまっすぐ前を見て急勾配を上っていった。
突如、視界に白い車が現れた。それは普通の軽自動車、乗っているのは地元の人だろうか。車とほぼ同じ幅の道をするすると下っていく。
これはまずい。自転車とはいえ、すれ違いは困難、俺の挑戦は早くも失敗に終わってしまう。ゆっくり上る俺の自転車に対し、車は勢いよく迫ってくる。向こうが止まる気は一切ない、距離はどんどん縮まってゆく。
よく見ると、俺と車の間には交差点があった。あの車は必ずしも直進とは限らない。だが、まっすぐ来たら俺は自転車を降りなければならない。もちろん挑戦は失敗だ。
白い車は小さな交差点に差しかかる。どうか、曲がってくれと俺は願った。足を回転させながら祈った。
軽自動車はウインカーを点滅させた。祈りが通じた瞬間だった。枚岡神社にお参りしたのが功を奏したのか、俺の挑戦は続いている。
車が右に曲がった後には緑が見えてきた。この一帯は枚岡梅林、春になれば桃色の花と梅香に包まれる。だが、霜月の梅林に華はない。そもそも、今の俺は色を見るだけで精一杯だ。ただ前を見つめて坂を上る、余裕をかましている暇はない。そのまま、梅林の山へと自転車を駆った。
山の中に入ると、一気に空気が冷えてきた。熱を帯びた体にはちょうどいい、体力の消耗を抑えてくれる。道の両側に住宅が並び、いつ車が出てくるか分からない狭路だったのが、ここでは道幅は少し広がり、通るのは登山客数人だけだ。舗装の状況に変わりはないが、障害が一つ減った。
でも油断してはならない。これから先、急勾配区間が待ち受けている。俺はただひたすら上る、それだけを意識するよう言い聞かせ、こぎ続けた。
やはり、先ほどの楽観はすぐ裏切られた。山の道は過酷だった。住宅地より急な坂が延々と続き、木々に覆われ先は一切見えない。冷えた空気の中でも汗が滴ってくる。ドリンクホルダーに手を伸ばすが、補給している余裕はほとんどない。
加えて、重大な障害が増えていた。山の中の道には、住宅街になかった数センチほどの排水路が横切っている。排水路を通るたび、車体を振動させスピードを落とす。それに、車輪が細いロードバイクの場合、低速で突っ込むと溝にタイヤを取られてしまう。そうなったら転倒必至、極めて危険だ。そんな溝が何本も通っている。道路の幅が多少広いとはいえ、住宅街よりメンタルにくる。
道の脇には駐車場があった。どこのものか分からないが、こういった所があることは、ここも車が通る場所なんだろう。
背後から聞こえるエンジン音。やはり車が走っている。俺が左に寄ると、黒い車がうなりを上げて横を通り過ぎていった。
車はどんどん離れていく。狭路を難なく通過するさまを見る限り、よほど手慣れたドライバーなのだろう。車はわずかの時間で、木々の向こうに消えてしまった。
俺は孤独になった。登山客もいない道で一人ロードバイクを駆っている。もはやスピードは徒歩より少し速い程度だ。横には『八土-110』の看板が見える。意識するつもりはなかったが、今ではこの看板の数字が俺の伴走者になっている。
ベタベタに汗を流しながら、こぎ進める。すると、前方に光が見えてきた。同時に勾配はさらに大きくなっていった。
〇舗装に黒いタイヤ痕が走っている。車が上り切れず、悲鳴を上げた跡だ。
峠の途中で珍しいほどに明るい場所。天から注ぐ光は祝福の光ではない。ヒルクライマーの諦めを誘う地獄の光だ。
そう。ここは最急勾配31%の場所なのだ。
俺の自転車の速度はさらに衰え、歩くスピードにも劣る。勾配を避けるため、左に寄り力を振り絞る。だが、今までの坂で筋肉は悲鳴を上げ、思うように進んでくれない。
止まりそうだった。筋肉が壊れそうな感覚だった。
その横で、俺の自転車をゆっくり抜いていく自転車があった。凄腕のヒルクライマー!? と一瞬思った。だが、実際は想像とは程遠い普通のおっさん。乗っているのは電動アシスト自転車だった。
俺の中で対抗心が沸いた。俺は自力で上っているんだ、あんな電動自転車に負けてたまるものか。
全身の筋肉に力が入る。自転車はU字カーブをゆっくりと上がり、最急勾配を越えていく。徒歩にも劣るスピードは、おっさんの電動自転車と同じになった。
最急勾配を過ぎ、再び森の中に入っていく。勾配はまだきつい。俺の筋肉は間違いなく限界に達している。それは電動自転車も一緒、あまりの急坂を前に本領を発揮できないのだ。
いつもは電動自転車などに負けない俺だが、暗峠では圧倒的にあちらが有利。労せず上っていくおっさんは腹立たしいが、ほどよく落ちたスピードで、今は立派な伴走者になってくれている。いろいろ負の感情が渦巻くが、孤独に比べれば、おっさんと電動アシスト自転車の存在は、ありがたかった。
最急勾配区間が過ぎ、水場を通りすぎたころ、一気に車体が軽くなった。さっきに比べ、一気に勾配が緩んだのだ。例の看板の文字も今なら見る余裕がある。横にある看板は『八土-136』となっていた。
車体が軽くなったことで、電動アシスト自転車のおっさんとの距離は徐々に縮まっていく。そして、開けた棚田が見えたとき、俺はおっさんの横に入り、ゆっくりと追い抜いていった。
田んぼ沿いの道を走っていると、分岐を迎える。一方はお寺の参道、もう一方は酷道308号暗峠。標識によると左が正しい道だが……。その道を見たとき、俺は不安感を抱いた。
現れたのはまたしても狭路。軽自動車が通れば道が塞がる、そんな道だった。看板の数字は140台となっている、暗峠はもう終盤だ。車が来る前に一気に上り切らなければならない。俺は最後の力を振り絞って、左側の上り坂を進んでいった。
酷道308号は峠付近の住宅街を抜けていく。深い峠の中だが、昔は宿場町だったのだ。その名残が現代にも受け継がれている。狭路と住宅街、悪条件が重なるなか、一度緩んだ勾配が再び急になった。
自転車の速度はまた落ちていく。全身の筋肉が悲鳴をあげ、思うように進まない。全身を伝う汗と狭路の圧迫感が不快極まりない。
峠の頂上ということで登山客が大勢いる。片側に寄っているから大丈夫だが、狭い道では気をつかう。辺りは完全に住宅だらけになり、登山客も相まって、道の狭さはスタート地点の比ではない。車が来たら終わり。俺は懸命にペダルをこいだ……。
目の前に影が現れた。道の右手から左折してくる黒の軽自動車。それはゆっくり顔を出し、酷道308号線を占領していく。30メートル向こうの運転手に俺の姿は見えていない。いや、見えても一緒だったかもしれない。軽自動車は道幅のほぼ全てを使い、こちらへ向かってくる。容赦なく迫ってくる。
残り10メートル……。車は避けも止まりもしない。もう限界だった。
ビンディングペダルを外し、民家の門前に身を寄せた。目の前を車が走り抜けていく。ちらりと見えた運転手に表情はない。ただ淡々と走り抜けていく。
近くには『八土ー154』の標識が見える。もうすぐだった。頂上までもうすぐだったのに……。あの軽自動車が来なければ、俺があと30秒早ければ、ヒルクライマーの勲章が手に入ったのに……。俺は自分を、あの車を恨み、こぶしを腰にぶつけた。
もう、足を着いてしまった。限界に達した筋肉では、再挑戦などできない。せめて、全経路をロードバイクで完走しよう。それが俺にとっての妥協案だった。
登山客が少ないタイミングを見計らって、坂道発進する。もう勾配は緩いとはいえ、疲労した筋肉で速度ゼロからスタートするのは厳しかった。ふらつき、ジグザグに走りながら速度を上げていく。まっすぐ走れるようになったのは、『八土ー156』の標識を過ぎたころだった。
道はしだいに、〇舗装から石畳へと姿を変えた。家々には『おいせまいり』の文字が飾られ、昔の名残を見せている。道は平坦になり、県境の標識と石碑が見える。俺は力を振り絞った。
少しずつ近づく標識と石碑。横には頂上の『八土ー162』の標識が見え、ついに『暗峠』の石碑にたどり着いた。ここから先は奈良県生駒市。峠の最高点を今、越えたのだ。
ついにやり切ったのだ! 俺は一瞬、喜んだ。
だが、心の中に悔しさがあふれたのはすぐだった。上り切る直前の一回の着地が許せない。今の喜びはただのかりそめ。本当の目標は達成できていない。暗峠無着地走破というヒルクライマーの極みに、俺はまだ達していないのだ。
だからといって、再チャレンジはできない。もう筋肉は悲鳴を上げている。もう出直すしかない。それが俺の悔しさを増幅させた。
頂上の軽食屋に入り、カレーを頼むと、おばちゃんがノートを持ってきた。
出されたペンを持ってノートを開く。そこにはたくさんのヒルクライマーたちが記した、栄光の証が刻まれている。あまりにも多い不着地登頂の数々に俺は思った。
嘘だ。
この峠には長い急坂、狭路の自動車、悪い路面。ロードバイクの敵がたくさんあるのだ。ここに記されている栄光の全てが本物だとは思えなかった。
俺も便乗して、『暗峠、無着地走破。やったぜ!』と書いてやろうかと思った。もしくは『クソ、あの車め』と呪いの文句を書こうとも思った。
でも、俺にはできなかった。ヒルクライマーとして自分を偽ることなど許せなかった。それに挑戦の失敗を車のせいにするなど、かっこ悪いマネをしたくはなかった。
だから、俺は書き殴った。
『今度こそは無着地走破を決めてやる! 待ってろよ暗峠!』
暗峠は待ってくれる。ヒルクライマーの挑戦を毎日受け入れてくれる。挑み続けさえすれば、チャンスは何度も与えてくれる。
カレーを食べながら俺は誓う。来週もここへ来ようと。車の通らない早い時間に来て、次こそは極・ヒルクライマーの勲章をつかみ取ってやると。
俺はこの峠に焦がれてやまない。
お題:自転車
なお、作者はヘタレのため、無着地走破したことはありません。いや、作中の男が凄すぎるのです。こんな奴いるのかってほど。