第一章 ~死ねない・君~ 8
「ありえないわ」
そう言って紙パックのミルクティーを一気に飲みほす、雫。そして、あまりにも長く吸いすぎたため、ストローから口を外すと、大きく息を吐いて、
「ありえないわ」
もう一度そう言った。
現在は昼休み。朝のホームルームで言っていた持ち物検査を終え、俺のクラスの一角で、霧と雫とともに昼食を取っていた。
「妙に苛立ってるぞ、雫」
一応知らせてみる。だが雫はそんなことお構いなしに、今度は弁当を食べ始めている。それはもう、がつがつと。
明らかに雫はむしゃくしゃしている。それはあの紅染リオンにバスケで負けたからだろう。それも屈辱的に。
だがしばらくすると箸を止めた。そして真剣な眼差しで話し始める。
「私がそこらへんの生徒に運動で負けるなんてありえない。経験者でも私は勝てる自信があるわ」
それはなんとも凄いことで。そこらへんに運動部の人がいたら恐ろしいことになっていただろうが、幸い教室には現在人が半分もいない。皆、おそらく学食に行ったのだろう。うちの学校には狭いながら学生食堂があり、そこで昼食を食べる人も少なくはない。しかしクラスの半分が学食に行くなど、珍しすぎる。
しかしその理由は明白。それは紅染リオンが昼食をそこでとったからだ。先ほどのバスケで一躍スターになった紅染リオン。彼女は初日で弁当を持ってきておらず、学食で食べようとしたところ、多くのファンが一斉に群れを成し伴っていったのだ。
「前の学校でバスケ部だったんじゃないのか? それでこっちでもバスケをやろうと思ってるとか」
「授業の始め、彼女の話を聞いたけど、部活は今まで何もやっていなくて、今後も入る予定がないそうよ」
雫は溜息を深くつく。
今までに雫を出し抜く輩など存在しなかった。まぁ霧も同様だが、今は置いとく。それを帰宅部の何もしていない女の子にあっさりと負けてしまったのだ。
「まぁ上には上がいる。力には更なる力に負ける。そういうこともあるだろ」
一応、慰めではないがそう言っておく。だが雫はどこか悲しそうな顔をしていた。
「それは『相手が同じ土俵に立った上』でよ」
「は?」
そしてよくわからない返答をさせられた。
すると突然携帯のバイブ音が鳴る。
「ん?」
慌ててそれを取り出したのは、さっきから終始無言で弁当を食べていた霧だった。
「ちょっとスマン」
そう言ってメールの内容を確認している。その表情はどこか曇っているようにも見える。霧はそれを見終わると、パタンとその折りたたみ式の携帯を閉じて、ポケットにしまった。
「雫。今日の夜、帰ってくるらしい」
「……そう」
内容を雫に話す、霧。帰ってくるということは、外国の両親が戻ってくるということだろうか。
「なんだ、親御さん帰ってくるのか?」
俺がそう聞くと、雫が笑う。
「うん、まあね。だから今日は早く帰らなくちゃ。ね。兄さん」
いや、違う。無理矢理笑った。雫はどこか辛そうな表情をしている。霧の方もどこか陰鬱な様子である。
そして俺は少しの違和感と不安が胸に刺さっていた。
放課後。さっき言っていたように、霧は授業が終わるとすぐに帰って行った。それこそ俺に挨拶もせず速やかに。おそらく隣のクラスの雫も同じように帰ったのだろう。
俺は毎日霧や雫と共に途中まで下校していたが、今日は一人だった。
「なんか、さみしいな」
思わずそう呟いてしまう。こう見ると俺は雫や霧しか友達がいないように見えるが、断じてそんなことはない。だが他の人たちは皆、部活や塾などで今日の雫や霧のようにそそくさと帰ってしまい、現在教室にいるのは、話はするが下校をともにするほど仲がいいと言えるほどの友人ではない人たちだった。
なので必然的に俺は一人で学校を下校しなくてはならない。
「さて、帰るか」
そう思って、身支度をしていたが、あるものに気づく。それは一冊の数学のノート。
「あ、そういえば今日までの課題、最後まで終わらせてなかった……」
そう。今日は数学の課題の提出日だ。まだあと数問残っていたので、それを今日、空いた時間でやってしまおうかと思っていたのだが、いきなりの転校生の登場、さらには彼女が来て早々『雫討伐伝説』を打ち立ててしまうなどの大波乱があったため、そんなことをすっかり忘れていた。
「しょうがない。居残って片づけちまうか」
人の少ない教室。俺はそこで一人、その数学の問題を終わらせることにした。
「よーやく終わったー」
ふぅと一息つく、俺。短いから楽勝と思っていたが、かなり難しい問題だった。おそらくこういう課題のセオリー通り、難しい問題は後に控えていたらしい。今度からはもっと前もってやっておこう。
時刻はだいぶ進んで六時。気づくと教室には俺しかおらず、まだ日は暮れていないが、徐々に暗くなり始めていた。
「さて、提出して帰るか」
俺は荷物を教室に置きっぱなしで、職員室へと向かう。また後で教室に戻ってくればいいだろう。
そう思い、俺はガラガラと教室のドアを開け、ノートを提出しに行った。