第六章 ~知らない・程~ 1⇔
『昔々』という言葉で始まるのは大抵昔話であり、さもあれば、つまりこの二百年以上も前に紡がれた話にも十分に対応できる文句である。
昔々のこと。西洋の或る街で、一人の女の子が生まれた。なんの変哲もない、ただ少しだけ負けず嫌いで根気強い、女の子だ。
家柄はというと、さしでがましく裕福ではないが、まともな水、食事が採れるぐらいのお金はあった。兄弟は兄が一人に、後、弟が一人生まれ、三人兄弟だった。
しかし覚えているのはそれだけ、家族の記憶など、とうの昔に、絶望と苦渋によって摩耗してしまったのだ。
勿論、その少女が、だ。
ふと、目を覚ますと、そこは暗い部屋だった。自分はしっかりとベッドで寝ていたはずなのに、今は固い床の上にいる。
「何、これ?」
両手首、両足首を縄で縛られ、身動きがとれず、その場に横向きで倒れている自分が、そこにはいた。
少女はその時十五歳になっていた。そのぐらいの年齢だから思考能力がないわけがないのだが、この状況はまともな思考がある故に混乱した。
壁には多くの血痕が。床には大きな紋様が。
不気味すぎるその場所。少女の思考能力が行きついたのは、夢か、又は魔女の住処という答えだった。
しかし後者はさながら間違いじゃないことを思い知らされる。
「やれ、やっと起きたかい。別に眠ったままでもよかったが、なにせこれは実験だからね。鼠がどのような反応を示すかどうかも立派な実験結果だ」
其処にいたのは魔女だった。いや、決して形容なんかじゃない。本当に其処にいる、その人物は魔女そのものなのだ。奇怪に垂れ下がる鼻。細長い顔。そして、不気味な黒い装束を身に纏った老婆。この人を魔女と呼ばなければ、それは一体何処にいるのだろうか。
「……アナタはだれ? ここは何処?」
声を震わせながら、少女は尋ねる。それも当然だ。この状況で恐怖を覚えない人物は同じ魔女か、はたまた離人症患者かのどちらかだ。
「一度に二つも質問するんじゃないよ。まったく、頭が痛くて困るねぇ。まず、私が誰かって? 私はメシア・テレーズ。願わくば人知を超えた生を欲する者だよ。そしてここはねぇ、貴方の出産所よ」
いっひっひと奇妙な声を張り上げる、メシア・テレーズ。
無論、この場所がこの少女の出産場所なはずがない。ここは少女にとって始めて来た場所だ。
ならなぜ、この場所がその少女の出産場所なのか?
「不思議そうな顔をしているねぇ。まるで、どうしてここが私の出産場所なのかって顔だ」
さぞ愉快そうに、メシアは笑い続ける。
少女の目には涙が溜まっていた。
ただただ、恐怖が襲ってきているのである。どんな言葉でも言い尽くせない、絶対的な恐怖が。
「出産って言うのは産み出すこと、又、生み出すこと。つまりは生を作ることさ。お前は今日、ここで生を手に入れる。無限の、生をね」
限りの無い死。要するにそれは、不老不死。
少女はこの状況が飲み込めなかった。
なぜこんなことになっているのかということも。
なぜ自分なのかということも。
「嬉しいでしょうよ。なにせ一生死なない。それに一生歳をとらない。素晴らしいじゃないかい。お前は今日から人を超えるんだ」
しかし、つまり、それは、人でなくなるということ。
「なに。お前が成功したら私もそちらへ行く。用心深い性格でね、私は自分の術に疑いを持ってるわけではないが、少しでも結果が欲しいんだよ。だからお前に先に行ってもらうことにする。そこで死を超えた場所を見てくるんだね」
メシアはその少女から離れる。するとそこの床が光り出す。
「いや……」
少女はその魔女の靴を見ながら、かすれた声でそう言う。届くはずのない、無意味なものだと知って。
「やだよ……。何で……」
何で自分なのか。少女はそれだけを思い続ける。
――神様、どうしてですか。
光が少女を包む。そして、その後に激しい赤が目の前を覆う。
――なぜ私なのですか。
どこかにいた。どこでもない。どこかにいた。
――貴方が人間を憐れむのなら。
何かを通り過ぎた。今のはいったい何だったのか。
――どうか、教えてください。
そして、また戻ってくる。
――ああ。そうか。
その少女は――
――でも私は
もう人じゃなかった。