ユレイオン、闇に嗤う
「どこにいる! シャイレンドル」
その声だけが虚しく虚空へと吸い込まれる。
視覚は完全に閉ざされていた。無意識のうちに明かりを呼びだそうとする。ランタンほどの小さな明かりを呼び出すのは、初歩の手妻だ。
だが、明かりは現れなかった。視界は闇に塗りつぶされたまま、何の変化も見せない。
一瞬の空白のあと、氷のように冷たい認識が心臓をつかむ。
――ここでは力が使えない。
二度目を試す勇気はなかった。
結界のせいか。
シャイレンドルはこの闇を幻覚だと言った。どちらにせよこの空間は閉ざされている。閉じているのは敵の……黒魔術の結界だ。
ぞくり。
何かが近寄ってくる気配がする。
何か、形のつかめないもの。不定形の、害意だけは持っている何か。
何も見えないのはわかっていたが、振り向かずにはいられなかった。向きを変えれば気配は背後に現れる。
この気配をユレイオンは知っていた。
幼いころ、脅かされた影たち。それらは大した害をなすわけではない。ただ、子供だった自分を脅かし、からかっては冷たい指の跡を残していった。明るいところには決して出てこない、闇の住人。
そいつらを恐れなくなったのは、それらが人の領域……陽の領域では力を持たないと教えられてからだった。
過敏に闇におびえる子供。館に招かれた呪い師はこう言った。
「あれはこの世をさまよう微弱な邪霊や亡者たち。人とは相反したものゆえ、人の暮らす領域とは別の次元で存在しているもの。あれたちの力は微弱ゆえ、自力でその次元を超え、人に害を及ぼすことはありえない。もっとも、人里離れた辺境や、聖域のような、界の半分ずれたようなところではその限りではないがな」
塔に入ってから連中のことは調べ直した。人ならぬものではあっても力もレベルも低級な彼らは、精霊たちと違って界を超えて人界に介入することはない。
呪い師の言ったことは正しかった。だいたいが一部の子供や自分のように魔力に関わった者を除けば、普通の人間にはそれらの存在をまず感じることが出来ないのだ。連中も連中を感じ取ることも出来ぬ人々に害を及ぼすことは出来ない。
確かに、灯明の光を突きつけても驚き逃げていく連中だった。ユレイオンが成長した後も、自分たちが見える相手が珍しいのか、時折姿を現したが、その時も聞こえぬ声で嘲笑って消えていくだけだった。連中にできるのは、せいぜい怯える子供に悪夢を見せることぐらいなものだ。
だが、今は違う。
聞こえぬどころか、明らかなざわめきが周囲で起こっていた。耳障りな、湿っぽい、声らしきもの。
いつになく気配が近く、現実の人間と変わらないはっきりとした気配を持つもの。これほどはっきりした悪意を感じたのも初めてだった。さっきからかすかに漂っていた腐敗臭が次第にはっきりしたものになる。
ひゅっと空を切って何かが飛んだ。思わず避けたユレイオンの頬が切れる。気配は瞬時に入れ替わった。頬をぬるりとしたものが滴っていく。
文目もわからぬ闇の中。
――奴らは人の領域では害をなさない……。
かつて自分を安心させた呪い師の言葉が不吉によみがえる。
ここは、人の領域ではない。黒魔術師の築いた黒の結界の中。彼らの領域の中。
呼吸が聞こえる。ユレイオンのものではない。複数の獣のような呼吸音、牙のかち合う音。長年狙ってやっと手が届くようになった獲物を狙う舌なめずりの音。粘液が滴る音までが鮮明に耳に届いた。
ひゅっと気配が飛ぶ。喉を狙っているのだ。急所をかばって上げた腕をすり抜け、見えない牙が喉をかすめていく。
踏み応えた足に鋭い痛みが走った。何かが食らいついている。だが、払った手は虚しく空を切った。
暗闇の中でどこへ走ろうと、呼吸が追いかけてくる。生臭い匂い。だが、攻撃は気配と関わりなく襲う場所を選ばない。
腕も、足からも血のにおいがした。肩、喉、腹、あらゆる場所を狙いながらも致命傷は与えない。軽く噛み裂いてなぶる。猫がネズミを弄ぶように、彼らはユレイオンがぎりぎり避けられるように攻撃を仕掛けてくる。動けなくなるまでこうやって遊ぶつもりなのだ。
食いしばった歯がギリリと鳴る。口の中も鉄のにおいがした。
完全に遊ばれている。だが、もう思考をまとめることも出来なかった。一瞬刻みの攻撃を避け、追われるままに走らねばならない。心臓も肺もとうに悲鳴をあげていたが、速度をゆるめることはできない。四方を囲む気配がそれを許さなかった。
追う気配が集まりつつあった。ユレイオンを追い立てながら、四方から好き勝手に食いついていた気配が次第に背後に固まろうとしている。
「……とどめを刺す気か」
背後の気配が凝縮する。哀れに追い立てられながらもこの機会を待っていたユレイオンは、残った気配をかき集めて呪文を唱え、叩きつけた。と同時に何かに足を取られた。
破壊の呪文。
そこに何か物質があったなら、何らかのダメージを受けたはずだ。
転倒したまま、ユレイオンはその場所を振り返った。たしかに散らされたらしいそれらは、しかしさほどの打撃を受けたようには見えなかった。打ち砕かれた気配が再び集まり、固まりを作ろうとしている。
何一つ見えなかった闇の中で、それはぼうっと燐光を放った。再び集まったそれは、歪んではいたが人の形をしていた。
「……そうか」
かすれた喉から声が漏れる。
「やっとその形をとるか……」
自然に笑いがこみ上げてくる。
――今までよくもなぶってくれたな。
多少の実体があるならば、それに対して反撃ができる。しかも、それが見えるというならば……。
くくっと喉が鳴った。その調子が外れつつあるのにユレイオンは気づかない。
足元を探ると、先刻足を取られたものが手に当たる鋼の剣らしい。
武術の訓練を受けたのははるか昔だというのに、その柄は手にしっくりとなじんだ。これなら戦える。奴らと戦うことができる。
燐光を放つ人影は、死人の兵士だ。甲冑の隙間から腐敗した肉が溶けかけている。半分骨となった指が執念深く剣をつかむ。その姿に目を据えて、魔術師はゆらりと立ち上がった。




