終章 戻ってきた日常
誰かが名前を呼んでいる。
ユレイオンは身じろぎした。
確か先ほどまで魔術教練の一環で模擬実演をしていたはずだ。呪文を唱えて手を振り上げようとしたが、声が出ず、手が上がらない。生徒たちから心配する声が上がった。その声がどんどん大きくなる。
――心配するな、すぐ治る。
こほん、と一つ咳をして、ユレイオンは目を開けた。
「なぁんや、ユーリ。目ぇ覚めたんか。つまらんのぉ」
息がかかるほどの至近距離に金色の瞳があった。金髪が頬をくすぐる。
「……降りろ、重い」
ユレイオンは目を眇めて思いっきり睨みつける。
――こいつが乗っていたせいで体が動かなかったのか。
ちぇっ、と舌打ちして相棒はベッドから降りた。ようやく解放されたユレイオンは上体を起こす。頭がくらりとするのはいつものことだ。低血圧な自分が恨めしい。
「シャイレンドル様、ユレイオン様は起きられました?」
戸口の方から声が飛んでくる。ファローンの声だ。
「ああ、ようやく起きたで」
「じゃあ、朝ごはんの用意しますね」
パタパタと足音が遠ざかる。
「ほな先行っとくわ。はよ来んと食うもんなくなるで」
けらけら笑いながら相棒も出ていく。ユレイオンはやれやれ、と首を振ってベッドから起き上がった。
いつものように黒いローブで身を包み、額にサークレットをつけて部屋を出ると、部屋に面した中庭の回廊には太陽の光が降り注いでいた。下層から聞こえて来る喧騒は初級クラスの子どもたちの声だろう。
いつもの日常が戻ってきた。
復帰第一日目の今日からは魔術教練やファローンたちの訓練など、以前と同じようなスケジュールが待っている。
アダから帰ってきてずいぶん経った。思ったより長く休む羽目になったが、おかげで体は完全に回復している。
休んでいる間にファローンはセインから魔術の手ほどきを受け、相性の良い風魔術から段々と使えるようになってきていた。少なくとも回廊を一階から最上階まで、何回かに分ければ上がれるようになった。
正式に塔の魔術師として鍛錬を始めることになって、審神が行われ、ファローンは授与式では塔長から銅五位のサークレットを授かった。
また、扱いも他の魔術師の卵たちと同じになり、彼の部屋は一階にほど近い大部屋に移された。これについてはクロンカイト王から塔へ強い要請があったものの、最終的にはファローンの希望が受け入れられた。
だから、今はセインもファローンも下の階から毎朝登ってくる。
姿見をちらりと見て、ユレイオンは戸口へ向かう。
いつもの日常の始まりだ。
「御館様、本当に出席なさらなくてよかったのでございますか?」
黒髪の侍従が恐る恐る戸口から声をかける。窓際に寄せた長椅子にゆったりと体を横たえ、目を閉じていた銀の公子はゆっくりとその長いまつげを揺らした。
「元婚約者が未練がましく顔を出せるものではないだろう? それに、ケイラスも元婚約者の私に対して公にどういう顔をしていいのか困るだろう」
「しかし……」
「いいんだよ」
ほんのりと微笑んで、ウェルノールは身を起こした。
「これは私とイファンが敷いた道にケイラスが乗っただけのことだ。彼にはそれを拒否することもできた。でも、彼はこの道を選んだ。私が演出したのは二人の劇的な出会い。それだけだよ」
「わたしの協力も忘れないでよね?」
長椅子の前の床に青い布を敷いて座り込んだ楽師が楽器を爪弾きながら口を開く。
「もちろん。君の協力なしではなし得なかったからね」
手を伸ばして楽師の髪をさらりと撫でる。楽師は嬉しそうに目を細める。
「それにしても、君を呼ばないなんてケイラスもつまらない気の回し方をするね」
「……あら、それは喜んでいいのかしら?」
「もちろん、寂しい思いをしている元婚約者だった男をなぐさめてくれるんだろう?」
くすっと笑ってマウレシアは楽器を床に置き、ウェルノールの座る長椅子ににじり寄った。
「御館様、しかし、あの件は」
「せっかくイファンがお忍びで来てるんだ。任せておけばいいだろう?」
エーリックの言葉に銀の公子は答え、楽師の唇を啄む。
「それに、イファンと会うのは明日の夜だ。それまでは存分に慰めてもらうよ?」
前半は侍従に、後半は楽師に向けた言葉だった。
エーリックはあきらめ、礼をすると部屋を出ていった。
「本当にいいの? あの子、あなたにお礼を言いたがっていたのに」
ウェルノールは楽師を引っ張り上げると腕の中にすっぽりと囲い込んだ。
「わたしはザイアスの計画上必要な駒だった。ただそれだけだよ。傷心の彼女はケイラスに出会い、恋をした。礼などいらないよ。それにケイラスの妻になるんだ。これから会う機会などいくらでもある」
マウレシアは振り向いて男の銀の髪を手で梳き、微笑んだ。
「でも、いいのかしら? 玄関にお迎えが来たようよ?」
耳を澄ますと、馬車の音が聞こえる。ウェルノールは少しだけ眉根を寄せた。
「マウレシア……君、知っていたね?」
「さあ? わたしの迎えが来ることは知っていたけれど」
悩ましげに唇を重ねると楽師は身をくねらせて長椅子から起き上がった。
銀の公子は苦笑して髪をかきあげた。
「まったく……君にはかなわないな。――エーリック」
「はい」
部屋の扉を開けて侍従が入ってきた。
「衣装の用意を。――出かけてくる」
「承知いたしました」
顔を上げたエーリックの顔には安堵の色が浮かんでいた。
この日執り行われたモントレー家令嬢ユーフェミアの婚礼と、その後に開かれた披露宴兼夜会に招かれた人々は、ここにいるはずのない『国王陛下』そっくりの男性と、めったに社交界に顔を出さない『銀の公子』の登場に大いに湧いたという。
あと一話、後日譚で本作品は完結となります。




