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葉崎Guardian  作者: nakoso
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第25話:「記憶 in 脳裏」


 麻生がタケさんと呼び慕う老人は、途方もなく穏やかで、途轍もなく和やかで、比類もなく朗らかだった。

 老人と出会った時、麻生は高校2年生に上がったばかりだった。3つ年上の恋人がいた。学校はサボりがちだった。夜は当然のように出歩いていた。思春期にあって、達観めいた目線で優越を、すべての物事に斜に構えて、皮肉めいた立ち位置で睥睨を、常に持ち歩いていた。

 年上の恋人はブランドであったし、学校に至っては名ばかりのファッションでしかなかった。

 真もって、こまっしゃくれたガキだったと、麻生は思う。

 その日も麻生は堂々と、平日にもかかわらず制服で、マンガ雑誌しか入っていないカバンを肩から提げ、恋人と遊んでいた。昼に待ち合わせて昼食を済ました後にホテルへ直行。行為、休憩、行為、休憩、行為、行為、行為――平日フリータイムをがっつり消化した。

 年上の恋人はステータスであったし、学校なんてものは履歴書を埋めるための文字でしかなかった。

 真もって、性欲に貪欲なガキだったと、麻生は思う。

 その後も麻生は堂々と、平日にもかかわらず制服で、捨てた漫画雑誌分の軽くなったカバンを肩から提げ、恋人と佐岩井公園へと足を伸ばした。時刻は夕刻。時期にやって来る夜闇と、恋人との第2ラウンドを楽しむつもりだった。

 真もって、性欲に貪(以下略)。

 恋人と談笑しながら公園の奥へと入り込み。

 麻生は、老人を見付けた。

 もう少し視野を広げて――5、6人の少年に囲まれてうずくまる老人を見付けた。

 少年の1人が、老人の背中を蹴っ飛ばした。

 手加減なんてない。絶対的な暴力しかない。

 恋人の高感度を上げるためでもあった。

 当時の麻生がケンカっ早い性格のためでもあった。

 ただ、3年経った今でも麻生が憶えている事はそのどれでもなく。

 老人を蹴り付けた少年が笑いながら吐いた言葉。


 ――ゴミが。


 その後の事を、麻生は良く憶えていない。

 気付いた時には、少年たちは全員倒れていた。口を切った少年がいた。右目が腫れた少年もいた。吐瀉物を撒き散らした少年もいた。右足が間接を無視して曲がった少年もいたし、両腕があり得ない方向へ捻じ曲がった少年もいた。

記憶はなくとも、わかりやすい状況だった。

彼らをのした時間などないまま、とりあえず、うずくまったままの老人に声をかけた。すると老人は、がばっ、と起き上がるや、麻生の横っ面をはたいたのだった。小気味のいい音は、さわさわと揺れる葉擦れに紛れた。

2秒たっぷり、何が起こったのか把握できなかった。

「…………」

 我に返る。

「――てめぇ! 助けてもらってそりゃねぇだろ!」

「おめえの周り見てみろ! これが人助けか!」

 麻生が噛み付くと老人は倒れた少年たちを指し示し、

「力を振り回しただけじゃねえか!」

「ああ!?」

「ガンつけるぐれえしかできねえか!」

「んだと、ジジィ!」

「来い!」

 詰め寄った麻生の腕を取った老人の手を、すぐに振り払う。

「さわんじゃねえよ!」

 老人は妙に静かな瞳で、麻生を見つめた。

「手当てしてやるっつってんだ。大人しくついて来い」

 はあ?――右眉を上げて直後、左脇腹を刺した激痛に顔をしかめた。見れば、銀色に光るバタフライナイフが刃を沈めていた。

「ええ!?」

 いつ刺されたのか思い出そうとしたが、元より記憶が飛んでいる。手繰り寄せた記憶の紐はハズレだった。恐る恐る傷口に手を当ててみる。白いシャツを赤く濡らし肌に貼り付けたナイフは現実で、触れた手にはべったりと血が付いた。

 ――クゥン……

 思いがけず、仔犬の声が聞こえた。屈んだ老人は、足元に擦り寄っていた仔犬を抱え上げ、

「傷が悪くなる前に来い。応急処置くれえ、できる」

 大事そうに抱えられた仔犬は雑種で、傷だらけだった。

 そのまま老人を無視し、病院に向かう事もできた。いろいろと面倒な事になるのは目に見えていたが、それが目下妥当な選択だと思った――のだが、麻生は。

「来るのか? 来ねえのか?」

「……行くよ」

 痛みがうずく脇腹を押さえ、ぶっきらぼうに言い放って老人の後に従った。

 歩道の敷かれたその先――人が入るためのものではない公園の奥は緑豊かで、老人はそこに住んでいるようだった。並ぶ木々の中でもひと際太い幹を持つ木の根元にダンボールを組み合わせ、ビニールシートを被せた手作りの家を眺め、感嘆する自分に戸惑った。

 ――ホームレスじゃねぇか。

 胸中に吐き捨てる。老人が身に突けているぼろぼろの衣服から予想できた事ではあった。そして麻生は今、そのホームレスから応急処置を受けようとしている。肉に刺さった異物を早く抜き去りたかったのだが、

「絶対に抜くんじゃねえぞ」

 老人に4回もクギを刺されたため、触れてもいない。芝生にあぐらを組み、手負いの仔犬を抱えている。時折鼻の奥で鳴くそいつの頭を撫でてやると、温かかった。

「ぃよっこらせ」

 ダンボールホームから現れた老人の手には、ワンカップの酒と木箱があった。

「ボーズ。寝っ転がれ」

 仔犬を脇に置いてやり、言われるままにその場で横たわった。

 やっぱ帰ろうか――そう思った瞬間、老人は微塵にも迷いなくナイフを引き抜いた。覚悟もしていなかった激しい痛みに上体が浮く。

「抜くなら抜くって言えよ!」

 しかし麻生の叫びなど気にせず、口に含んだ酒を傷口に吹き付ける。さらに激痛が走り悲鳴を奥歯で噛み潰した。

 ――ぶっ殺ス! ぜってーぶっ殺ス!

 謙虚のかけらもない痛みが脇腹を無遠慮に掻き回す中、ひたすら頭の中で叫び続けた。

「――終わったぞ」

 激痛に殺意でもって対抗し続けたせいで、何をされたのかなんて憶えていなかった。しかし麻生の腹はきれいな包帯で巻かれていて、痛みも幾分か引いていた。

「一発殴らせろ」

 開口一番に言った。

「そんなに痛かったか?」

 仔犬の治療に移っていた老人は、黄ばんだ歯を見せて笑った。

「……ジイさん」

 麻生は、気になっていた事を口にした。

「その犬を守るために、ずっとやられっ放しだったのか?」

 その問いに、老人は答えなかった。

「俺を殴る前に、まず病院に行け。しっかりした治療を受けるのが優先だ。そしたら、殴りに来い」

 麻生としては今すぐにでも殴り倒したかったのだが、老人の手当てを受けながら、痛みを堪える仔犬に見上げられ、気分が削がれた。

「ぜってー殴りに来てやる」

 言い置いて、老人に背を向けた。

「おまえがのした連中も一緒にな!」

 去り際に背後から言われたが、正直億劫だった。面倒だから、救急車を呼んでやった。

 病院で診察を受けた麻生は、医師に驚かれる事になる。

「誰に処置してもらった?」

 老人の応急処置は完璧だったらしい。

「5、6人の少年にボコられてたホームレスのジイさんです。少年の方? ああ、そっちはぼくがボコりましたよ。あっはっは」

 とはまさか口にできず、曖昧に応えておいた。

 その晩、恋人に電話した。公園からいつの間にか姿を消していた恋人は、すぐに出た。

『浩介……なんか、怖いよ』

 そして強制的にフラれた。

「クソ女」

 ぶっつり電話を切られた。

 未練なんてものは、髪の毛先程も生まれなかった。今までがそうであったように、今回も淡白に終わった――ただそれだけの事だった。

 翌日。麻生は早速、佐岩井公園へと足を伸ばした。約束通り、あの老人に一発お見舞いするために。平日のバスは空いていて、制服姿の麻生は運転手に一瞥されはしたが、気にもならなかった。

 バスに揺られ、後方に流れる窓の景色を眺めながら、ぼんやりと思考した。

 ゴミが――たった一言で吹き飛んだ記憶。過去、幾度となく向けられた言葉だった。直接的な暴力に添えられていた単語だった。泣く女もセットだった。

「ごめんね。ごめんね」

 麻生の鼻から吹き出た血を、何度も謝罪しながら女は拭ってくれた。どうして女が謝るのか不思議でしょうがなかった。確実だったのは、麻生の中で芽生えていた殺意が成長している事のみだった。

 麻生の殺意は――しかし果たされる事はなく。

 ゴミが――その言葉と痛みしか教えてくれなかった男は、街を千鳥足で歩いているところをトラックに轢かれた。泥酔していた彼には、赤信号が青信号に見えたらしい。

 窓に、佐岩井公園が映った。

 老人の元に辿り着いた麻生は面食らった。そこにいたのは老人だけではなく、加えて7人のホームレスたちが集まっていた。誰1人として声を発する事もなく、皆一様にいびつな輪となり座っていた。

「おい、ジジィ」

 輪の中心で、昨日の仔犬を膝に乗せた老人が顔を上げ、はっとなった。

 老人は泣いていた。

 仔犬は横たわっていた。口から舌をたらし、苦しそうに浅く速い呼吸に身を揺らしながら。


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