ファローン、ユレイオンに気を使う
「……ああ、ひどい目にあった」
黒髪の魔術師の漏らした独白はきっと聞いてはいけない種類のものなのだろうと、ファローンは相槌を打つのを差し控えた。相手は何も言わないが、送ろうと思ったからにはたぶんついていけばいいはず、と早々の相手を追いかける。
ウェルノールの趣味で統一された作りは正面から食堂にかけての一角だけのようだ。そこが改修したという場所なのだろう。食堂から渡り廊下を過ぎると、ざらりとした質感の石灰石を使った、ぐっと地味な作りに変わる。ユレイオンの歩みが次第にゆっくりとしたものになった。
「このあたりは……変わらないな……」
声の中に染み入るような懐かしさがあった。見上げると、表情こそ変わらないものの、視線で確認するように四方を眺めやっているのがわかった。
「……昔、ここに住んでいらっしゃったのですか?」
「……ああ、ここで育った」
いつになく穏やかに返答したユレイオンは、見上げる少年の顔に気づくと微笑みに近い表情を浮かべた。あの場を逃げ出す口実に使った代償に、少し案内をしてやる気になったらしい。指さして説明を始めた。
「今食堂から渡り廊下を通ってきたろう? そこから左に曲がれば最初に入ったホールだ。右へ行けば図書室と書斎。私室へはこの階段を上って二階だ」
石の壁にすがりながら螺旋階段を上っていくと、途中に窓が切ってあった。
「昼間ならここから庭が一望できる。今は何も見えんがな」
今は暗い穴でしかない四角の空間を指しながら、ユレイオンは言った。
「塔の上まで登ればラナリアの町の灯りが見えるな。ここから行けるが……行ってみるか?」
ユレイオンの提案に、ファローンは戸惑った。ユレイオンから自分のためだけに何かを提案してもらったのはこれが初めてだった。自分のためにも他人のためにも、必要なことしかない人なのだと思っていた。
楽しみのためとか、気まぐれのためとか、余計なことは考えない人なのだと。
「……余計なことだったかな」
少年の沈黙を拒否と取ったのだろう、彼はらしくもない提案をした自分に腹を立てるようにぶっきらぼうに言った。
「い、いえ! 行きたいです、ぜひ!」
「……そうか」
勢い込んだ少年の返答に気抜けしたようにユレイオンは答え、さっさと身を翻した。
「ではこっちだ」
この人はひどく不器用な人なのかもしれない。つかつかと歩いていく黒い後姿を眺めながら、ファローンは考えていた。
ユレイオンが少年を連れ出した塔は、ずいぶん古いものだった。
「……このあたりは雨ざらしだから滑るぞ。気をつけろよ」
この館が初めて建てられた頃からあるのだろう、もはや役割を果たさなくなった塔は、いい遊び場だったのかもしれない。何やら楽しげに前を歩いていく男を見ながら、ファローンはこの無愛想な男にも少年時代があったのだということに思い当たった。なかなか冒険好きな少年だったのかもしれない。
建物に付属しているとはいえ、もう使われていないものだから明かりも置いていない。ユレイオンがどこからかランタンを調達してきていたが、それがなければ少年は彼の姿が判別できないほどだった。ユレイオンがトレードマークのように着込んでいる黒は夜には周りに溶け込んでしまってなかなか厄介なものだったのだ。彼の場合、髪まで黒かったから、すぐそばまで歩いているはずなのに少年にはランタンに照らされた彼の顔しか見えなかった。
「……わっ」
「馬鹿」
すり減った石段に足をとられた少年に、容赦ない罵倒が飛んできた。だが相手もそれは少年には過大な要求だと思ったらしく、その後は歩調をゆるめて手を取ってくれた。大きな手がすぐそばで支えてくれることは存外安心なもので、無意識のうちに少年の方に入っていた力が抜ける。いつももう一人の導師と言い争いをしているのを遠くで見るばかりで近寄りがたい人だと思っていたが、ずいぶんと暖かい手をしていることを発見した。




