第32話:「大東病院、それぞれ」
中庭を目的もなく歩く。夏の太陽は肌に厳しくとも、風は優しい。
井延と並んで歩く今この瞬間が、梨香にはとても幸せに思えた。
「心配かけて、ごめんな」
井延が呟いた。
「これからは、傍にいて守るから」
梨香が見上げた彼の目は、照れくさそうに、あさっての方向を向いていた。
あの時もそうだった。
梨香が、襲われた時。
レイプされかけた時。
果敢にも犯人に挑み、殴り殴られ蹴り蹴られ、相手をのした後――恐怖にうずくまり打ち震える梨香へ手を差し伸べた時。
傷だらけになりながらも差し伸べた時。
「ねえ、耕佑」
井延の手を握って、梨香は足を止めた。手を引っ張られ、立ち止まった井延が振り返ったその顔を、両手で素早く固定する。
「そういう事は、目を見て言おうよ」
井延は少しだけうろたえてから、覗き込む梨香の瞳を見つめて言った。
「俺が梨香を守る」
俺が傍にいて、おまえを守ってやる。
それは、2人の始まりの言葉。
彼の言葉を一言一句残さず吸い込むように、深く深く、梨香は深呼吸した。膨らむ肺が井延でいっぱいになる。吸い込んだ語句たちを零さぬよう慎重に息を吐いて。
「――よくできました」
満面に笑んだ。
手で弄び、ためつ眇めつ眺めた後、麻生はリンゴに噛り付いた。シャクッ――甘酸っぱい汁が舌を濡らし、香りが鼻腔に昇る。
存外、美味。
尋絵はと言えば、イスに座って雑誌に読みふけっている。何をするでもなく、ただそこにいる。
ふと視線に気付いた。窓際のベッドの老夫婦が麻生の様子を窺っている。老婆が差し出したナシを、老人が頬張る――ふっ――勝ち誇られた。
――ハラ立つー。
「ねえ、アソー」
麻生の前に雑誌を置いて、尋絵があくびを噛み殺した。
「退院したら、ここ行かない?」
「どこ?」
「ここ」
尋絵の指が示したページでは、写真やら地図やらコメントやらがカラフルに色めき立っていて、見ているだけで目がチカチカする。
「イベント会場って言うのかな。最近できたらしいんだけど、ちょーっと興味があるんだよね」
地図を見て、それが葉崎市にあるのだと知った。市内とはいえ、内陸地のここと海岸のそこは両端。それでも、車を使えばすぐだろう。
「クラブとギャラリーが一緒くたになってんの。おもしろそうじゃない?」
「んー」
「行きたくないなら別にいいんだけど」
あっさり引っ込められた雑誌を麻生は俊敏に奪い取った。
「行かねえなんて言ってねえだろ」
「じゃ、行く?」
ページに目を通し――目がチカチカ、頭がクラクラ。
「……ちょっと考えさして」
「ちょっとだけね」
ぶっきらぼうに言う尋絵。とりあえず麻生はリンゴをかじった。
視線――窓際の老夫婦はすっかりナシを片付け、麻生を見つめながら硬く手を握り合った――ふん――またもや老人が勝ち誇る。
「何なんだあんたらは」
「――失礼します」
前触れもなく声をかけられ、麻生と尋絵の肩が震えた。ベッドの前にぬっと現れた巨躯は、やはり細木だった。
「……あ」
尋絵の口が小さく動いて、あからさまに警戒する。睨み付ける彼女へ、細木は深々と頭を下げた。
「先日は手荒なまねをして、すみませんでした」
尋絵を拉致した事だと、すぐに思い至る。丁寧な謝罪を受けて尋絵は戸惑っている様子だったが。
「お詫びと言ってはおこがましいとは思いますが」
と言って細木が差し出した紙袋は、彼が持つとやたら小さく見えた。恐る恐る尋絵が受け取ると、相対的に通常の大きさに戻ったそれには、そちらの面には疎い麻生でも知っているブランドマークがプリントされていた。警戒心を解かぬまま好奇心に煽られ中身を覗き、
「……しょうがない。今回だけですよ」
「ニヤけてるニヤけてる」
「え〜?」
「口元を締めろ」
「麻生さん」
「俺にも手土産?」
「卑しいぞ、アソー」
「おめーに言われたかねえよ」
後生大事に紙袋を抱える尋絵を睨み付けた。
「お話があるのですが、いいですか?」
相変わらずの仏頂面ではあるが、何かしらの敵意のようなものは、細木からは一切感じられない。いきなりボコられるといった心配はなさそうだ。
「ああ、見ての通りヒマだし」
「ここでは、その……」
細き程の巨体が言いにくそうにキョドキョドする様は見物ではあったが、麻生から促す事にした。
「屋上でいいか?」
「助かります」
頭を下げる細木。この人物、外見だけが凄まじく先走っているがその実、中身は礼儀正しいらしい。
「それと」
「まだなんかあんの?」
「お連れの方は……」
「ここで待ってんだろ」
「うん、待ってる」
頬の筋肉という筋肉が弛み切った尋絵には、さすがの麻生も引いた。




