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ユレイオンの闇

 さらさらさら。

 目を開くと金色の原が広がっていた。

 あたり一面の金色。ユレイオンの背丈ほどもある高い草が風になびいて音をたてる。

 ――幻覚だ。

 だが、目を閉じても風の匂いは変わらない。

 夕暮れの訪れる少し前、明るい昼が優しい夜へと舞台を譲る準備を始める時刻。光が少し傾いて柔らかくなり、それでも十分な明るさを保っている時刻。

 さらさら。

 優しい音だ。遠くで笑い声がした。

 ざざざーっ。誰かが原を駆けていく。涼やかな笑い声。呼び交わしている。どこか懐かしい声。だが、草に遮られて姿は見えない。時折、そよぐ草の間になびいた黒髪だけが透けて見える。

 突然草が割れた。人一人分の空き地。そこに女が一人、立っていた。

 黒髪をひとつに編んだ、草原の民の女。少しつり上がった一重の目は石炭の黒で、まとったゆるい衣装は様々な色の縞が入っている。化粧もしていない顔はまだ若い。

「ユレイオン」

 女が彼の名を呼んだ。低めのアルトだった。

「わたしよ」

 知らない女だ。名を呼ばれる覚えがない。だが、女は眉をひそめて繰り返す。

「わたしよ、判らないの?」

「悪いが私はあなたを知らない」

 ユレイオンは答えた。

 これも幻覚のはずだ。だが、こんな幻覚で何をしようというのだろう。

 女は悲しげな顔をする。

「……これならどう?」

 女がパンと手を打ち合わせる。同時に女の姿が一変した。

 結い上げた黒髪には絹の髪飾り、あわせてドレスは緑のタフタ。ラナリア風の装いだ。耳に揺れる小さな金の耳飾りだけが異国の香りを残している。風に揺れてちりちりと鳴るその音に、かすかな記憶があった。

 でもまさか、そんなはずは……。

「私はおまえの母親じゃないの、生みの母の顔も忘れたの?」

 悲しそうな顔。胸が痛い。

 そう、母親。幼いころ自分を置いて出て行った、本当の母親。異国の出の、父の愛妾。

「おまえを忘れたことはなかったわ。別れてからずっと心配していた。元気でいるか、病気なんかさいてやしないか、あの屋敷でいじめられてやしないか……」

 伸ばした女の手が近づく。一瞬身を固くしたユレイオンを構わず抱きしめる。その体は暖かかった。

「会いたかったわ。ずっとずっと会いたかった……」

 語尾が揺れる。涙が頬を伝い落ちる。それは本物に見えた。

「……でもおまえは許してくれないでしょうね。……おまえを捨てて出ていった母親なぞ」

 細い肩が震えた。

「でも、私だって……私だって、かあさまと慕う小さなおまえを残していくのはどんなにつらかったか……」

「母上……」

 幻覚なのはわかっていた。これは自分の願望なのだ。自分を捨てて出ていった母親に会いたかった。おまえを忘れていないのだと、今でもおまえが大事だと、そう言って欲しかった。実の母親にとって、自分が何の意味もないものではなかったのだと、誰かに証明して欲しかった。

 これは幻覚だ。

 言い聞かせていなければ忘れそうになる。腕の中の母親の体は、現実と同じぬくもりを備えている。胸を濡らす涙も、腕をつかむ指も本物だと訴えている。

 だが、ここは黒魔術の結界の中。信じれば敵の罠にはまる。

 ユレイオンは先ほどの失態を忘れていなかった。自分の不覚のために、相棒に深い傷を負わせてしまった。傷は、おそらく助かってもあとまで生涯が残るほど深いだろう。自分がどれだけ相棒の左腕の代わりを務めても、生身の腕にはかなわない。

 もう二度と、術にハマって相棒を傷つける真似だけはするまい。そう誓ったのだ。

 それでも、泣いてすがる母親を突き飛ばすことができない。これは自分が欲しかったもの。他人の作り出した幻だとしても、一瞬でも長く感じていたかった。

 幻の母親は一番欲しかった言葉を投げかけた。

「さあ、ユレイオン。この草原で一緒に暮らしましょう。おまえを迎えに来たのよ」

 取りすがった母親は甘やかにかき口説く。

「やっと迎えに来ることができたのよ。離れているのはこれが最後。この母と一緒にいておくれ」

 長い間、望んできた言葉。だが、ここが夢の終わりだ。

「ユレイオン、草原はいいところよ。いいえ、おまえが望むなら街の中でもいい」

 息子の腕をつかんで、彼女は懇願した。

「おまえの望むことならなんでもしてあげる。だから……お願い、ユーリ。愛しているのよ!」

 ユーリ……そう、自分のことを母親だけは確かにそう呼んでいた。他に呼ぶ者はいなかったから、とうに忘れてしまっていた。相棒が口にするたび、あれほど気に触ったのはこのせいなのだ。もはや呼ぶ人もなくなった愛称。本人でさえ忘れかけていた記憶を、幻は突きつけてくる。

「母上……一つだけお願いがあります」

 呼びかける。母親がぱっと顔を上げた。輝くような笑顔だ。

「何でもかなえてあげるわ。ここにいてくれるのね?」

 頬に残る涙の跡が痛々しかった。だが、魔術師は返すべき言葉を知っていた。

「……ここから出る方法を教えて下さい」

「ユレイオン!」

 悲鳴のように叫んで、よろめくように倒れる。膝にすがりついて彼女は哀願した。

「どうしてなの? 何が気に入らないの。ずっとおまえを愛していたのよ。恨んでいてもいいわ。今になってわたしを捨てないで……!」

「恨んでは……いません」

 泣き崩れる母親は現実そのものだ。地面に溢れる涙のその一粒まで。

「……だが、あなたは幻だ。本当の母ではない」

「ユレイオン……」

「出口を教えてください……あなたに望むことはそれだけだ」

 きっぱりと言い放つ。

 足元に崩れた女を抱き起こしたかった。本物にしか見えない女に、せめて手をさしのべたかった。

 だが、それをすれば感情に飲み込まれてしまう自分の弱さを、ユレイオンは承知していた。


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