塔長、来訪者を誘う
それからふと人の気配を感じて顔を上げる。
彼の手によって白き障壁がシルミウムの塔や附属施設全体に張り巡らされているが、それを超えて侵入を試みる者がいる。それをいち早く察知して、この気配が実に懐かしいものであることに気づく。
急いで侍従たちを下がらせ、自分の私室に戻り、しばらく呼ぶまでは人を入れぬように命じて扉に内側から鍵をかけた。
そして、外に面した大きな窓を開けた。
そこに青白い影が浮かんでいた。見慣れない……いや、見慣れたはずの変わり果てた姿。
「そこは暑いだろう。こちらへ入らないかね?」
実体を持たぬ影のみにすら、シュワラジーは心遣いを見せた。
影は迷うことなくその導きに応じ、ふわふわと宙を渡って窓を横切り、室内へとさまよい込んだ。
塔長は、窓を閉めるとその影に背を向けたまま、棚から盃と極上品の酒を引っ張り出してきた。
「やらないかね。……ああ、影では触れられないか」
すまない、と言わんばかりに顔をしかめる。
「いつか君とやりたいと思って取っておいた酒なんだが……実体は近くにないのかね? あるならこちらに来ないか」
「……近くにあることはあるが、この障壁にはじかれるのでな。これ以上は近寄れぬわ」
「そうか……それは残念だ」
仕方なく、差し出した盃を下げる。
「久しぶりだな、ジェラール」
何十年ぶりかに聞く、旧友の柔らかな、くせのある呼び声。ファーストネームで呼ばれるなど、この数十年ついぞなかったことである。影は厳しい表情を崩せず、ため息をついた。
「おまえの口からその名を聞くのは実に久しぶりだ……ザイレン」
「わたしも同じだ」
長は微笑んでみせた。影の口元が、わずかに微笑みを浮かべた。
「ずいぶん老けたな。あの頃はまだ黒い髪だったのに」
「それはおまえも同じだ。すっかり灰色になったな」
「ああ。……わしもずいぶんと年をとった」
「今年で何歳になった」
「七十二だ」
「わたしももう七十二だ」
シュワラジーは、同じように歳を取ってきたこの友に微笑みかけた。ジェラール・ド・セゼルは、時を思うかのようにしばらく目を閉じ、深くため息をついた。
「年を取るはずだ。もう四十年も前のことか」
「お互いにな。……今では我々の子どもたちが、この塔であの頃と同じように学び、育っている」
「同じようにな……ずいぶん人数が増えたものだ」
「ああ、あの頃はまだ十数人だったからな。今は百人を超えているだろう。子供が多いよ、やはり」
「……子供がな。そういえばザイレン、おまえの子供はどうした」
すると長……ザイレン・ド・シュワラジーはふと目を閉じ、窓を見上げた。
「ずいぶん前に亡くなったよ。あれ以来子供には恵まれなかった。妻も……おまえも知っているローアも、しばらく前に死んだ」
「そうか、彼女もな……」
若き日に恋の鞘当てをした美しい娘の面影を思い出す。
「今ではここにいる子どもたちすべてがわしの子供だ。おまえこそ、ジェラール」
「いや、俺は……」
口を濁し、ため息をつく。それだけで長はだいたいのことを想像できた。
「お互いしわくちゃになったものだな。もう少し男前に年を取れるかと思っていたが」
「年を取ることだけは公平だな」
ふふ、と笑いを漏らして、長は茶目っ気たっぷりな表情を浮かべる。弟子たちの前では決して見せない素顔だ。
杯を飲み干す。机においた杯をじっと凝視して、不意に長は立ち止まった。
それまでの旧友との再会を喜ぶ男の表情が消えていく。そのかわりに苦渋に満ちた年老いた魔術師の顔が現れた。
「……ジェラール、わしはおまえに謝らねばならん」
影の方も、急速に空気が冷えていく。暖かかった日差しが陰った。
「四十年前のことを」
口に出す一言一言がずいぶん重く感じられる。
「お前に黒魔術を勧めたのはこのわしだ。わしさえしっかりしておれば、おまえは追放されずにすんだ。……おまえには悪いことをしたと、ずっと思ってきた」
「言うな!」
厳しい一言が飛ぶ。影はゆらりと悔恨に暮れる長に近づいた。
「今さら貴様の哀れみなど要らぬわ! 今さら謝られて何になろう。四十年の時を戻せるなら戻してみるがいい!」
そう詰め寄る影の口調はしかし、苦渋に満ちている。かつての親友を責めながら、自分を傷つけているのだ、この灰色の魔術師は。
「ジェラール、すまない」
「その名で呼ぶな……!」
悲鳴のように叫んだセゼルは、不意に口を閉じ、顔を背けた。
「……それに、貴様のせいではない。わしも知っていた。力と知識とを欲していた。努力しても手に入らぬ力が悔しかった。いくら努力しても、血を吐くほど訓練しても、貴様にだけは届かなかった……貴様にだけは! わしがどれほど悔しかったか、貴様は知っていたか! 貴様との力の差を思い、いくつ眠れぬ夜を過ごしたことか……。あの時わしは、力が得られるなら冥府の王に魂を売ってもいいとさえ思った……貴様を凌駕することができれば……!」
しかし、シュワラジーは怒り悲しむ友の姿をじっと見つめ、やにわに力なく首を振った。
「……わしはおまえが羨ましかった」
激昂していた男の赤い瞳が釘付けになる。
「わしは知っておったよ。おまえが時折向けていた視線の意味を。だが、わしこそおまえに嫉妬していた。おまえは何事にも熱心だった。努力家だった。知ることこそ喜びだとおまえは言ったことがあったな。神話や伝承だけでなく、医学や薬学についてもおまえは詳しかった。おまえほどの物知りは後にも先にもわしは知らん。そんなおまえがわしには羨ましかった。わしは知っての通り、移り気で、努力することができなかった。おまえがいなくなって渋々わしがこの地位におるが、もしあのことさえなかったら、この椅子に座っていたのはおまえだったかも知れぬ、と幾度考えたことか……。おまえが望むなら、わしはこの椅子を譲ってもいいとさえ思っていた」
「……人をからかうのもいいかげんにしろ! 哀れみなどまっぴらだ! おまえに哀れまれるくらいなら、わしは自分でその座を奪い取っておるわ!」
「ジェラール」
「やめろ! ……そういえば、おまえの送り込んできた魔術師がおったな」
苦痛に耐える彼の表情が、一変して悪魔に魅入られた狂気の相になる。
「今頃はわしの仕掛けた罠の中よ。見ているがいい。ザイレン・ド・シュワラジー。おまえの自慢の弟子が潰れるその姿を!」
不敵な笑いが口をついて出る。
悲しげな視線を友に向けるシュワラジーの見守る中、笑いだけを残して影はどこへともなく消えていった。
新連載開始しています。
彼らの五年前を描いた「翠の瞳」
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幼く初々しくお馬鹿な彼らもお楽しみくださいませ♪




