第三章 ~落ちない・泥~ 9
雫の乱心状態をどうにかなだめ、現在は最後の授業が終わったところだ。昼休みからここまで、雫と紅染のいざこざを起こさずに過ごすことができた。
平和という文字が頭をよぎる。なるほど。こういうことが素晴らしいということか。
そんなことを思いながら、ほっとして帰る支度をしていると、突然、白木先生が入ってくる。
いったいどうしたのだろう。ホームルームはたいてい朝にやってそれきり。後は何かの連絡などがある場合のみこうやって先生がやってくるはずだ。
そうすると先生はそのまま教壇へと行き、皆を注目させる。
「皆さん、聞いてください。一昨日連絡網を回した笹江君のことですが、残念ながら、未だに見つかっていません」
そして沈黙が訪れる。それを聞いた時、俺は背筋に何かが這い上がってくるような感じがした。思わず紅染を横目で見てしまう。しかし彼女はいたって平然な顔で座っている。
「誰かどこかで見たとか、どこに行ったか知ってる人とかはいますか?」
視線を動かす生徒たち。知っている人は誰もいない。
いや、俺と紅染は知っているのか。アンデッドが関係しているこの事件。しかしそれは信じてもらえるはずもないこと。
虚しくそこにある一席。そこにいる生徒はいったい何人その席を見て、畏怖の念に駆られたのだろう。
「……わかりました。もしかしたら何かの事件に巻き込まれた可能性もあります。いいですか? 皆さん、夜遅くに出歩かないように気を付けてください」
そう言って、白木先生はため息を漏らしながら教室を出ていった。相当まいっているようだ。少しだけ青ざめた顔をしていた。
徐々に活気が戻ってくる教室内。しかしどこか張り詰めている空気。
このままじゃいけない。何とかしてアンデッドを見つけ出さなければ。
俺はそのまま鞄に荷物を入れ、帰る準備を進めていく。早く帰って、また紅染との探索を、今度はもっと密度を濃くやらなければ。俺がそのように考えていると、前から霧が話しかけてくる。
「悪いな、カイト。今日も、俺、ちょっと用事が出来ちまった」
笑いながらではなく、霧は真剣にこっちを向いてそう言ってきた。
「そうなのか。だけど俺も用事だ。残念だが今日もラーメン屋はおあずけだな」
俺はそう言いながら、鞄を持った。
「それじゃ、また明日な」
最後に挨拶をして、俺は教室を出ようとする。
「ああ、またな」
そしてそのままそこを去った。紅染をちらと見るとまだ帰る支度をしているところだった。
紅染が遅くなっても構わない。それでも俺は、どうしても早く行動をしなくてはならない気がして、しょうがなかった。
帰って公園に行くと、紅染はもう到着していた。結構な速さで学校から家に帰ったはずなのに。
「悪い。結構早く来たつもりだったんだが」
「いえ、早いわよ。私も今来たところだし」
いつも通りの口調でそう言う、紅染。とにかく急いで、探索に入らなくては。
「じゃあさっそく行こうか」
俺がそんな風に言うと、紅染は腕を組みながらこちらを見て一歩も動かない。いったいどうしたというのか……?
「何してんだ紅染。早く行くぞ」
しかし一向に動かない。時間がないのに何をしてるんだ、いったい。
「おい、紅染。どうしたんだよ」
そう言うと不機嫌そうに、紅染は俺を一瞥する。
「いえ、別に。ただ貴方、今、凄く怖い顔してるわよ」
「え?」
いきなりそんなことを言われて、思わず驚いてしまう。俺が怖い顔をしている?
「まぁ大方、さっきの教師があんなことを言ったせいで、それを早くどうにかしなくちゃいけないという強迫観念に動かされているのでしょうけど」
俺の心中を言い当てられる。それに少し、動揺してしまう。
「それがどうしたんだ。当り前だろ。笹江がいなくなった原因を知っているのは俺とお前だけなんだぞ。早くどうにかしないと、また被害者がでちまう。だから、早く探さないと……」
不安。焦燥。恐怖。俺の背中に圧しかかってくる、それら。そうだ。『知っている』俺たちがなんとかしなくちゃいけない。知らないやつは知らないんだ。『知っている』人がどうにかしなければ、知らない人たちが襲われる。だからどうにかしなくては。早く探さないと。早く、早く、早く……!
瞬間、俺の頬を、冷たいものが打ちつける。勢いよく。痛いほどに。
「……」
何もしゃべれなくなる。何が起きたのかも、その時理解できなかった。
気づいたのは、紅染の目を見た時。そう、それは紅染が手のひらで、俺を思いっきり叩いたのだった。
眼光鋭く俺を見る、紅染。その眼は怒りと悲しみを同時に抱いている。
「いい加減にして、カイト。私が言いたいのは、そうやって背負いこんじゃうと、逆に見えてるものまで見えなくなってしまうってことよ」
その言葉にはっとした。紅染の言う通りだ。今、俺は焦りから冷静さを欠いていた。このまま探索をしても、おそらく俺は何も見つけられないだろう。
「……ごめん」
俺は心から謝罪する。気づくべきだった。俺がいくら気負いながら行動しても、状況はいい方向へと向かない。逆に悪くなってしまうのだと。
俺が謝ると、紅染は微笑みかけてくる。
「理解したならいいわ。早く行きましょ。焦らずに周りを見ながらね」
そう言って、歩き出す。そうだ、焦らない。よく周りを見る。
時間は五時ぐらいだろう。太陽は日に日に高くなっていて、まだ太陽は沈まない。俺は雲一つない空を眺めて、気持ちを落ち着かせた。
そして公園から出ようとした時、俺はようやくあることに気づいて、歩を止める。なるほど、これが見えていないってことか。
「紅染」
俺がそう呼びかけると、振り向いてくる。
「その服、いい感じじゃないか」
彼女は満足そうに笑いかけてきた。