父と娘
ユーフェミアがラナリアの屋敷へ戻ったのは、父親の忍耐がそろそろ切れかけた頃だった。行き先は郊外とはいえ街からさして離れていない婚約者のところなのだし、護衛もきちんとつけているのだから心配には及ばないはずなのだが、愛する娘を案じる親心にそのような常識は通用しない。
「……ユーフェミアはまだか」
聞くたびに不機嫌の度合いが増す問いが三度を数えたところに、娘はようやく帰宅した。
「ただいま戻りました。お呼びなのですって、お父様」
婚約者と一緒とはいえ、自分の許可なく外出してはならないと今度こそ厳しく言い渡そうと思っていたザイアスであったが、曇りのない笑顔で現れた愛娘の顔を見た途端、その決意は真夏のバターのように溶け去ってしまった。
「何のご用でしたの?」
無邪気に尋ねかける娘に、ザイアスは威厳を取り繕うと咳払いをした。
「い、いや、今日も綺麗だな、ユーフェミア」
「まあ、いやですわ、お父様まで」
まんざらでもなさそうな娘の様子に直りかけた機嫌は、次の一言で突き落とされた。
「ウェルノール様と同じようにおっしゃるのね!」
頬を抑えて恥じらう娘の目には、もはや恋人しか映っていない。綺麗に結い上げた髪もバラ色のドレスも、みんなあの男のためなのだ。あんな十七歳も年上の男の!
ザイアスの頭からは、この縁談を進めたのが自分であったことなど消え失せていた。
「……様、お父様、聞いていらっしゃらないの?」
「え、ああ? いや、聞いているとも」
「嘘ばっかり! 目が遠くを見ていらっしゃいましたわ」
軽くにらんだ娘の瞳がふっと優しくなった。椅子のクッションに身を沈めた父の前に回り、膝をついて下から見上げるようにする。
「……仕方ありませんわね、お父様はお忙しいんですもの。きっとお疲れなんですわ」
優しい娘の心遣いに、胸が痛くなるほどの愛しさがこみ上げた。目の前にある娘の頭をそっとなでる。
「ああ、悪かった」
絹糸のような銀の髪は昔憧れたものと同じ色だったが、あの頃のように彼を突き放しはしなかった。
「……それで何の話をしていたのだったかな?」
「ウェルノール様の弟君にお会いした話ですわ。昨日、十四年ぶりに帰っていらっしゃったのですって。シルミウムの塔の魔術師でいらして、ずいぶんご高名だとか。黒い髪をなさっているのだけれど、ウェルノール様によく似てらして……」
その先はもはや耳に入っていなかった。
「……それでとても無口でいらっしゃるのよ。……お父様? どうなさったの?」
父の異変に気づいた娘が慌てたようにその手を取った。
「お父様? 大丈夫ですの? お顔の色が……」
「い、いや。大丈夫だ。ちょっと寒くなっただけだよ」
ザイアスの頭の中でシルミウムの名と魔術師という言葉がぐるぐる回る。
いや、まさか。まだ露見するには早過ぎる……。
「待っていらして。わたくし、お薬を持ってまいりますわ」
「いや、お待ち。大したことではないんだ。すぐ治るとも」
心配して駆け出そうとする娘を止める。
そうだ。何を焦ることがある?
だが、まずはあれを呼んで真偽を確かめねば。
「それより、お前ももうお休み。わしもこのまま休むからな」
まだ心配そうにする娘をなだめすかして部屋に戻らせると、モントレーは厳しい顔をして老魔術師を呼び出しにかかった。




