アダの聖域ふたたび
「また闇かいな」
足が地につくと、シャイレンドルは毒づいた。どこまで行っても常に闇の空間が待ち構えている。今だってまだ黒魔術師の罠の中だ。
それに、時々妙な記憶がフラッシュバックする。闇の中の赤い記憶。とうに克服済みの記憶に用はないが、不愉快だ。
「ここは?」
ユレイオンは手妻を試してみた。魔法の封じはかかっていないようで、普通に明かりが灯る。ついでに幾つもの明かりをあちこちにばらまいてみたが、どこまでも飛んで行く。思ったよりこの空間は広いらしい。
二人の影がいくつも地面に伸びる。先ほどまでいた部屋の硬い床と違い、柔らかい感触。一歩踏み出すと、さらさらと砂が音を立て、足がめり込んだ。
「砂? 郊外の砂漠にでも飛ばされたか?」
「ユレイオン……気ぃつかへんか」
シャイレンドルは立ち尽くしたまま、押し殺したように言う。
「何?」
ユレイオンは振り向き、相棒の視線をたどり、口を閉じた。
目の前に巨大な黒い像が立っている。封印されているようだが、封印されていてもなお黒い気配が滲み出ているのがわかる。
なぜ気が付かなかったのだろう。これほど圧倒的な気配に。
「これは、黒い馬? ……まさか」
黄色い明かりの中に浮かぶ黒い塊。身長の倍ほどもある威風堂々とした黒馬の右目の部分は、落ち窪んで影ができていた。
「ああ、地の聖獣やな。てぇことは、ここはアダの聖域か」
右手で額を拭う。気を張っていないと聖獣の気配に圧倒されてしまう。しかもこの像は聖獣の体そのものだ。かけらでしかなかったメルキトとは比べ物にならない。
「アダの聖域だと? こんなもの、報告になかったじゃないか」
「ああ、ここまで来られへんかったからな」
白氏の乱入さえなければ、この場所への道は探しだせていただろう。その自信はある。だが、ラナリアの屋敷の塔からここに飛ばされた。ということは……。
「あの爺ぃ、アダの件にも関わっとったんかいな」
「爺? おまえ、敵に遭遇したのか? 聞いてないぞ」
拗ねたような責める物言いに、シャイレンドルは首をすくめる。
「言う暇あれへんかっただけやって。まあ、でも闇堕ちした魔術師なんは間違いないやろな。それにしてもまぁ、こんなトコに呼びこまれるたぁな」
白装束の二人を思い出して顔をしかめた。特にあの女には二度と近寄るなときつく言われたばかりだ。不可抗力と言って納得してもらえるかどうか。
「おまえの話だと、アダの聖域は白氏の司によって封印されたんだろう? こうもやすやすと入れるはずがない」
ユレイオンの疑問に、金の魔術師はうなずいた。
「ああそうや。聖獣本人であっても入れんようにするゆーとった。それに像自体はちゃんと封印されとる。せやなかったらこの黒い気配、こんなもんで済まへん。ここに出た瞬間に押しつぶされとるで」
「アダの聖獣は依り代を持って聖域を離れた、とも言ったよな」
「せや」
「ならばなぜ、これほどの気配がある。聖像に残る残渣程度ならわかるが、そうじゃない」
ユレイオンは残りの言葉を飲み込んだ。
シャイレンドルはうなずいた。
まだここに聖獣がいるのではないか。その疑問は当然だろう。
鏡から現れた悪意の王は自由と奔放を愛する力の塊だと自らを呼んでいた。では、ここに残るのが闇と死を司る力の塊なのではないか。
聖でも魔でもない、力そのもの。
不意にぞわっと毛の逆立つほどの悪意を感じる。
――去れ、人の子らよ。我が眠りを妨げるな。
頭の中で声が響く。
「それができりゃ苦労してねぇよ」
「ここでアダの司が気がつくのを待つしかないのか?」
「いつ気がつくか分からない助けなんざ待ってる暇あれへん。塔に入ってからどんだけ時間が経ったんか、わかればええんやけどな」
「一日は経ってないんじゃないか? 多少のサンドイッチを摘んだだけだが、それほど腹は減っていない」
だがシャイレンドルは首を振った。
「せやったらええけどな。アダの結界内で半刻ほどしかいなかったはずやのに、外に出たら半日経っとった。もしすでに一日経ってたとしたら、わいらはもう一月半も行方不明になっとるっちゅーことや」
「一月半……」
ユレイオンは暗澹たる面持ちになった。
それは、絶望的な時間の経過だ。ファローンを取り戻すどころか、肝心の時に動けなかったことになる。
「とにかく待っとる余裕はあれへん。モントレーのおっさんが闇魔術師と地の王を操って何やらかそうとしてるんか知らんけど、一刻も早くこっから出んと」
「――煩いのう」
子供のような高い声で、しかし老人のような気だるいセリフが聞こえた。




