第8話:「4th K.」
「――ちょっといいかしら」
ノックもせずに忍足女医が現れた時、幸輔と梨香は仲良くバラエティ番組に笑い転げていた。
「あ。俺、ちょっと外すね」
忍足と梨香の顔を見比べ、席を立った幸輔だが、
「用があるのはキミ」
相変わらず眠そうな瞳は意に反して彼を指名した。
「行ってらっしゃ〜い」
梨香が呑気に手を振って送るのを背に、忍足と一緒に部屋を出る。窓の外はとうに暗く、蛍光灯で照らされる病院の廊下は学校のそれを彷彿とさせた。ただ学校とは違って、清潔感に神経を集中させている感があるのだが。
現在午後7時半を回ったところ。病棟内には時間を持て余した患者の談笑や、トイレへ向かう姿が多く見受けられる。そして驚く事に――その患者たち全員に忍足は声をかけた。
「おばあちゃん、腰はどう?」
「薬はちゃんと飲んだ?」
「おじいちゃん。もう若くないんだからはしゃぐんじゃないよ」
表情こそ変化はなかったが、聞いた事もない柔和な声で1人1人に話しかけ、患者が笑顔で応えてくれる、その姿は紛れもなく医者だった。
怖く見えるだけだよ。
梨香の言う通りだ。歩み寄れば案外いい人なのかもしれない。
「慕われてるんですね」
となりの病棟につながる渡り廊下を歩きながら、幸輔はその背中に言った。
無視された。
――梨香さぁぁぁん!
息苦しさに助けを求めた。
となりの病棟は外来病棟だった。こんな所に連れ出して何のつもりだろう。受付時間をとうに過ぎた病棟内は消灯されており、非常口を示すグリーンの光源だけが残る中、2人の足音だけが不気味に響く。
「この病院の診療室、担当医ごとにボックス部屋になってんのよ」
緑色のソファが並ぶ待合室を横切って、忍足の足が止まった。廊下の両脇にスライドドアが何枚も並んでいる様は、薄闇に浮かび上がっているようで気味が悪い。すべてのドアには大きく番号が記されていた。患者を呼ぶ際に、診察室の番号で招くシステムらしい。
「病状やカルテも立派な個人情報だから、密室で診察するの」
7番のドアをスライドした忍足が、診察室の明かりを付ける。
「何してんの。早く入りなさい」
促されるままに入室した。蛍光灯の光に目を細め、ドアを閉める。
「座って」
さらに促され、一見して高価なものとわかる、背もたれ付きの黒革イスに腰を沈める。こんなにも座り心地抜群なイスで診察を受けるのかと、幸輔は戸惑った。
部屋は4畳ほどの広さ。忍足が座るデスクにはパソコンと、レントゲン写真を見るためのディスプレイがあり、あとは幸輔の座るイスだけが用意された簡素な部屋だった。
「ここなら、話は外に一切漏れない。この意味がわかる?」
優雅に、忍足の長い足が組む。
「この意味って……」
今さらながら幸輔の胸がざわめいた。主治医とその患者の友人が密室で話すなど、これではまるで……
「……もしかして、梨香さんの身に何か……」
「彼女は健康そのものよ」
即答はうれしいが、せめて表情に変化がほしい。
「まあ、その梨香さんに関係する事なんだけど」
デスクに肘を突き、メガネの奥の双眸が――一瞬にして鋭利に変わる。
「エロエロパラダイスって知ってる?」
「…………」
「…………」
「…………今、何て言いました?」
「エロエロパラダイスって知ってる? って聞いたの」
端正な無表情で何を言うかこの人は。
「……なんですかそれ」
「これなんだけど」
白衣の胸ポケットから取り出した名刺カードを幸輔に差し出す。ド派手なピンクにこれでもかとハートマークを散りばめた――いや、詰め込んだデザインの紙に、丸文字で印字された文字。
『エロエロパラダイス エリカ』
「梨香さんが所持していた物よ」
「勝手に取っていいんですか」
「もらったの」
幸輔の冷静な突っ込みをものともせずに返した。
「かわいいわねって言ったら簡単にくれたわ。――で、もう1枚」
再び胸ポケットに指を入れる。次いで差し出された物も同じものだったが、こちらにはキスマークが付いていた。
「なんで2枚も持ってるんですか」
「キスマークの方は同僚が落としたものよ」
「はい?」
驚き手元の2枚を見比べる。
「同僚って言ったら」
「そう、ここの医者」
顔色ひとつ変えずに忍足は言いのけた。
「その白衣から落ちたのを拾ったの。正直げんなりしたわ。こんなとこに行く男と、そのネーミングセンスゼロの店名に」
「後者はどうでもいいでしょ」
「もっと捻りようがあるでしょ」
「俺に言われても……」
真っ向から責められても困る。
「そこでお願いがあるんだけど」
話題の移行は早かった。
忍足という女、無頓着と言うよりもあっさりした性格のようだ。
「可能な限り、梨香さんを外に出さないでほしいの」
言われて逡巡。
「それは……同僚に会わせると良くない事でもあるんですか?」
「良くない事しか残らない」
不気味極まりない事を口にし、忍足は背もたれに寄りかかった。
「そこまで」
キスマークのカードを指先で弄んだ幸輔は、
「人目のない所で、その男がキスマークに口付ける瞬間を見たし」
すぐさま壁に投げ付けた。
「梨香さんが入院してるなんて知ったら何するかわからない」
床に落ちたカードを追う忍足の目には懸念ばかりが映る。
「わかりました」
背筋を這う悪寒と、夏だと言うのに立つ鳥肌と、胃を覆った吐き気を抑えながら、幸輔は頷いた。
「お願いしたわ。私独りじゃ守り切れないから」
安堵したのか、わずかに彼女の唇が緩む。
「今日は彼、当直じゃないから安全よ。それから――面会時間は7時までなんだけど、あなたに限ってそこは目を瞑る。事情が事情だから、彼女のそばにいてあげて」
彼女と口にした忍足の語調に何か引っかかりを覚えたが、すぐに気のせいだと考え直した。
「で、その男の名前は?」
「林航助」
これで、コースケは4人目だ。




