劣等感(コンプレックス)
「……さあ、着いた」
一番上は露天だった。一面の星空。昼間は暑いが、夜になると冷え込んで、つんと澄んだ空になる。そして……。
「……あれが、ラナリア……?」
「ああ、そうだ」
地上に落ちた星々。ずっと城に住んでいてそこから出たことがなかったファローンには初めて見る光景だった。背にした館の他は何もかも闇に沈み、その闇の大海の果てに光の種を集めた湾が見える。ふっと光点のいくつかが消えた。
「もう子供は寝る時間だからな」
一瞬なぜだか分からずに振り向いた少年に、男はいたずらっぽく片目をつぶる。
ああ、そうか。あれは家々の窓から漏れる明かりなのだ。当たり前のことに少年はやっと気がついた。子供だけではない。朝の早い人々はもう眠る時間。やがてあの光の点は一つ一つ消えていき、最後に市壁に灯されたかがり火だけが残るのだろう。
「いつも……お兄さんと見ていらっしゃったんですか?」
なぜか、聞いてしまった。ユレイオンは虚を突かれたような顔をして少年を見た。
「そういえば……あの人を連れてきたことはなかったな……」
口元に手を当ててつぶやいた男を見て、少年は不意にとても悪いことを言ったような気がして真っ赤になった。だが、フォローしようにも言葉が出てこない。
「……別に不仲だったわけではないよ、俺とあの人は」
困った少年の顔に気がついて男は苦笑した。
「むしろ仲がよかったといってもいいだろう。俺は少なくとも兄が好きだったし、ずいぶん大事にしてもらったよ」
ただ苦手ではあるんだが、と小さくつぶやく。あの派手な好みにはついていけない。それがあの人に似合うのはわかる。あの人は自分に似合うものをよく知っていると思う。ただ、自分が同じ場にいるとどうしようもなく恥ずかしくなるのだ。兄に、ではない。その場にそぐわない自分に対して。
その感情が自分の容姿に対する劣等感から生じていたことに、ユレイオンは不意に気づいた。まわり中が銀髪である中、自分一人が黒髪であること……異端であることへの引け目。他の誰も気にしてはいなかったのに、彼一人がこだわっていた。髪と眼の黒は彼の母に由来するものだった。草原の民の出身だった母は、銀髪を尊ぶ気風のこの土地には居づらかったのだろう。ユレイオンが幼い頃に出て行ってしまって、彼にはほとんど記憶がない。だが、鷹揚というより人がいいと称すべき人柄である父は、政治力を必要とする由緒ある名家の主としては失格だったが父親としては優しい人だったし、父の正妻であった義母も、実子の兄と分け隔てなく大事にしてくれた。妾腹であるからといって兄と待遇が違ったという覚えはない。疎ましく思われても仕方のないこの兄でさえ、この上なく愛してくれた。学問にしろ、武芸にしろ、基礎的なことを教えてくれたのは皆、この五歳上の兄だ。何くれとなく気にかけて、口さがない外の世界からかばってくれもした。
周囲が問題にした違いではなかったのだ。ただいつの頃から気づいた事実に彼自身が縛られていた。彼にとって黒であるということは、己が妾腹であること、この家に半分しか属していないことを照明する烙印だった。
それはむしろ恐れだったのかもしれない。必要とされなくなることへの恐れ。愛してくれる人々はいつか自分から離れていってしまうかもしれない。愛されるだけの価値は自分にはないのだから。
だから、己の将来に魔術を選んだのかも知れない。魔術には血筋も容姿も関係ない。当人の素質と努力のみが結果を左右する。たまたま自分には素質があった。それだけだと思っていたが、十四年前、自分は無意識に劣等感から逃れる選択をしたのかもしれなかった。
ばかげているな、と今は思う。容姿の忌避など場所によって違うというのに。地方によっては黒髪こそが正当で、他の色が忌み嫌われる国もある。……南のキレニアや、魔術師の塔のあるファティスヴァール王国のように。
そこまで考えて、ユレイオンははたと隣にいる少年に思い当たった。黒髪が正当である国の金髪の王族。第十王子でありながら、先王に最も愛された王子。その複雑な立場は想像に難くない。だからこそ、能力が未知数の王子の導師として、塔を代表する自分たちが選ばれたのだ。だが、それ以上にこの異端の王子が母国で生き残るには、他に選択はなかったのかも知れなかった。
「……がんばれよ」
柔らかい金髪のあどけない顔に、ユレイオンは昔の自分を見るような思いで少年の肩に力をこめた。




