ファローン、神隠しにあう
香しいスープの匂いとつんとしたスパイスの香りに包まれた厨房は、さながら戦場であった。とりわけ今日は館の主の愛でし花、ユーフェミアの婚約者に連なる賓客がお出ましとあって、主の申しつけ通り、昼前からすでに今宵の饗宴の準備が始められている。
がちゃがちゃとすさまじい音が耳をつんざく。それをものともせず、ユーフェミア姫の注文で軽い食事を片隅で作っていた料理人が手際よくパンに卵や肉、野菜を彩りよく詰め込んでいる。
忙しくかけずり回る召使の邪魔にならないようにと入り口で待っていたセインたちに、やがて洗練された茶器と、入れたばかりの熱い紅茶を載せた銀のお盆が渡された。
ファローンは、それを受け取りながらもまだ興味深げに厨房の中を覗きこんでいた。
生まれてこの方……少なくともあの二人について回るようになるまで、厨房というものを見たことがなかったのだ。
「さ、行きましょうか」
おそらく成長期の彼ら二人分も考慮されているのであろう、たっぷり五人前はあるその食事の重みは、セインにとっては慣れたものであるが、金髪の少年にとってはずっしりと重く、ともすればよろめきがちになる。
何せ、この旅に出るまで彼は食事を運ぶということをしたこともなかったのだ。
これまでは王宮で曲がりなりにも王子としての扱いを受けていたし、魔術師の塔でも、王子ということを慮ってか、食事はたいてい他の者が運んでくれた。自分が運ぶ立場になったのはこれが初めてではないものの、いかにお茶をこぼさず運ぶか、という彼にとっての高等技術はまだ持ち合わせていない。
重さと緊張とでよろめきながら、それでも初めて来た館で迷子にだけはなるまいと、はるか先を行くセインを必死で追いかける。セインも時々彼に対して気遣うものの、たいていは先へ先へと行ってしまう。
食堂のある棟から本館へと曲がると、すでにセインの姿は見えなかった。確か自分たちの部屋は三階だった、と一番近くの階段を上がり始める。
自分の体には大きすぎる盆を抱えているせいか、足元が見えなくて何度も怖い思いをした。
こうしてみると、いとも簡単にお盆を抱えてどんどん歩けるセインはすごいな、と思う。そして自分は満足にお盆一つも運べないのだ、と思うとなんだか情けなくなってきた。
お盆が鉛のように重く感じられる。
階段を上り詰めたところで、ついに彼は足を止めた。近くにあったサイドボードにお盆を載せて一呼吸つく。
こんなことではきっと、これからあの二人の世話など出来やしない。帰ったらもう少し体を鍛えて、セインみたいに何でもできるようになろう。きっとまだまだ背が伸びるはずだから。
そんなことを考えながら、両手両足をほぐしてやる。
自分がついてきていないことに気づいて迎えに来てくれはしないだろうか。部屋のある通りに来たはいいが、どの部屋だったか実のところ覚えていない。
ため息をつくファローンは、あたりが急に暗くなったことに気づかなかった。はじめは外が暗くなったのか、と思ったが、窓の外はきれいに晴れている。
そのうち闇はあたりに広がり、ファローンは、わけがわからないなりにもこれが魔術であると気がついた。
闇を振り払おうともがくうちに体からは力が抜け、意識が遠のいていく。
部分的に発生した闇が完全に消えたあとには銀色に光るお盆のみが残されていた。




