第22話:「そこにある悪意」
「――お願いされるまでもなく、死なせるわけにはいかないのよ。病院内で人殺しがあったなんて笑えないでしょ。ここには血液もあるし、設備も整ってる。その上執刀するのは私よ? それを承知でなお、何かしたいって言うのなら、祈ってなさい」
手術直前でもまぶたの半分落ちた無表情は変化がなかった。毅然と表現するにはいささか頼りに欠ける背中を見送り、手術灯の光をぼんやり見上げる。
「…………」
麻生はどこか現実味のない今をどう受け止めるべきか迷っていた。ついさっき腕をつかんだ人間はすぐに血に塗れ、手術台に乗っている。洋式の便座で紅く染まり、だらりと両腕を下げ、貯水タンクに背中と頭を預けた肢体を目の当たりにした時、世界の境界に立つ感覚を覚えた。
生と死。
それは決して可視のものではなかったが、まるでそこだけ空間を異にしているような、処理のしように困る違和感。五感で感じられる井延の向こう。見えるはずもないのに、麻生は目を凝らした。裂かれた衣服から覗く血肉しか見えなかった。目を凝らした事を後悔した。
そうこうしているうちにトイレに担架が持ち込まれ、井延は便座から引き剥がされた。固まり切らずにまだ流れる血液が、彼の指先を伝って床に赤を描いた。
――てっちゃんか、細木か……
もちろん、他の人間である可能性だって否定できない。勅使河原は帰ったのだし、細木はきっと、病室から動かない。三雲興会の人間で、井延を知っていれば誰でもいい。
力づくでも病院から引き離すべきだったと、今さらながら後悔した。
「コーちゃん」
呼ばれて振り返る。幸輔が小走りで駆け寄った。
「ごめんごめん。なかなか収まりが付かなくて」
「もう済んだのか?」
「そりゃもう、キレイさっぱり。後腐れなく」
「そいつぁ良かった」
「体重が2キロぐらい減った気分だよ」
以上、大便トーク。
「井延さんは?」
幸輔は手術灯を見上げ、憂慮の色を浮かべた。
「忍足姉さんが執刀中。大した自信を持って入ってったところ」
「そう」
「幸輔。ちょっくら三雲興会に行って来るわ」
麻生の発言に、幸輔の憂色が驚愕に変わる。
「どうしていきなり?」
「井延を刺したヤツの面を拝みに行って来るんだよ」
「……その事なんだけど」
「?」
何やら言いにくそうに、控えめに口を開いた幸輔に麻生は怪訝を覚えた。
「いや、最初っから言えば良かったんだけど、なんてーか、言いそびれたって言うか」
視線をあちこちへ飛ばしごまつく彼に苛立つ。
「それ、今じゃねぇとダメな話か?」
「たぶん、井延を刺したの、三雲興会の人間じゃない」
何言ってんだこいつとあからさまに軽侮した目で見た。
「……は?」
「忍足さんに言われたんだ」
そこで麻生は始めて、林航助という人物を知った。
忍足と2人っきりで話した事を述べ終えた幸輔の肩に、ぽんっと手を置く。
「幸輔」
ドロップキックを放つ。
吹き飛ぶ幸輔。
「そういう事ぁ早く言えぇ!!」
言うが早いか駆け出し、転がる幸輔の体を跳躍。痛覚に顔をしかめながらも慌てて起きた幸輔が後を追う。
「だって話す機会なかったろ!?」
「機会くれぇ見付けろ! どうしてさっき話さねぇんだよ!」
「漏れそうだったんだ!」
下世話な主張。
「バカ! バカバカバカ!」
「ところで! どこ向かって走ってんの!?」
「どうしようもなくバカ!」
「どうせ俺はバカさあ!」
「ちょっと考えりゃわかんだろ! その林ってヤツが井延を刺したのはどうしてだ! きっと梨香を刺したのもそいつだ! 刺した理由は!」
「井延さんは……梨香さんの恋人だから?」
階段を駆け上がる。危うく老婆にぶつかりそうになった。
「梨香を刺したらどうなる! どこに運ばれる!」
踊り場で麻生の身が翻る。1秒遅れて幸輔も翻す。彼が言わんとするところがわかった。
「病院!」
葉崎市の有する緊急病院は大東病院しかない。救急車で運ばれるとすれば、ここしかない。
「それが林の計算だったんだよ! 自分の領域である病院にまんまと引き込んだんだ!」
「梨香さあああああああん!」
跳び出した3階の廊下に幸輔の悲鳴が轟き渡る。信じられない加速を見せた彼の足はすぐに麻生を追い抜いた。
「速っ!?」
幸輔の目は梨香の病室しか見えなかった。その手がドアノブに伸びる――
――ばんっ!
「――あはははは!」
ベッドの上で、テレビ番組を見ながら手を叩き爆笑する梨香。麻生に気付くと不思議そうな顔をして聞いて来る。
それは先日にもあった杞憂。
どんっ――体に乗せた速度を殺し切れずに、麻生が衝突した。
「おまっ、急に立ち止まるんじゃねぇよ!」
体がわずかに揺らいだだけで、幸輔は何も答えない。呆然と注ぐ彼の視線を辿る。
シーツの乱れたベッドを残し、梨香は忽然と姿を消していた。
「梨香さん……」
「落ち着け、幸輔」
その場にへたり込んだ幸輔の頭に触れ、麻生は部屋に入った。
「まだ、そうだって決まったわけじゃねぇだろ。トイレに行ってるだけかもしれねぇ」
それが気休めにもならない事だとわかってはいた。簡易棚に積まれていたマンガが乱雑に転がる床をよけ、ベッドに寄った。見てわかるほど、ベッドは正位置からずれていた。
腕を引っ張られ、必死に抵抗する梨香の姿が脳裏に投影される。
――くそっ。
舌打ち。シーツを苛立ちと力任せに引っ張った。何の重みも持たない布が麻生の視界で舞い――コトン――何かが床で鳴った。




