第三章 ~落ちない・泥~ 8
「で。私に何か用なの?」
今は昼休みの後半。俺と霧は雫を追って屋上まで来た。幸い、日の強い屋上には人は誰もいない。
このまま知らないふりをするのもどうかと思ったので、雫をなだめようとしてそこまで追いかけた。
しかし彼女の機嫌は芳しくない。青筋を立てながら、俺をさぞ蔑むような眼で俺を見ている。
「何か用じゃない。さっきの見てたぞ」
俺がそう言うと、さらに鬱蒼とした表情を見せる、雫。今までに類を見ないほどの不機嫌度だ。
「だったら私が凄くイラついてるのぐらい分かるでしょ? だから今は話しかけないで」
そう言ってそっぽを向いてしまう。これは沈めるのにいささか時間がかかるな。
「飲み物を間違ってこぼして、それでたまたまそこにあの雑巾しかなかったんだろ? なら仕方ないんじゃないか? 相手だって悪気があってやったわけでもなし、むしろ善意の方が多く見受けられる」
「何、カイト? あなた、あの子の肩を持つの?」
その圧力に押し倒されんばかりの殺気を俺に向けてくる。……ぐっ。ここで負けてたまるか。
「そういうことじゃない。確かに相手にも非があった。でもそれをどうにかしようとしてたし、その自分の非をお前に謝ったんだろ? ならこれは故意じゃないんだから、何もそこまで怒らなくてもいいじゃないかと言ってるんだ」
しっかりと道筋を立てて説明してやる。しかし雫の耳は一向に俺の話を聞く姿勢を取ってくれないらしい。
「そういえば、カイト。あなた何やら変な噂が飛び交ってるらしいじゃない」
心臓が一拍ほど速くなったような気がした。
「な、何がだ」
「だから、紅染リオンとの関係よ。なんでも最近登下校を一緒にしてるとか」
「な……それは断じて噂であって、俺と紅染は付き合ってなんか……!」
「私、「付き合ってる」なんてことは言ってないんだけど」
「あ」
自ら墓穴を掘る。そのせいで俺は固まってしまい、何も言えなくなる。
「……ばか」
そう言って、雫はまた顔をそらしてしまう。……だめだ。完全なる敗北(自爆)。
「霧……後は任せた」
「……ああ。お前の雄姿は忘れない」
俺は地面に体育座りをする。そう。これがみじめなる敗者の姿だ。
「さて、雫。いい加減、機嫌を直せ。確かにあっちの方で最初にことを起こしたのは事実。相手の謝り方にも問題があったのも俺が見て思った。でもな、そこでお前一人が腹立てて怒鳴ってたら、どう考えてもお前は幼稚に見えるぞ」
霧のその言葉に、ひょこりと髪の毛が少し動く。動揺してるのだろうか。
「考えてもみろ。ピーピー鳴く雛鳥が巣の中にいる光景を。あいつらはいつも餌を待って鳴いている。それは人間でいう我儘に相当するだろ? 早く飯をくれー飯をくれーって。それを親鳥が、せっせと持ってくる。それは親鳥が『親』というその『子』より優れた存在だからだ。これは優れた者は一歩冷静になって、下の者を見るという典型例だ。そしてお前は雛鳥、紅染は親鳥だ。優れた方は冷静に物事を見つめ、下の者は騒ぐだけ」
さらにピクピクと髪の毛が動くのが見えた。
「どういうことかわかるよな? つまり、お前は、紅染に、子供と同じように見られていたということだ!」
突き刺さる衝撃。それを聞いて、がーんという効果音を響かせながら、その場に膝をついてしまう。いくらなんでもオーバーな……。
しかし流石、霧。伊達に兄という立場ではないな。誇らしげ親指を立てている。
「いいか。わかっただろ。だからいい加減に、不機嫌になるのは止めて……」
「ええ。わかったわ、兄さん。要するに、そこまで私を馬鹿にしていたということね」
「へ?」
目を点にしている、霧。そしてフフフと蘇ってくる悪魔。
「あ、あの……雫?」
「つまり、謝るふりをして、内心では嘲笑ってたのね。「可愛い子。こんな大勢の人の前で騒ぐなんてホントにおこちゃま。しょうがないから今度はミルクでも買って謝ろうかしら。ちゃんと哺乳瓶に入れてあげてね。あっはっはっは」……許さないわ、あの女」
黒いオーラが……黒いオーラが滲み出てる……! どうするんだ、霧。またお前の話術でどうにか……。
見ると、霧は、俺の横で体育座りをしていた。
「おいー! 何戦線離脱してるんだ! まだ戦いは続いてるだろ!」
身体を揺らして霧に呼びかける、俺。
「ここで問題です。世界は上り坂と下り坂どっちが多いでしょう。正解は上り坂です。俺の人生はいつも上り坂だからです」
そんなこと聞いてないから! と、あれこれしてる間に、雫は教室に向かおうとしている。驚異的な不吉さを醸し出して。
昼休み。俺と霧は暴走する雫を説得するのに、全ての時間を費やしてしまった。
結局、霧はもちろん、俺まで昼飯抜きになってしまったのは言うまでもない。