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葉崎Guardian  作者: nakoso
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第1話:「友人とノロケと奇遇」

 大東病院の3階、廊下を歩いて最も奥、南向きの日当たり良好な個室に桜田梨香はいた。

 尋絵からは曖昧極まったイメージしか聞いていなかった麻生だったが、まさか翌日に本人と対面するなど思いも寄らない。赤銅に染めた髪は短く、尋絵と同じ長身スリム型。瞳が大きく頬もふっくらしているせいで、21歳の割りに童顔に見えた。無類のマンガ好きだという彼女の性格を、簡易棚に積まれた十冊ほどの単行本が如実に物語っていた。

「昨日買ったんだけど、刺されちゃったじゃない? 読む時間なかったんだよねー」

 6月24日、水曜日。麻生と尋絵が病室を訪れた時、マンガを読みふけっていた梨香は声をかけられるまで2人に気付かないほどだった。積まれたマンガは一度に購入したというのだから、彼女のマンガ好きは筋金入り。

「あ、アソーくん? 尋絵から話は聞いてるよ」

 頬にえくぼを作って笑う女だった。

「初めまして」

「傷、大丈夫なの?」

 麻生の挨拶などどうでもいいとばかりに、尋絵は彼女の容態を憂えた。

「そんなに深く刺されはしなかったみたい。すぐに退院できるって――ほら、こんな感じ」

 と、浴衣の前を開いたものだから2人は仰天した。

「見んな!」

 ごっ。尋絵の拳が麻生の頬にクリティカル。

「オープンすぎるのよ、梨香は」

「別に見せるくらい、いいじゃない」

 まるで親が子をたしなめるような会話だ。床に崩れた麻生が不満顔の頬をさすりさすり立ち上がった時には、すでに浴衣は閉じていた。

「……見た?」

 殺意すら込められた尋絵の睨み。

「見る前に殴っといてそりゃねーだろ」

 見た。

 白い肌の腹部には包帯が巻かれていた。深く刺されはしなかったという話だが、痛々しい事には変わりない。数瞬前の視界を思い返しての、麻生、胸中の一言。

 ――ごっつぁんです。

 下着を着けていない胸は尋絵より大きかった。

「前から刺されたって事は、犯人は見たの?」

 ベッド脇のイスに尋絵は腰を下ろした。イスは1脚しか見当たらず、麻生は壁に寄りかかる事にする。

「ん〜」

 気まずそうに頭を掻く仕草から察するに、見ていないらしい。

「どうして? 前から刺されたんじゃないの?」

 身を乗り出し食らい付く尋絵とは対照的に、麻生は冷静に病室内を眺めていた。

「刺されたのは前からだよ。けど、それは後ろから肩を叩かれて」

 病棟の角に位置しているため、部屋の窓は2つある。南側と東側と、シリンダー錠の付いたスライド式。

「どうして逃げないのよ」

「だって、まさか刺されるなんて思わないじゃない」

 ベッドに隣接する簡易棚。ベッドと向き合う壁には衣類があり、その上にはスイッチの切られたテレビが置かれている。

「現に刺されたじゃない」

「予知とかできないんですけど」

 部屋の広さは、もう1人入ってもまだ余裕があるくらい。広くはないが狭くもない。冷暖房完備。

「で? 振り向いた時に顔を見てないってのはどういう事よ」

「逆光だったんだもの」

 壁から背を離した麻生は、ベッドの足元を回って南の窓に近付いた。3階から望む外界は快晴の下、建造物が軒を連ねていた。

「逆光?」

「電柱の蛍光灯あるでしょ? あれの逆光で見えなかったの」

 窓には落下防止のバーが固定されていた。窓自体は大きいが、このバーをよじ登らない限りは落ちる事などまずないだろう。

「梨香さあ、前もそういう事あったんでしょ? 少しは警戒心っての持ちなよ」

 窓から広場が見下ろせた。入院患者のための憩いの場。女看護士が老人の車椅子を押し、ベンチでは右足にギブスをはめた男がタバコをふかす。

「だよねー」

 麻生が振り向いた時、梨香は苦笑していた。けどさ、と唇が小さく動く。

「私の身に何か起こったとしても、また助けに来てくれるって、どっかで期待しちゃってるんだよ」

 思わず見惚れてしまう、それはそれは綺麗な笑顔だった。

「…………」

 尋絵のため息が控えめに揺れる。言いにくい事を発言する直前の、彼女特有の癖だ。

「……でも、連絡付かないんじゃどうしようもないじゃない」

 現実的でどうしようもなく当然で、何の薬にもならない一言。

「うん、わかってる」

 致命的なところを衝かれてもなお健気に笑う梨香を見て、麻生は何とも表現しようのない思いに胸を締め付けられた。

「こっちから連絡は?」

 衝動的に尋ねていた。

「ケータイに連絡しても全然つながらない」

「根本的な質問、していいか?」

 麻生が交互に見比べた2つの顔はきょとんとしたが、そんなの知った事ではない。

「梨香さんのカレシは、どうして連絡付かなくなったんだ?――ってか、ヒロの言ってた力借りたいって何」

 尋絵と梨香が顔を見合わせる。

「え。尋絵……何の話?」

「梨香の事、こいつに話したのよ」

「どこまで話したの?」

「梨香とカレシの馴れ初め」

「私の事ってか、私とカレシの話じゃない」

「そんな感じ」

「おい尋絵」

「だって最後まで聞いてくれなかったのよ」

 尋絵の不機嫌な視線が麻生に刺さる。

「だから、教えろっつってんだろ」

 負けじと言い返した。

「話の途中で逃避したくせに」

 ぼそっと唾棄する尋絵を、この際無視する事にした。

「梨香さん。話してくんない?」

「私はシカトかよ」

「探してくれるの?」

 不満たらたらの彼女の横で、梨香の顔がぱっと明るくなる。

「怪我した人を目の前にして何もしねえなんて、そこまで非情な人間じゃねえから」

「ありがとう!」

「カッコつけてんじゃねーよ」

「まあまあ、尋絵。やり場のない憤懣は私のいない所でぶつけるって事でいいじゃない」

 ずいぶんとその場限りなあやし方だった。どうせなら尋絵の不機嫌を緩和して欲しかった。

「――私とカレシが出会ったのは高3の時で」

「そっから話さなくていいって」

 桜田梨香の恋人である井延耕佑いのべ こうすけが唐突にその消息を絶ったのは、4日前の事である。仕事を終えて家に着いた時、同棲していた耕佑の姿がなかった。徹夜で麻雀など日常茶飯事であった彼だから、梨香はさして気にも留めなかった。風呂に入って汗を流し体を洗い、部屋に戻ってみれば携帯電話に不在着信が残っている――誰かと思えば耕佑からだった。徹夜で飲んでいる時、ご機嫌になるとこうしてよく電話をかけてくれるのだった。

「それで『愛してる』って囁いてくれるの」

「ノロケかい」

 携帯電話には留守番メッセージが入っていた。耕佑からの着信は2分おきに3件。留守番メッセージも3件。そんなにも愛を伝えたいのかと梨香は恍惚とした。

「あ。鳥肌が」

 だが、留守番メッセージの内容は、まったく異なるものだった。

『梨香。しばらく連絡できそうにないんだ。心配はいらないよ、すぐに片付くから』――1件目。

『言い忘れた。ホテル葉崎に部屋を取ってある。何も聞かないで、梨香はそこにいてくれないか。理由は後で話すから』――2件目。

『梨香? まだ何も起きてないよな? 早くホテルに行ってくれ。そこは危険だから――早く!』――3件目。

 切迫した声音で、息切れしながら訴えていた。

「一言、愛してるって言ってくれてもいいのに」

「彼の身を案じよう。ねえ、すぐに案じよう」

 哀しげにため息つく梨香に早口で指摘。

「アソー。どう思う?」

 尋絵の顔はこちらが心配してしまうほど憂色を帯びていた。なるほど。こんな事態に直面しているのなら、梨香の事を我が身の事と受け取るのも合点がいく。彼女がすがって来た時にけんもほろろに接した自分を、少しだけ後悔した。

「梨香さん。カレシに言われた通りに、今はほてるにいんの?」

「うん」

「刺されたのも、そこで?」

 そうならば、梨香の居場所はすでに突き止められていると考えて良さそうだ。何故彼女が狙われるのかという点は皆目見当も付かないが、ホテルは危険だと思われる――のだが。

「ううん。自宅のマンションの前」

 あっさり否定。

『へ』

 尋絵と声が被さった。

「留守電聞いてから、すぐにホテルに行ったのね。だけど急な話でしょう? 荷物もまともにまとめてなかったもんだから、足りないものを取りに行ったら、ぶすっと」

 ナイフで腹を刺されるジェスチャー。笑えねーよ、なんて無防備な女なんだてめーはと、率直な感想は飲み込むに留まった。

「という事は、すでに家はマークされてるって事ね」

 腕を組んで、尋絵がうなる。

「忘れ物なら、俺とヒロが取りに行こう。梨香さんが戻るのは危険だし。てか、この状況で戻るのは不可能だとは思うけど」

「アソー」

「あいよ」

「病院も危険じゃない? また狙われたりしたら……」

 秋野尋絵という女は、まこともって有人を大切にする人間だと実感する。昨今の病院がセキュリティーを強化しているというのにこの心配ようだ。

 だが、備えあれば憂いはない。

 備えに絶好な人間がいた。

「幸輔に頼んどきゃいいだろ」

「コースケ?」

 梨香が目を丸くする。

「アソーの友だち」

 説明した尋絵が、あそっか、と手を打った。

「梨香のカレシもコースケだもんね。驚く事に、アソーもコースケなんだよ」

「っへ〜〜〜〜」

 麻生をまじまじと見つめて感心する梨香。言われてみれば、3人もコースケが集まるとは大した偶然だ。

「すっげー奇遇」

 梨香に同感。その口が、あ、と開いた。

「――そーいや、梨香さん。恋人のコースケさんってどこの組?」

 参考までに聞いただけ。

「えっと、たしか――」

 ヤクザに首を突っ込むと面倒になるのは目に見えていたし、ましてやそこに飛び込もうなど微塵も考えていなかった。組の名前を聞いたところで麻生には縁遠いものだと高をくくっていた。

「――そうそう。三雲興会(みくもきょうかい)

 梨香が気軽に口にした名は、しかしずっと身近なものだった。



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