甘いキス
「……夢みたいだわ」
思わず彼女は声に出してつぶやいた。この夢の王子のような人が自分の婚約者だなんて、本当に夢のようだ。
「ひどいな、わが婚約者殿は。私なんて放って一人で夢の世界へ飛んでいってしまうんだから」
言われた側は彼女の思いも知らず、苦情を述べた。
「せっかく一緒にいるのだもの、私も連れて行って欲しいな」
「まあ」
年齢に似合わず子供っぽい駄々をこねる相手に娘が笑う。
「わたくし、あなたのことを考えていましたのよ、ずっと」
「なんてひどい奴だ、とでも?」
「わたくしったらなんて幸せなんだろうって」
正面から見つめる娘の一途な瞳に、青年の顔が苦笑に変わった。
「……かなわないな、お姫様には」
後ろについて体を支えていた腕がそっと上がった。娘の惧れを誘わないようにゆっくりとその手が彼女の背に回される驚きに大きくなった瞳に構わずもう一方の手が少女のおとがいをとらえる。そのまま身を寄せ、そっと唇を重ねた。
軽くふれるだけの、やさしいくちづけ。
「……怖い?」
間近に見つめる薄暮色の双眸。娘はかすかに震えながら首を振った。
「いいえ……いいえ!」
言いながら震えてくる娘の体を抱きしめて、男はもう一度唇を重ねた。
と、突然何の前触れもなく大地が揺れた。地面が飛び跳ね、肩をすくめた。視界がうねり、ぶれる。
立っていられないほどの強震はほんの数瞬で唐突に止んだ。
「……い、今のは……」
青年の腕の中で失神せんばかりの娘がけなげにつぶやく。
「まるで狙ったようだな……まさかそんなことはあるまいが」
青年は口の中でつぶやくと、今度は娘をなだめにかかった。
「ちょっとひどい地震だったようですね。ここは大丈夫ですよ、崩れるものもありませんし。余震でもあると困るからもう少しじっとして、それから町へ戻りましょう。大丈夫、たいしたことありませんとも」
「そう……ですわよね……」
かなりひどい揺れだったとはいえ、草と木ばかりの山辺で、壊れたものと言えばバスケットの中の瓶ぐらいという状況のおかげで、ショックはすぐに収まったらしい。娘は落ち着きを取り戻しつつあった。
「ウェルノール様、ユーフェミア様!」
ようやく従者たちが駆けつける。
「大事ございませんか」
「大丈夫だ、問題ない」
見れば、駆け寄ってきた従者の数が一人増えていた。
「エーリック、どうした」
「お知らせがありまして」
最後に駆けてきた黒髪の青年が、主の質問に答えて懐から封書を差し出した。
さっそく広げて中身を確かめる恋人に、娘は尋ねた。
「何のお手紙ですの? こんなところまで運んでいらっしゃるなんて」
「ああ、これはね……」
青年は手紙を元に戻しながら微笑して答えた。
「弟が帰ってくるというのですよ、十四年ぶりにね」
「まあ、弟君がいらっしゃいますの?」
「ええ、今はフェリスの魔術師の塔にいましてね。なかなか成績もよいらしい。おかげで私はすっかり忘れ去られてしまったかと思っていましたよ」
最後にわずかに現れた幾分苦い響きに、娘は気づかなかった。恋人の弟の帰還に心奪われているらしい。
「……でしたらぜひお会いしたいですわ。紹介してくださいます?」
「喜んで」
うなずくウェルノールに、書信を運んできた青年がそっと耳打ちした。
「お館様」
「……緊急か?」
「……ギーランド様が、承知、と」
「……分かった。ご苦労」
目配せで承知した青年がさっと引き下がる。ウェルノールは婚約者に向かって手をさしのべた。
「さあ、姫。そろそろお開きにして帰った方がよさそうだ。さっきの地震で町がどうなったかも心配ですしね」
恋人の顔を真正面から見て、先ほどの振る舞いを思い出したのか顔を赤らめた娘の手をとって、青年はもう一度魅惑するような笑みを見せた。
 




